第2章 Side-A:さらなる出逢い

 土曜日。

 その時、精神的、肉体的疲労のダブルパンチに加えて二日酔いで沈没状態の北条柾木の目を覚ましたのは、土曜の昼近く、カーテンを開け放したままの窓から差し込む、うららかと言うには強烈な春の日差しと、諦め悪く何度も鳴らされるインターホンの相乗効果であった。

 一体何がどうなっているのかまるで状況を把握出来ず、ノロノロと起き上がって初めて、北条柾木は自分が着の身着のままで床に突っ伏して寝ていた事に気付く始末。硬い床に不自然な格好で転がっていたせいだろう、体中が痛む。

 何故自分がそんな状態で寝ていたのか全然思い出せず、というか思い出す努力もせずに、それでもまだ諦めずに鳴り続けているインターホンを止めようと、まるでステレオタイプなゾンビのようにヨタヨタした足取りで玄関脇のモニタにたどり着き、応答スイッチを押す。 

 白黒のインターホンのモニタに映るのは、面識の無い、初老の男性。仕立ての良さそうなスーツの上に、立派な髭を備えた、人の良さそうな細面が載っている。はて、一体どこの誰だろう?セールス関係にしては身なりが良すぎると思いつつ、

「……はい?」

 一言だけ応答する。

「失礼いたします。北条柾木様でいらっしゃいますね?」

 語り口こそ丁寧だが、その誰何には、そうに違いないという断定、確信がありありとうかがえた。何かが、ヤバイ。そう感じるに十分な威圧感が、そこにあった。

 ……一度関わったからには、あっちから寄って来るかもだけどね……

 件の狼女の言葉が脳内にリフレインする。背筋が凍る。まさか、これが?

「突然に訪問する無礼はご容赦の程を。お疲れでお休みの所、無理を申し上げ大変申し訳ありませんが、お姫さまおひいさまが、是非とも青葉五月様の最期につきまして、お話を伺いたいとの事でございます。ついては、よろしければご足労いただきたく、お願いいたします」

 普段の生活では聞き慣れない、丁寧極まりないそのへりくだった言い回しは、それが故に脳に浸透して理解するのに時間を要したが、青葉五月の名前が出た瞬間、さっきの予感が正しかった事を確信した。これは、断ったらヤバイヤツだ。断らなくても多分、いや絶対ヤバイけれど。で、「おひいさま」って?

「は、はい、えーっと……」

「車を用意してございます。そのままで結構ですので、ご足労願いたく」

 あっ、これ詰んでるわ。何とか逃げる口実を探す為の時間稼ぎを考えようとした北条柾木だったが、相手はその隙を与えるつもりはなく、用意周到に既に退路を断ってここに来ている事を理解する結果に終わった。これはそもそも断る選択肢が無い、あっちは断られる事を全く想定していないヤツだ。北条柾木は、ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいではあったが、それは儚い希望であると認めざるを得なかった。

 仕方なく、北条柾木は、

「……あの、すいません、着替えますから少々お待ちください」

 決意も覚悟もありゃしない。ただ、回避不能な状況に流されるままに、北条柾木は精一杯シャツのしわを伸ばし、髪にブラシを通し、時間をかけられないので冷水で顔をすすいでタオルでゴシゴシこすり、何とか完徹二日目のブラック企業の社員程度の見てくれを整える。

 髭を剃るのは諦め、ネクタイは省略し、気休めにオーデコロンを振りかけた上でヨレヨレのリクルートスーツに袖を通す。膝に手を突いて、深いため息一つ、続いて深呼吸を二つ。

「……よしっ」

 どうせ逃げられない、避けられないのだから、だったら出るしかない。昨日の今日でやはりどこか、頭の中のスイッチが切れてるのか入ってるのか、そんな無鉄砲な判断をしている事に、北条柾木は自分では気付かず、意を決したつもりで、ドアノブに手をかけた。


「こちらです、どうぞお乗りください」

 ガリクソン時田と名乗った、仕立ての良いスリーピースのスーツに蝶ネクタイ、ロマンスグレイの髪をオールバックにキレイに撫で付け、長身で痩身、それでも胸板は厚く、相当に鍛えられた肉体であろう事をうかがわせるハーフっぽい彫りの深い顔つきのその初老の紳士に促されるまま、北条柾木は安アパートの前に停められた高級セダン――トヨタ・センチュリー、流石に二代目である事は判別出来ずとも、有名すぎるその車種は自動車販売会社の営業所に配属になった新人の北条柾木にもすぐわかる――の後ろから右後部ドア側に回り込むよう促された。ドアの脇には、これまた身なりのキチンとした、年の頃なら30台後半か40台か、そのくらいに見える男性が既に立っていて、北条柾木が回り込むのに合わせ、絶妙なタイミングで右後部ドアを開ける。あ、どうも、とかなんとかつぶやくように言いつつ、北条柾木はセンチュリーの右リヤシートに乗り込む、乗り込まざるを得ない。安物の革靴で乗り込むのが申し訳ないような絨毯、社長の椅子でも見た事ないような高級な革張りのシート。量産品でありながら最高級品を手作業で仕立てたセンチュリーの内装は、そうと知らない者であっても、一種の畏怖を抱かずにはいられない圧倒的な別世界観を醸し出す。

 その奥、左リヤシートに、その人物は座っていた。白地に黒のストライプの入ったワンピースは、やはり黒のフリルで華美になるギリギリ一歩手前くらいまで飾りたれられ、そこから露出する手足も黒いベールの手袋とストッキングに包まれている。もちろん靴も黒のエナメルのローヒール。これまた白地に黒のストライプの入った、黒いフリルの付いた日傘に手を添え、車中であるのに頭には大きな、古風な帽子――ボンネット、などという名称をもちろん北条柾木は知らない――をかぶり、そのボンネットの庇から、丁度鼻のあたりまで濃いベールが垂れている。ボンネットの後ろ側は、首筋で切りそろえられた艶やかな黒いソバージュ。その大仰なボンネットを被っていてさえも、天井まで隙間がある、その程度に、その人は小柄であった。

 北条柾木と目線が合った際に――本当に目線が合っているのか、濃いベールの奥の瞳を見る事は適わない――軽く首を傾げる動きがなければ、それはまさに等身大のビスクドール、西洋人形だと思っても不思議はないような、完璧とも言えるゴシックロリータのそれであった。唯一、魅力の要となるだろう目元が全く見えないという重大な欠点を除いては。

「北条柾木様ですね。どうぞ、おかけください」

 プライバシーガラスで遮光され、淡い車内灯の明かりでほの明るく照らされた車中にあって、黒いベールの下から唯一覗く、対照的に際立つ輝くばかりの白い肌と、その中心にある紅い唇、少女のそれの淡い朱ではなく、さりとて商売女のどぎつい赤でもない、清純さとなまめかしさの間の怪しいバランスの上にある紅い唇から紡がれる涼やかな声が紡ぐ、えもいわれぬ、逆らいがたい魅力に誘われ、気付いた時には北条柾木はもうセンチュリーの右リヤシートに座っていた。

 ことり。今まで乗った事のある車では聞いた事のないような重厚かつつつましいドアロックの音と共に、右リヤドアが閉まる。外にいた男性が閉めた右リヤドアから離れ、そのまま流れるような挙動で運転席に収まる。いつの間にか、時田氏も助手席に乗っている。

「袴田、出してください」

「はい、お姫様」

 袴田、と呼ばれた運転手は、余計な音を立てずにサイドブレーキを開放し、ギヤを入れ、ターンシグナルを上げて車を動き出させる。カムカバーの上でコインが立つとまで言われるV型12気筒エンジンは、その時までアイドリングで回っていた事すら北条柾木に気付かせていなかった。


「改めましてご挨拶申し上げます。わたくし西条玲子さいじょうれいこと申します。北条柾木様でいらっしゃいますね?」

 センチュリーが車の流れに乗ってすぐ、ゴスロリの彼女、西条玲子は北条柾木に再度確認する。

「は、はい」

 微妙に裏返った声で、北条柾木は答える。ベールの向こうの目こそ見えないが、これは相当な美人、いや美少女に違いない。そうでなくてはいけない。

「北条と西条、お名前、なにやらえにしがあるやもしれませんわね……」

 そう要って、玲子は微笑む。唇のその動きだけで、北条柾木のガッチガチの緊張が、お湯をかけた淡雪のようにほぐれる。美少女の微笑みの効果たるや、北条柾木は、己がいとも簡単に美少女に陥落されつつある事を自覚出来ず、ただ単純に、これはもしかして思ったほど危険な事態にはならないのでは?等と根拠無く思い始めた。

「いえ、あの、ボクはその、ただの平民ですから……」

 どう見ても玲子は金持ちの令嬢、あるいはやんごとなき身分のそれとしか思えない。名字の一文字が同じだからと言って、そんな人と、じいさんの代から北関東の地方集落で自営業を営む北条柾木の実家に繋がりがあろうはずが無い。そう強く思いつつ、でも、そうであったらどうだろうか、これから何か予想もつかない新展開があったり……等と北条柾木はほんのささやかな希望と妄想を、頭の片隅に芽生えさせた。

 その身勝手ではかない妄想は、しかし次の玲子の一言で背中に氷水をかけられたが如くに霧散した。

「その北条様に、折り入ってお願いがございまして、このようにお休みの所御足労戴きました次第でございます。大変申し訳なく存じますが、どうか」居住まいを正した玲子は、シートベルトの許す範囲で体を北条柾木に寄せ、

「青葉五月様の最期につきまして、お聞かせくださいまし」

 ああ、そうだよね。北条柾木は、世の中はそうそう自分の思い通りにならないことを再確認してため息をつく。そもそも、それを聞きたいって時田さん言ってたもんね。


 それが本題だと既に知っていたし、ある程度覚悟もあったので今更慌てる事こそ無かったが、やはり何か腹の底に重苦しい物を感じつつ、北条柾木は、自分が見聞きした事を玲子に話した。歌舞伎町の裏通りで偶然、女性二人が取っ組み合う現場に遭遇した事、その二人の容姿、後に青葉五月と名乗る女性が、もう一人の、後に狼女と判明する女性の右腕を、どうやってかは知らないが切断し、また爆発を起こしてその場から自分を連れて逃げ出した事、休憩のために立ち寄った場末のホテルで聞いた身の上話の内容、狼女の乱入と、五月の最期のこと。できる限り正確に、北条柾木は話した。

「では、五月様は鬼になった、と?」

「はい、その女は、確かにそう言いました」

 思い返してみれば、首から切り離された頭がしゃべるなんてあり得ない。目や口が動くだけならともかく――それだって不気味極まりないが――喉が切り離されてるのに声が出るなんて。そして、見間違えるはずもない、額から生えた二本の角。それは、能面でよく見かける、般若のそれに瓜二つだった……

「そうですか……やはり……五月様には申し訳ない事を、私は致したようです……」

「……はい?」

 思わず北条柾木は聞き返した。今の今まで、夕べの一件を思い出して話しながら、青葉五月が鬼になったのは彼女自身の恨み――狼女がそう言っていた――か、あるいは狼女が何かしたからだと思っていた。だが、今の玲子の一言は、まるで五月が鬼になったのは玲子のせいであると、玲子が告白したかに聞こえたからだ。

 気付くと、北条柾木は、玲子の被るボンネットから垂れるベールの奥に隠れているであろう双眸のあるあたりを見つめていた。

「申し訳ありません、北条様。どうか、私の目をご覧にならないで下さいまし」

 魅入られたかのように凝視する北条柾木の視線を、困ったような、恥じらうような声で玲子がたしなめる。慌てて北条柾木は視線をそらす。

「ああっす、すみません!申し訳ないです……」

「いいえ、目を合わせずにお話をさせていただく私の方が無礼なのです、お気になさらないで下さいましな。ただ、申し訳ありませんが、どうか、決して私の目をご覧にならないで下さいまし……五月様は、この目を見てしまったが故に、鬼に成り果ててしまわれたのでしょうから……」

 言って、玲子はわずかに俯いて視線を逸らす。その目を逸らす一瞬、北条柾木は、濃いベールのその奥に、暗く、臙脂色の二つの眼を見た、ような気がした。


「お姫さま……」

「良いのです、時田」

 咄嗟に助手席から振り返る時田を、玲子が差し止めた。

「北条様は、既に私どもに関わられていらっしゃいます。なれば、知っていていただいた方が、きっとよろしゅうございましょう」

「……かしこまりました」

 改めて、玲子は北条柾木に向き直る。これは、もしかして、なし崩しにえらい事に関わっちまったんじゃないだろうか、今更ながら北条柾木は肝が冷得るのを感じる。ある程度の覚悟はしていたつもりだが、どうやら全然覚悟のレベルが足りなかったようだ。腹の奥がきゅーっと絞まってゆく。

「北条様、もうお気づきでございましょうけれど、五月様に失せ物を探していただいた娘とはつまり、私の事でございます。そして、探していただいた人、五月様が間に合わなかったとおっしゃった人は、私も存じ上げる方でございました」

 揃えた膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、玲子は目線を落した。存じ上げる人、が、玲子とどのような関係にあるのかはわからないが、大事な人ではあったのだろうな、その程度のことは、北条柾木にも理解できた。

「その時、私は五月様から連絡を戴いていたのですが、たどり着いたのは五月様よりさらに後、既にその方が事切れた後でございました。私は、そこで取り乱してしまいまして」

 近しい人が事切れた現場、というのは、今までの話からきっと相当に壮絶な現場だっただろう、位の想像は北条柾木にも出来た。目の前にいる、どう考えても十代の女の子に、取り乱すなと言う方が無理という物だろう、というのも想像に難くない。

「その時、五月様は、私の目を見てしまわれたのです……私の、邪眼を」

「……」

 時田が、そして運転している袴田の、口惜しげに身を固くする気配が伝わる。玲子の口から「邪眼」という言葉が出る事が、彼らには耐えがたい事のようだ。だが、その言葉の意味すら知らない北条柾木は、冷え切った車内の雰囲気に、これはえらい事を聞いてしまったのだという事は理解したものの、その重要さそのものは今ひとつピンと来ていなかった。

「私が不注意でございました。涙を拭こうとベールを上げたまま、つい五月様の方を向いてしまい……」

 ……ああ、その程度にはドジなのね。顔に出ないように気をつけながら、雰囲気について行けない北条柾木は、かなり重要で深刻な話が展開している事は認識しつつ、内心でそう突っ込む程度には冷静かつ引いた立ち位置になっていた。だが。

「五月様は、私の邪眼に取り込まれてしまったのです、ここにいる時田や袴田と同じように」

「……はい?」

 それは突然の爆弾発言だった。……えっと、それって、つまり、運転席と助手席のお二人も「鬼」って事?理解に一瞬の間を必要とした北条柾木の立ち位置は、今度は冷静どころではなくドン引きのそれになる。

 思わす声を発した北条柾木の内心の推移を知ってか知らずか、玲子は、無論ベールの向こうで見えてはいないが、涙で潤んでいるであろう双眸を、北条柾木に、北条柾木の喉元に視線が来るように顔を向けた。

「人は、執念が過ぎると、鬼になる、そういうものなのだそうです。私の目は、時にそれを後押ししてしまうのです。いえ、私がその気になれば、人の命を奪う事さえ出来ます……そう思わなくてさえ、普段でさえ、私の目は、皆さんに良からぬ影響を与えます。時田も袴田も、私が小さい頃から私に仕えてくれ、幾度となく私の目を見た末、気付いた時には鬼になっていたのだそうです、私に仕え、護りたい一心で」

 さらりとものすごい事を告白され続け、北条柾木はいちいち事情を咀嚼する事を止め、ただ淡々と事実だけを理解しようとしていた。

 玲子は、そんな北条柾木の方に再び身を乗り出し、

「ですから、北条様は決して私の目を見ないで下さいまし。後生ですから」

 だったら後生ですからそんな顔でこっち向かないで下さい。思わず北条柾木の喉元まで、そんな言葉が出かかった。この声この顔この雰囲気は男に対して必殺兵器だ、見るなと言う方が無理ってもんだ。どうやらこのベール越しであれば、まずまず影響は無いようではあるが……北条柾木の後頭部の方でつぶやく声がする。このお嬢さんは、悪気が無いだけ余計に質が悪い。これは、ある意味夕べよりはるかに絶体絶命な状況だ……

 どうして良いか全く解らず、とりあえず曖昧な軽い微笑みを作った後、軽くため息をついて、北条柾木は視線を玲子越しに左の窓の外に移した。

 その様子をどう理解したのか、玲子は、

「……信じていただけないのも無理はございません……こんな突拍子もないお話ですもの」

「いえいえ!とんでもない!」

 北条柾木は慌てて即座に否定する。これは、一挙手一投足に細心の注意を払わないといけない、超S級ランクの接客だ。北条柾木の頭の中で違うスイッチが入る。

「夕べあんな事のあった後です、信じない訳ではないです。ただ、そうですね、突拍子もないというのは確かです。私は、そういうのはテレビとかマンガとかそっちの中だけだと思って生きてきたので……」

 接客に失敗すると、比喩でなく、本当に生命倫理的な意味で死を招く。頭の中を、新人研修で鍛えられた接客モードに切替えた北条柾木は、自然に一人称が「私」になっていた。

「……五月さんから聞いた話もそうでしたが、ディテールはわかるのですが、正直、要点がよくわかりません。もしよろしければ、詳しい事を聞きたいと思います、いいですか?」

 勢いの方が勝ってはいたが、北条柾木はそれでも覚悟を決めた。どうせ巻き込まれるなら、巻き込まれたなら、何がどうなっているのか納得しておきたい。好奇心もあるが、事態の推移を納得しなければ、納得して死ぬことも出来ない、そんな気持ちになっていた。

「……そうですわね。時田、どこか落ち着いてお話の出来るところを用意して下さいましな」

「かしこまりました」

「北条様、時間もよろしいですから、続きはお食事の後に致しましょう。お嫌いなものはございまして?」


 車は新青梅街道から環状八号線を南下、高井戸インターから中央高速に乗り、そのまま首都高を通って都心部の某高級ホテルに入った。時田を連れて、勝手知ったが如くにエントランスを進む玲子の後を、気持ち腰が引け気味の北条柾木が続く。高い天井に控えめに輝くシャンデリア、恭しいボーイ達、靴が沈むカーペット。それらのすべてが初体験だった。

 幸いにして、食べ物に関して好き嫌いもアレルギーもない北条柾木は、高層ビルの最上階レストランの個室で供されるフレンチを残すことなく堪能出来たが、とても楽しむと言った余裕はなかった。食事の間の他愛もない会話に、玲子はいたくリラックスした様子だったが、北条柾木はまさしくアメと鞭、目の前の美少女と絶品の料理と会話を楽しみたくとも、慣れないテーブルマナーと、個室に案内される直前に、「こちらにお召し替え下さい」と渡された、真新しいスーツ一式――驚いたことにサイズはほぼピッタリ――を汚してはいけないという緊張感、何よりこんな所での会食など未経験で、リラックスしろと言う方が無理な話だった。新人研修でレストラン会食のマナーを教わっていたのが功を奏し、致命的なマナー違反はしでかさなかったと思うが、額縁にはめて飾っておきたいほど上品かつ可憐に食事を取る玲子と相向かっては、結局なにをしたところで自分が庶民であることをこの上なく思い知らされる以外の何者でもなかった事も北条柾木の心を地味にえぐっていた。


「さて。何からお話しましょうか。北条様は何をお聞きになりたいですか?」

 食後のお茶をたしなみながら、西条玲子が切り出した。食事の間は下がっていた時田が戻ってきている。二人っきりにしてもらっていたのは、信用されているのか、試されていたのか。

「正直、何を聞いたら良いのか、それすらわからないです。そうですね……率直な疑問としては、首を斬られた青葉さんがその後もしゃべってたのは何故かとか、相手の狼女は何者なんだとか」

 そこまで言って、北条柾木は、次の一言は言って良いのかどうか一瞬迷ったが、むしろここは勢いで続けてしまえと思い切って、

「あと、そもそも鬼って何なのか、とか」

 北条柾木がそう言って言葉を止めた後、数回瞬きするほどの間を置いて、玲子が口を開く。

「北条様は、鬼と聞いて何を思い出されます?」

「え?そりゃ、赤鬼とか青鬼とか、まあ、「泣いた赤鬼」とかのアレですよね、普通。角が生えてて虎縞パンツで」

 玲子は軽く頷いて続ける。

「普通、鬼と言えばそうだと思います。そのステレオタイプな鬼のビジュアルは、鬼が来るとされる「鬼門」が、方角的には「丑寅」の方位に当たることから、平安のころに定着したと言われておりますわ。では、北条様は般若というのは御存知でしょうか?」

 言葉としては知っている。角の生えた、恐ろしい妬ましい顔をした、あのお面のそれだ。そう、北条柾木が言うと、

「能面の般若の面、これが一般的です。ですが、よく考えて下さいまし、あの面は、一般に女性の怨念を示す面とされておりますの。つまり」

 ティーカップを唇に近づけながら、玲子が言う。

「般若は、もとは人間だった、という事です」

 言って、一口、お茶を含む。

「一言で鬼と申しますが、学術的にも分類は非常に困難なのだそうです。ただ、細かい事は抜きにすると、大きく二つあると考えて下さいまし。生まれついての鬼と、人が成る鬼と」

「……人がなる、ですか?」

「私も勉強不足で、学問的な事はよく存じません。けれど、昔から、人に似ているけれど人ではない恐ろしい何か、それを鬼、隠と呼んでいた、と伺っております。その中には獄卒、いわゆる赤鬼青鬼黄鬼と、なにがしかの所以で人が変じた隠があったのだと、そう民俗学の先生に伺いました」

「……それって……」

「人が変じるのは、先ほど車の中でも申しましたが、そう珍しいことではないのだそうです。仕事の鬼とか、皆様おっしゃいますでしょう?あれは文字通りの意味、端から見て鬼神めいた、人並み外れた働きが出来ている時点で、鬼と呼んで差し支えないという事なのだそうです。要するに、人の姿をしているが、人とは思えないほどの何かをする者、しそうな感じのする者、そういったものをまとめて「鬼」と呼んだ、そう理解していただいてよろしいかと存じます。その中には、実際に人ならざるモノもいたでしょうが、それらは、正体が明らかになれば別の名で呼ばれます。正体のはっきりしない、人だか人でないかよくわからないもの、それが昔から言われて来た、広い意味での「鬼」だと。ですから、文字通り鬼神のごとき働きをした人間もそう呼ばれたでしょうし、一時的に人の理を越え、人ならざるものに一歩踏み込んでしまった者も居たでしょう。それらの多くは結局は人として生き、人として死んで行ったと考えられますが、ただ、それが過ぎると、いずれ体や心が変じ、いつしか身も心も人ならざるもの、本当の鬼になる、そういう事だと」

「……わかったような、わからないような……鬼とはつまり、角が生えててトラジマパンツで金棒持ってのあれだけではない?」

「文化人類学や民俗学の先生に伺っても、そのあたりははっきりした答えはまだ頂けておりませんし、時代とともに概念が変化していった部分も多分にございまして。そのあたりは、西洋の概念は非常に明確で、人の敵か味方かできっかりと二分、善悪の二元論で語られておりますわね。ところが、特に日本の場合、必ずしも悪しきものではない使われ方をする場合もございますから。先ほど、時田も袴田も鬼になったと申し上げましたが、あの通り見た目は何も変わりはございません。言うなれば、彼らは「鬼神のごとき勢いで私を護る者」と言い換えられましょう」

「青葉さんは、角が、その般若のお面みたいになったように見えました」

「恐らくですが、体がそう変じてしまうほど、よほど青葉様の中で怒りが強かったものかと」

「そういうものなんですか?」

「はい。病は気からと申しますが、あれは病だけのことではございませんのよ?」

「そういうものですか……」

「その青葉様ですが、何故首を斬られてもお話になれたのか、それは皆目わかりません。伝説の鬼ならば、斬られた腕を取り返しに来た等という話はいくつかございますが……そういえば、酒呑童子は、首を斬られた後も喰いついてきたと言われておりますが、結局討ち取られております。なので、お話になれたのは恐らく一時的なことで、やはり青葉様は亡くなられたと思わざるを得ないかと……」

 玲子は、言って、俯いて唇を噛む。北条柾木は、物理的に首が切断されたならどうして声が口から出せたのか、どうしてもそこに引っかかりを覚えたが、鬼などというオカルト的存在が目の前に居たなら――今現在同じ部屋で控えているらしいが――それはそういうものなのかも知れないと納得することにした。

「青葉様の首を斬った狼女、こちらは少し心当りはございます。何人も殺してる、というのは、私が青葉様にお話しした覚えがございますから。詳しくは存じ上げませんが、恐らくは何らかの組織があって、そこの指示で動いてる、いわゆる殺し屋、だと」

「殺し屋……」

「私の身の回りの方を殺められたのは初めてでございますが、時田」

「はい。その筋によりますれば、いくつかの不審死の現場付近で、似た風体の輩が目撃されたという情報は得ております。ただ……」

 どの筋だよ。聞いてみたい気がしたが、北条柾木はその興味を押し殺す程度の分別は持っていた。

「殺されているのは、人だけとは限らないようなのです。なので、それらの事件は、被害者が特定出来ず実際には警察沙汰になってはいないか、なっても即座に迷宮入り扱いされているとの事です」

「人とは限らないって、えーっと、話の流れからすると、鬼……は人のカウント、ですか?やばい、混乱してきた」

「ここで言う「人に限らない」とは、文字通り人ではない、わかりやすく言うなら、人の姿をしているが戸籍などは無く、生物学的にも人類ではない者のことでございます、北条様。付け加えさせていただきますと、私も袴田も、戸籍も住民票もマイナカードもございます」

「それって……」

「有り体に言うなら、殺されたのはお化けや妖怪、その類いでございます」

「えっと、つまり、人もお化けも見境無し、って事ですか?」

「情報に寄りますれば、そういう事でございますな」

「おっかねぇ……やっぱ、東京って怖い……」

「その「おっかない」女性が、いつ私たちの目の前に現れるか、皆目わかりませんの。ああ、北条様は狙われる根拠が薄うございますから大丈夫だと存じます。ご安心下さいまし」

 そうは言われても。それこそ根拠あんまりないしな、と北条柾木は思った。そもそも、狙われるなら理由があるはず。

 北条柾木は、今まで遠回しに外堀を埋めていたが、思い切って本丸を攻めてみる事にした。

「教えて下さい。そもそも、何故狙われたりするんですか?失礼ですが、西条さんはどのような方で、青葉さんとはどういう関係だったのですか?」

「……時田、アフタヌーンティーの用意をお願いして下さいまし」

「かしこまりました」

 どうやら、話は長くなりそうだった。


「申し遅れておりました。私は西条玲子、西条精機の創始者のひ孫にあたります。どうそ、お見知りおき下さいまし」

 椅子から腰を浮かせ、スカートをつまんで西条玲子が会釈する。反射的に、慌てて北条柾木は立ち上がろうとし、椅子をひっくり返した上に腿をしこたまテーブルに打ち付ける。

 静かに悶絶しつつ、頑張って椅子を元に戻す北条柾木が着席し直すのを待って、玲子が続ける。

「北条様は、西条精機は御存知でして?」

「すみません……」

 まだ痛そうなのを堪えつつ申し訳なさそうに答える北条柾木に、軽く微笑みながら、

「いえ、無理はございません、西条精機は小さな医療機器メーカですから、あまり名前が通っている訳ではございませんもの。北条様はどちらにお勤めか、伺ってもよろしくて?」

「はい、あの、日販プリンス東京の中野店に配属になりました」

「まあ、立派な所にお勤めでしたのね」

「いやぁ、それほどでも……」

 玲子の受け答えに皮肉の色は全く感じられない。素直に照れて、北条柾木は後頭部をかく。寄らば大樹の陰、大メーカー直下の販社は就活の人気どころの一つ、北関東の、一応は県名が付く国立大学にがんばって入学&卒業し、確かに立派なところにもぐりこめたと北条柾木は自負している。

「自動車関係にお勤めなら、医療機器メーカに疎くても仕方ありませんわ、畑違いですもの。ね?時田」

「左様でございますな。西条精機は精密医療機器メーカでして、主に人工心臓をはじめとする代替え臓器の開発、製造を行っております。年商は直近の五年程はおよそ百五十億前後を維持しております」

 玲子の言葉を引き取って、時田が付け加える。北条柾木の勤める販社の総資産が大体同じくらい、だとすれば常識的に西条精機の総資産額はそれを超えることになる。新人研修で習った決算貸借対照表の見方を思い出した北条柾木は、足が震える思いがする。

 要するに、自分が勤める会社よりも規模のデカイ会社の、社長御令嬢様を目の前にしているという、薄々そうではないかと思いつつ思わないようにしていた事実が、今、確定されたのだ。

「西条精機は、人工臓器の分野で大変好評を戴いております。この際ですから北条様にはお教えいたしますが、その秘密は、私の、ここにございます」

 言いながら、玲子は、自分の胸に左手の手指を開いて当てる。

 え?北条柾木は、そのジェスチャーの意味がわからなかった、いや、理解を拒否した、というのが正しいかも知れない。それって、まさか?

 問いかける北条柾木の視線に、玲子は頷いて答える。

「私の心臓は、ひいお爺さまから戴いた、人工心臓です」


 玲子の曾祖父、西条謙は大正中期の生まれで、生まれつき心臓が弱く、その代わりに勉学に励み帝大に進み、拡大する軍備に伴い隠れた成長株であった医療品医薬品の軍需企業で経営管理部門で働いていたのだという。そこで知り合った高齢の技師と懇意になり、色々教えてもらううちに下手な技師顔負けの知識と技術を身につけたが、終戦直前にその軍需工場を狙った米軍艦載機の機銃掃射を受け、片足と腹部の複数の臓器を撃ち抜かれ、さらにそのショックで弱っていた心臓の発作を起こしたところ、その懇意にしていた技師から人工心臓その他の移植を受けた。その人工臓器が只の機械では無い、明らかにその時点の日本の技術レベルを超えていることはすぐに気付いた。その事をその技師に尋ねると、詳細は明かせないがその臓器は大事に使えば寿命以上に保つ、自由に使っても調べてもいいが出所を絶対に明かしてはいけない、米軍が進駐してくる前にすまないが自分は姿を隠す、自分からはもう連絡は取らないが、そちらから自分か娘を探し出せたなら、その時はまた話をしよう、それだけ言って姿を消した。その後、戦後の混乱期にそれまで得た知識と技術をベースに会社を興し、今に至る訳だが、曾祖父は自分の体に埋め込まれた人工臓器を祖父や父、秘密を守れるごく一部の社内研究員に研究させ、そこから得た技術を自社の製品にフィードバックする事で業界で高い評価を得ることに成功したのだという。それが故に西条精機は親族経営であり、また技術の根幹は、会社の技術部であってもごく一部の秘密を知る者以外には非公開であると言う。

 その曾祖父が他界したのが七年前、玲子が十歳の頃で、人工臓器は全く問題無かったが、それ以外の生の臓器の、老衰による多臓器不全が死因であった。義足を含むその他の臓器は会社の極秘ラボで保管、研究されているが、心臓は本人の遺言もあり、一時的に研究が行われた後に、やはり生まれつき心臓に障害を持つ玲子に移植される事となった。玲子の父も祖父も、同様に心臓に障害があったが一般的な生活をするのに不都合が出る程ではなく、しかし玲子は学校に通うのも困難な程障害の程度が重く、心臓移植なしには成人になるまで保たないと考えられていた。玲子が通学出来ないのは、その当時既に発現していた邪眼の影響もあったのだが、とにかく命に関わる心臓移植が最優先とされ、五年程前に移植自体は成功した。

 事態が動いたのは、二年ほど前からだという。


「私は今年で十七になりますが、そうはお見えになりませんでしょう?ずっと心臓が悪くて臥せってばかりで、体がまともに発育しなかったからだそうですが、今はもう平気です。このように出歩いて外でお食事する事も出来ます」

 つまり、それまでは外食する事も適わない程体が弱かった、という事だろう。

「ですが、二年ほど前、父が急に病に倒れました。原因は心臓、昨今の会社経営で思いのほか体を酷使されていたというのが医者の見立てです」

 確かに、バブル以降の日本経済を考えれば、会社経営者の心労は計り知れないものがあるだろう事は想像に難くない。

「それで、私は思ったのです。私の心臓、ひいお爺さまから譲って戴いたこの心臓と同じものがあれば、お父様も救えるのではないかと」

「失礼ですが、御社の製品ではダメなのですか?」

 思わず、会社の対外交渉口調になって北条柾木は聞いた。

「残念ですが、この」

 玲子は自分の胸に手を置いて、

「人工心臓のレベルには、西条の製品はまだ全く届いておりませんし、その程度ではお父様をお救い出来ないのです。今の技術で作れる人工臓器では拒絶反応や合併症をまだ解消出来ておりません。そして、情けないお話ですが、西条の者は皆生まれつき少々体が弱く、そういった後遺症に耐えられないのです。現在の技術で作られた人工心臓を移植しても、生きながらえることは出来るでしょうが、恐らく、社長としてのお仕事は続けられませんでしょう」

 勿論、拒絶反応がより強く出る生体移植は論外、という事だろう。

「そんなに、その心臓は出来が良いんですか?」

「はい。文字通りの意味で、生体の心臓と遜色ございません」

 現在の人工臓器、特に人工心臓は、ポンプとしての能力はともかく、生体との親和性、動力源、そしてなにより、寝ていようが運動していようが一定のリズムでしか作動しない、生体側の活動状態と連動出来ない問題が解決出来ていない。それが、曾祖父に与えられた一連の人工臓器では全く問題になっていない、現にこの心臓も、大人の大きさの心臓を多少無理して小柄な玲子の胸に納めている(何とか収められる体格になるまで、手術を遅らせていた)が、予想された身体側への過負荷が起こらず、どうやら心臓側で自動的に出力がセーブされているらしいという。

 北条柾木はそこまで聞いて、今までの話の接点、キーポイントに、やっと気付いた。そんな機械、企業あるいは学者であれば特許取るなり学会に発表するなりしない訳がない。それをしない、いや、出来ないとしたら、それは……

「それって、もしかして……」

「はい」

 もう一度、玲子はミルクティで唇を湿らせてから、もう一度胸の上に手を置いて、

「この心臓は、錬金術の御業で作られている、のだそうです」


 奉仕の御業である錬金術によってこの人工臓器は作られている、だから、君が研究し広めるのは構わないが、決して出所を漏らさないで欲しい。理由は言わずもがな、それが恩人からの願いであると、曾祖父から玲子は、玲子だけでなく祖父も父も聞いていた。なので、曾祖父は事ある毎に文字通り自分の身をもって研究に臨み、ごく一部の成果は製品に反映出来たが、大部分は反映はおろか解析すらままならない、解析出来ても、材料も工程も特殊すぎてとても工業ベースの量産は出来ない、今はそんな状態だという。

「それでも、機能の単純な人工皮膚は比較的研究が進んでおります。量産とはまいりませんが、品質そのものは実用可能なレベルまでこぎ着けられました」

 私の胸の手術にも治験として試用させました、本当に綺麗に治りますのよ、お見せ出来ませんけれど。そう言って玲子は、ちょっとだけ可笑しそうに微笑む。北条柾木はぽかーんとしてしまっていた。お化けだ妖怪だだけでも軽く理解の範疇を超えているのに。

「錬金術?それって、魔法、って事ですか?」

「私も勿論理解出来ている訳ではございませんが、魔法とは医学薬学物理化学から哲学神学までを含む非常に広い概念の言い方で、錬金術はそのうち冶金を中心とした物理化学体系を示すらしいです。目に見え、手に触れられる物質を変質させて奉仕の為の奇蹟を行う、それが錬金術である、と教わりました」

 誰から?突っ込むのは野暮なんだろうな。北条柾木はその程度の分別は持っていた。

 つまるところ、玲子の曾祖父の恩人とは錬金術師であり、曾祖父であれば錬金術の成果のごく一部であっても一般化し、広く奉仕を行えると見込まれたのだろう、玲子はそう理解しているという。だが、現社長である父の健康状態の悪化が原因で会社経営が傾いてはそれどころではない。しかし、今の西条の技術ではとても同じような臓器は、心臓は作れない。一縷の望みを託して、八方手を尽くしてその恩人の行方を捜し始めたのが二年前、しかし何しろ終戦当時の話、行方は杳として知れず、一年が過ぎた頃、手がかりを探して曾祖父の手記の内容を再検討していて、ある事に気付いたのだという。

「自分か娘を探せ、ということでしたが、どうもひいお爺さまの手記に書かれている、御恩人の御息女の様子がおかしいのです」

 曾祖父が恩人と付き合いがあったのは概ね十五年ほどの期間、その頃高齢であった恩人の容姿が変化しなかったのは錬金術師である事も含めさほどの疑問はないが、その娘、そもそも歳が離れすぎているだけでなく、いつ見ても何年経っても二十二、三歳の容姿で、まれに深夜に家を訪ねても、恩師は休んでいても常に娘は起きていると、曾祖父自身が不思議がっていた事が曾祖父の手記から知れた。娘も錬金術師であって不老の術を身につけているという解釈も成り立つが、誰かがふと漏らした「まさかのメイドロボでは?」という軽口が突破口になり、万策尽きた状態からダメ元でその線を片っ端から当たり、占い師その他を総動員した、そのうち一人が青葉五月であった、という。

「じゃあ、お父さんと尋ねた、娘の人形を探していたってのは」

「私めの行きつけの店にいらしたのが青葉五月様でして、当初は親子を装ってお姫さまをお連れいたしました。最終的には青葉様には事情をお話しいたしましたので、北条様にお話になる時に若干内容をぼかされたのでしょう」

 頃合いを見計らってお茶のおかわりを持ってきた時田が、そのあたりの事情を補足する。

「なるほど……」

 それなら合点がいく。

「それで、結局、お父さんの心臓は?」

「はい。あいにく、御恩人にはお目にかかれませんでしたが、お弟子さんという方がお作りになった物を頂け、有り難い事にお父様はすぐにお仕事に復帰されました。一年足らず前の事です」

 その後、事ある毎に玲子は五月に占いを頼むようになるが、同時に、それまでの調査で現代にも錬金術師、魔法使いと呼ばれる人たちがいる事とそのコミュニティがある事を知り、玲子の瞳が「邪眼」と呼ばれる物である事を知り、そして、人とは相容れない存在と、それらの属する集団あるいは組織も存在する事を知り、否応なくそれらに関わっていく事になった。なぜならば、奉仕の御業として医療に貢献する事は一部の魔法使い、錬金術師の賛同を得たが、同時に、様々な理由でそれを望まない者の反発を呼んだからだ。

「青葉五月様が北条様に話されたのは、そうした反発者が起こした事件、急に連絡が途絶えた協力者様を五月様に探していただいた事件の一つでございます」

 事の善悪や理由のいかんによらず、何事か行動すれば必ず反発はある。反発する者が爪や牙を持つものであれば、刃傷沙汰は避けられない。気がついたら、玲子の身の回りの者は鬼になっていた、玲子を護る、只それだけの為に。その護る力は、玲子の周りの協力者にも及ぶのだが、いかんせん手が足りず、後手に回る事が多い。口惜しいが、今の玲子達にはどうにもならない。すっかり醒めてしまったティーポットを熱い物と入れ替えながら、時田がそう説明する。玲子の口からは、少々言いづらいだろう事を先回りして。

「それでも、私は、これは私に託された使命なのではないかと最近感じております。自分を買いかぶっているのかもしれませんが、そうであるならば、この「邪眼」も、何か意味があって私が「授かった」のかも知れませんから。ええ、私は少し前まで、この目の事で神様を恨んでおりました。神様というものがこの世におわしますなら、この目がお父様のせいでも、お母様のせいでも、勿論お爺さまお婆さま、誰のせいでも無いのであれば、それは神様がなさった事に違いない、そう思って、それはもうお恨み申し上げておりました。ですが、時田が鬼となった事を納得出来た時、思い直したのです。既に授かってしまった物、成ってしまった事を悔い、恨んでも何にもならない、ならば、それが何であれ、今あるものならば、上手く使う事、役に立つ使い方をすることを心掛ければそれで良いのだと。気の持ちよう、心掛け次第なのだと」

 時田のあとを引き取り、玲子は一気にまくし立てた。思った以上に、この深窓の令嬢はハードモードで人生をやりくりしている。自分よりなんかこう、遠くというか広くというか、目指しているもの、立ち向かう態度、いや心構えが違う。

「それが言い訳、言い逃れである事も承知しております。ですが、であればこそ、出来る事はしようと決心いたしました」

 北条柾木は、どこかでお金持ちのお嬢さんの道楽に付き合っている位の気持ちがあったことを少し恥じ、背筋が伸びる思いがすると同時に、目の前の小さく、だが健気で尊い少女に好感を覚えつつあった。


 結局の所、曾祖父の恩人を探す過程で知らずに踏み込んだ、人ならざるもの達が跳梁跋扈する世界、そこで起きたことは新聞沙汰にもならないが確かに存在し、そして最悪、人の命が失われていることを知った。まだまだ情報が圧倒的に少ないからわからないことだらけだが、それでも、人も人以外もいくつかの勢力があり、それらがしのぎ合っていること、その中で、あちこちで噂に上る「有名人」が幾人かいる事、等がわかってきている。件の狼女は、その「有名人」の一人であり、そしてどうやらその狼女も何らかの組織に所属しているらしく、荒事の現場での目撃談が多いという。

「それで、殺し屋と……」

「左様でございます。ただ、あくまで噂ですが、狙われる相手も相当な大物ばかりと聞いております」

 少々喋り疲れたのか、椅子に深く腰掛けてお茶を嗜んでいる玲子に替わって時田が答える。

「その筋では、「栗色の狼」に出会ったら覚悟せよ、と囁かれているとか」

 だから、その筋ってどこよ。まあ、まっとうではない情報源に繋がりがあるだろう事は、今までの話でおおよそ理解出来た。北条柾木は、それに関連し、もう一つ聞いておかなければならないことがあるのを忘れてはいなかった。

「もう一つ、教えて下さい。どうして、青葉さんと一緒にいたのが僕だと解ったんですか?それに、家も?」

「それは、まだ勘弁して下さいまし。蛇の道は蛇、としか、今は申し上げられません」

 ティーカップから唇を離し、申し訳なさそうに玲子が言う。なんとなく、柾木は思い当たる。ホテルの支払いにカードを使った、カードのピッキングは違法だが、場末のホテルならその手の裏社会と繋がりがあっても……そして、その程度の事は知れるレベルで、そっち方面とも繋がりがある、繋がりを持たざるを得ない状況にある。蛇の道は蛇とはそう言う事か。

「今は?」

 あえて、柾木はそこに突っ込んでみる。

「……今更、私が申し上げるのも何だとお思いでございましょうけれど、これ以上深入りなさらないで下さいまし。本当に後戻り出来なくなりますから……」

「そうですか……」

「本音を申し上げますと、北条様とこうしてお話させていただいて、胸のつかえが少し取れたように感じておりますの。ですから、またお話しさせていただきたいと思うのですけれど、そうするとよからぬ者どもから北条様が目をつけられる機会を増やすことにならないとも限りません。折角、楽しくお食事を一緒にしていただけたのですから、そんな方に危ない目には遭っていただきたくありませんの」

「いえ、そんな、買いかぶりすぎです。でも、不思議だな、実は、その狼女からも似たような事、言われてるんです」

「え?」

 玲子が聞き返す。時田も身を乗り出しているが、そんな二人の動揺には気付かず、北条柾木は続けた。

「怖い思いしたくなければもうこっちに近づくな、一度関わったから、あっちから寄って来るだろうけど、無視しろ、だったかな。そんな事を言われたので、その狼女、僕はそんなに悪い人の気がしてないんです。あ、そういえば、五月さんの首を斬った後、助けに来たのに思い違いもいい加減にしろ、って言ってましたっけ」

 しばし、玲子と時田は無言で顔を見合わせていた。そして、

「お姫さま、これは……」

「そうね、情報を整理し直さなければいけませんね」

「……僕、もしかしてそんな大変なこと、言いました?」

「ええ……その「栗色の狼」から直接声をかけられた話を伺ったのは初めてです」

「何しろ、「栗色の狼」を実際に見て生還した者の証言は、人にしろそうでないにしろほとんどございませんでしたので」

「そうですか……ははっ」

 北条柾木は思った。もしかしたら、俺はものすごく運良く命拾いしたのかもしれない。

「やっぱ、東京怖い」


「今日は本当に楽しゅうございました」

 西武新宿線田無駅からも青梅街道からも中途半端に離れた北条柾木のワンルームマンションの近くに停めたセンチュリーの後部座席で、玲子が名残を惜しむ。

「五月様の訃報を聞いてから本当に心が苦しくて、胸が詰まったようだったのですが、北条様とお話ししていただけまして、本当に胸のつかえが取れたようですわ」

 相変わらずベールの奥の瞳は見えない。だが、北条柾木は、そこに、最初の頃に感じた暗い臙脂色ではなく、もう少し晴れやかな茜い瞳を見たような気がした。

「いえ、こちらこそ。ごちそうさまでした。あの、部屋に戻って着替えてきますので、少し待っていてもらえますか?」

「?」

「この背広、お返ししないと……」

「あら、それは差し上げましたのに。時田、お伝えしていなかったのですか?」

「おお、これは、私としたことが。申し訳ございません」

 時田が微妙に芝居がかって答えたのは、北条柾木にも感じられた。

「え、そんな」

「こんなものでお詫びになりましょうか、是非受け取って下さいまし」

 玲子の華奢な指が北条柾木の手を取り、小さな箱を握らせる。

 え~?とか言いながら北条柾木が開いたその箱の中身は、派手さはないが趣味の良い、このスーツとネクタイに丁度合うだろうティファニーのネクタイピンだった。

 目を見張る北条柾木に、玲子は、

「時田の見立ては正確でございましょ?一目で服の寸法を測るのは時田の特技なのです。袴田?」

「はい、こちらに」

 いつの間にか、運転席の袴田が右リヤドア側に立って、そっとドアを開け、ビニールに包まれた、クリーニング済みの、最初に北条柾木が来ていたスーツその他を差し出す。

「……」

 言葉にならず、それでも、これは、良いから受け取って黙って車を降りなさいという意味だと理解して、北条柾木はドアシルをまたぐ。

 センチュリーの後ろを通って左リヤドア側に回った北条柾木を、玲子はパワーウィンドを下ろして待っていた。

「本当はもうお会いしない方がよろしいのは解っておりますけれど、またいつかお会いしましょう、と申し上げるのを御容赦下さいまし。本当に、楽しゅうございました」

「こちらこそ、何と言って良いか……」

 北関東の田舎から就職で出てきた、これといって取り柄もない新入社員にとっては、大企業の社長御令嬢とお近づきになるなど望外もいいところだ。北条柾木は、そのことを思い出して心底恐縮し、恐らくこれで二度と会わないと思うと、少し、いやかなり残念に思い、胸が締め付けられるのを感じた。

「お名残り惜しゅうございますけれど、これにて失礼させていただきます。ご幸運をお祈りいたします」

「はい、玲子さんも、あの、はい、えっと、お幸せに」

 一瞬、玲子は目を丸くし(たような反応をし)、すぐに可愛らしく吹き出し、手で口を隠して笑う。

 ああっ俺は言うに事欠いて何言ってんだやっちまったうわ超恥ずかしい。

 真っ赤になり、心の中で地団駄踏んでのたうち回る北条柾木を置いて、センチュリーは走り出す。窓からはみ出すボンネットとベール、懸命に振られるレースに包まれた華奢な手は、すぐに車の雑踏に紛れて見えなくなった。

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