第1章 Side-B:事案発生

「ああ、酒井さん、ここですここ、はい」

 酒井源三郎さかいげんざぶろうは、振り返りざまにそう言って自分に笑顔を向ける年下の同僚、蒲田浩司かまたこうじに連れられて、ここ、新宿歌舞伎町の目抜き通りから一本奥まった所にある雑居ビルの五階の、小さいがちょっと小洒落たバーのエントランスの前に立っていた。

「酒井さんの就任祝いなんですから、はい。ささ、入ってください」

 そう言って、蒲田は酒井の背後に回って、多少おどけた様子でその背中を軽く押す。否応もなく、仕方なしに酒井はドアを押し開ける。店の中は思ったよりも明るく、重厚な木材のカウンターの奥に若く見えるバーテンダーが一人、カウンター席は五つ、ボックス席は二つ、カラオケがあるような店ではなく、葉巻とスコッチの匂いが壁にしみ込んだ、マスターの好みが知れる趣味のいい店だった。

 歓迎会の二軒目としては、なかなかいい選択だ。しかし……

 客は、カウンターに二人のみ、いかにも仕事のできそうなビジネスマン風の、そこそこ年かさの男達が、葉巻をくゆらせつつバーテンダーと談笑している。一目見渡して、酒井は、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

 なんとなれば、酒井は、ついこの間までは、地方の駐在所勤めの警部補だったからだ。


 酒井が何故、今の職場、警察庁刑事局捜査支援分析管理官付調査班に配属されたのか、まだ誰からも納得のいく説明を受けていなかった。酒井自身、そもそも警察庁にそのような部署があることなど全く知らなかったし、地方警察の警察官が警察庁に転属になる事は基本的にあり得ない、というのが彼ら地方警察官の常識だった。ましてや、転属と同時に酒井は警部に昇進になった。辞令を受け取るために訪れた、旧職場の長である某地方警察本署の署長室でその事を尋ねても、理由は聞かされていない、警察庁からの直接の意向だ、の一点張りだった。警察官として上司は尊敬していたし、逆に疎まれていた覚えもない。条件だけから見れば左遷ではなくむしろ栄転だが、本来あり得ない転属だから疑問は募る。その疑問の回答を、信頼していた上司が教えてくれない事が納得いかず、まして知らないなどということがあり得るとはまったくもって思えなかった。

 もやもやした気持ちのまま住み慣れた土地を後にし、翌日、つまり金曜である今日の事だが、その午前は何とか事前に予約しておいた板橋区のウィークリーマンションに最低限の荷物を持ち込んで、どうにか当座の寝床を確保するのに費やし、午後になって指定された霞ヶ関の中央合同庁舎二号館にたどり着き、着慣れない背広で事前の指示通りに各所に挨拶回りした後、新たな職場の事務室を訪れたのはその日の午後も遅い時間帯だった。訪れた先では、同僚(となるはずの人材)の殆どが出張中、唯一事務室にいて対応してくれたのが、今、酒井をバーに誘っているこの蒲田巡査長だった。

「ご存じの通り、警察庁は各地の地方警察の管理を受け持つ機関です、はい」

 二十五歳だと言うが、それよりむしろ若く見える蒲田は、挨拶もそこそこに、課長、階級で言えば警視長という、一般的な地方警察の署長より上に当る、酒井からすれば文字通り雲の上の存在である所属長から酒井さんの世話を言付かってますと切り出し、この聞いた事もないのない職場のあらましをかいつまんで説明した。

「昨今の犯罪の巧妙化、国際化、IT化等々の流れから、警察庁刑事局に捜査支援分析管理官が設置されたのは比較的最近のことでして、はい。これとは別に、アメリカに連邦警察があるように、日本においてももっと積極的に地方警察の垣根を超えた事案の対応を担う機関が必要ではないか、という声が一部であがりまして、はい。なので、それなら試しに何が出来て何が必要か、実際にやってみてはどうか、ということで、丁度いいから捜査支援分析管理官の下に付属する部署を新設してとにかく動かしてみよう、という非常に前向きな試みからこの調査班が仮設置されました、はい」

 すらりとした痩せ型でほどほどの身長、おしゃれな丸眼鏡の載った整った甘いマスクに、人柄が表れている人懐っこそうな口癖。彼自身も地方警察の制服警官からの引き抜きだというが、こんな人当りのよさそうな若い警官を手放す派出所の損失はいかばかりだっただろうか。

「形式上、我々は所轄の警官と同等の権限と装備は与えらえますが、必ずしも自分から直接捜査にあたる必要はない、とされています、はい。あくまで地方警察をまたぐ事案について調整し、連絡を取り、必要に応じて調査の手配を行う、というのが本来の役目です、はい」

 自分の背広の下のショルダーホルスターに収まる、小型の自動拳銃――P230JP、SP向けの最新装備だ――と手錠入れを見せつつ、蒲田が言う。もちろん、普段から携帯しているわけではなく、これは今、酒井に見せるためにあえて着けているのだそうだ。

「とまあ、概略はまずこんなところです、はい。具体的な業務内容や方針なんかはおいおい詳しく説明しますが、とにかく、我々、捜査支援分析調査班、長いんで内々では分調班なんて略してますが、分調班は酒井警部の着任を歓迎いたします」

 蒲田は姿勢を正して敬礼――着帽していないときの敬礼は姿勢を正した前傾十五度のお辞儀「室内の敬礼」である――をする。答礼した酒井に、

「というわけで、管理官からの勅命であります、はい。酒井警部の――」

「酒井、でいいよ。警部なんて、てんでなじみがないし……」

 そもそも、警部補、なんて呼ばれることもめったになかったし。駐在所勤めだった酒井は、そんなことを思い出していた。地域の人から呼ばれる時は「お巡りさん」。それが、何より心地よかった。

「では、酒井さんで、はい。酒井さんの歓迎会を執り行うよう、管理官から予算を受け取っております、はい。場所は私に一任されておりますので、これからそちらに酒井さんをお連れし、予算を執行したいと思います、はい」

 蒲田の背後にある事務所の時計が、定時を指すのを知っていたかのように、蒲田はそう言って自分の机のノートPCをシャットダウンし、引き出しに仕舞って鍵をかけると、鞄を手に取った。

 ……こいつ、人柄と人当りは良さそうだけれど、調子と要領はそれ以上にいいかもしれない。

 酒井は、蒲田の第一印象を少し改めることにした。

「……一つ聞いて良いかな?」

「はい?」

「他の人がいないけど……」

「なので、本日は会場の下見であります。班員揃っての歓迎会は日を改めまして、はい」

 改める幅を、もう少し広げる必要がありそうだ。酒井は、蒲田の第一印象を修正した。


「ここは、管理官のひいきの店なんです、はい」

 ボックス席の一つで、蒲田はそう酒井に告げる。目の前のウィスキーボトルも、課長つまり管理官のそれであり、もちろん課長の許可あってのことだそうだ。なるほど、警視長ともなると、良い店で良い酒を呑んでいる。店も、時代遅れとも言えそうな、バーテン一人、ホステス一人か二人で回す小さなバーに見えるが、実に落ち着いていて趣味が良い。

「岩崎管理官以下、班員の殆どは本日は出張中ですが、酒井さんの対応はすべて私が言付かっております、はい。実を言いますと、分調班発足当時の最初の班員は、管理官と私なんです、はい」

 一軒目の店のアルコールで喉を湿らせたことでより饒舌になったのか、蒲田の口は先ほど庁舎の事務室に居た時よりさらに軽い。

「なので、正直、僕は班員の誰より仕事をわかってる自信はありますです、はい。安心してど~んとお任せください、はい……ああ、来た。サツキさん」

 なんと、そりゃ……と酒井が少し驚いたところで、蒲田は酒井の後ろに目をやった。酒井は、すぐに、甘い香水の匂いに気付く。現れたのは、赤いドレスを纏ったホステス。長袖でミニ丈のペプラムドレスの似合う、きれいだが絶世の美女というほどではない、頑張れば手が届く最上限くらいの顔立ちと、そこに釣り合う程良く主張する肢体。なるほど、これなら店の雰囲気を壊さないちょうどいいバランス、逸材といえるだろう。

「いらっしゃいませ、蒲田さん。今日は岩崎さんと一緒じゃないんですね?やっと自分のボトルを入れる気になったんですか?……こちらは?」

 優しげで自然な笑み。ホステスの声は低めでよく通った。軽すぎず、威圧感や媚びた感じもなく、ごく自然体で、まるで古いなじみのように感じる、そんな口調だ。

「まだそんなお金ないです、はい。こちらは酒井さん、今日、うちに配属になられた方です」

「あら。それはそれは。初めまして。サツキです」

 ども。ぎこちなく酒井は座ったまま会釈し、差し出された名刺を受け取る。青葉五月、薄桜色の台紙に、ささやかな飾り模様と自分の名前と店名以外に情報のないその名刺には、明朝体のきちんとした文字でそう書かれていた。

 こういう店の経験がほとんどないから、どう振舞ったものだか、酒井は皆目見当がつかない。酒は好きだが深酒するタイプでも外に飲みに行くタイプでもなく、家で軽く晩酌、主に夏はビール、冬は焼酎のお湯割りを嗜むのが、酒井の今までの酒の飲み方だった。次のアクションをどうするべきか戸惑ってしまった酒井に気づいたのかどうか、スカートの裾を抑えつつ五月は酒井の斜め前に座る。

「それで、今日はサカイさんの就任祝いなんですの?」

「そうです、はい。岩崎管理官の承認はもらってますから、お代はそちらにつけて、盛大にお祝いして下さい」

「そういう事なら遠慮はしませんよ?」

 言って、五月は既にテーブルに置かれていたウィスキーを三人分、手際よく作り、二人の警官と自分の前に置いた。

「では。サカイさんの新しい門出に、乾杯」


 それから一時間ほど、とりとめもない世間話と酒、たまに煙草を組み合わせた、酒井にとっても思いのほか心地の良い時間が流れた。思うに、青葉五月というこのホステスのリードが上手いのだろう。出しゃばらず、流れを止めず、そして話題や言葉の選び方に教養や知性が垣間見える。なるほど、店の雰囲気にマッチする逸材だ。酒井にとって、家での晩酌とは違う、こんな酒の飲み方があるというのは、新発見であった。

 そんなようなことを、上等な酒でやや軽くなった酒井の口がポロリとこぼす。

「あら、サカイさんは普段はお店で呑まれたりされないんですか?」

「田舎の駐在所勤めなもので、近所にこんなおしゃれな店ありませんから。それに、深酒してイザって時に動けないのも困りますので」

 あれ、おかしいな。酒井は、自分で言いつつ違和感を覚え、すぐに違和感の正体に気付いた。

 ああ。自分は、もう、駐在所勤めではなかった。

「どうかされました?」

 五月は、そんな酒井のわずかな動揺を見逃さなかった。酒井は、その五月の、わずかに傾げた首筋と、その動きで揺れ、光るイヤリングに妙に気を取られながら、

「いえ、自分は、もう駐在所勤めではなかったなと……」

「ああ、そうですよ。何か変だと思ったんです、はい」

 グラスを空けつつ、蒲田が相づちを打つ。

「まだ、新しい環境に慣れてらっしゃらないんですのね」

「今日、配属になられたばかりですからね、はい。そういえば、酒井さんはお住まいはもう決められてるんですか?」

「ん?ああ、とりあえず、ウィークリーマンション?ってのをしばらく借りてる。早くどこか探さないとな……」

「それでしたら」

 蒲田が目を輝かせた。

「五月さんに方角とか占ってもらってはどうです?はい」

「占い?」

 ちょっと虚を突かれて、酒井は蒲田を見て、すぐに五月に視線を移す。

「五月さんは、副業で占いをされてるんですよ、はい」

「もう。占いが本業です、こっちが副業。いつも言ってるじゃないですか」

 ちょっと口を尖らせて五月が訂正する。恐らく、蒲田は知っていてわざとそう言ったのだ、酒井は即座に理解する。実に魅力的な、五月のこの表情を見る為に。

 笑顔を取り戻して酒井に向き直った五月は、

「私、占いのお店でも働いてるんですけど、正直あんまりお金にならないので、こちらでも働かせてもらってるんです。ですから、このお店では基本、本格的な占いはしないんですが、あくまでお酒のおつまみ程度でしたら、私の練習も兼ねて、やらせていただいてます。ね、マスター?」

 サラリーマンにカクテルを作りつつ、カウンターの奥のバーテンダーが頷く。

「それで、本格的に占って欲しくなったら店にどうぞ、って事らしいです、はい」

「もう。……まあ、そうなんですけど」

 ちょっとだけ、バツが悪そうだ。

「いかがです?やってみます?」


「サカイさん、それでは改めて、お名前と生年月日をこちらにいただいてもよろしいですか?」

 青葉五月は汚れてるようには見えないテーブルをダスターで拭き、さらに乾いた布巾で丁寧に拭き清めてから、慣れた手つきでハンドバッグの中のメモ用紙とペンを取り出し、酒井の前に置いた。

 ああ、占いだものな、自然に納得して、酒井は差し出された可愛らしいメモ用紙に、細身のボールペンで姓名と生年月日を書く。その間に、五月はハンドバッグから何やら綺麗な布包み、濃い紫の、濡れたような艶からすると絹の袱紗だろうそれを抜き出し、包みを解いて中から一束のカードを取り出した。100枚ほどもあろうか、そのカードの束から、上の20枚程を選り抜いて残りは袱紗に戻し、ハンドバッグに仕舞う。テーブルの上に置かれた、選り抜きの20枚ほどは、見ればそれは個性的なタロットカード、絵柄がどことなく和風のそれであった。

 思わずメモ用紙を書く手を止めてカードに見入った酒井に気付いたか、五月は、くすりと微笑むと、

「気になります?初めての方はみんな珍しがるんですよ、私の師匠が作ってくれたタロットカードなんです」

「師匠?」

「占星術の師匠です。色々と博識な方で、私も道教の占いとか、西洋占星術とか、色々教わりました」

 言いながら、22枚の大アルカナカードをテーブルの上でかき回し、シャッフルする。

「本格的に仕事としてやる時は、小アルカナも使いますし、別の占い方もしますけど、今日は簡単に大アルカナだけでやらせていただきますね……すみません、このカードを」

 ウォッシュシャッフルしたカードをまとめ、軽く二度ほど手の中でヒンドゥーシャッフルし、テーブルに置く。

「二つでも三つでも構いませんので、好きなところでカードを分けて、積み直して下さい」

「こうかな?」

 言われるままに、酒井はカードの山を二つにカットし、また積み直す。

「はい、ありがとうございます」

「三つじゃないんですか?」

 蒲田が聞く。どうやら多少、カード占いのやり方を知っているようだ。何度か占ってもらったことがあるのかも知れない。

「大事なのは、回数ではなく思いをカードに伝えることなんですよ」

 酒井がカットする様子をうかがっていた五月は、カードを手に取ると、シャぱ、シャぱ、シャぱ、上から三枚のカードを酒井の前に並べた。

「御存知かもですが、タロットはカード一枚一枚に意味があって、しかも向きによって意味が変ります。今回はお引っ越しの方角という事なので、ざっくり、まずは東西で。酒井さんから見て右が東、左が西です……」

 説明しながら、五月はスリースプレッドと言う占いを始めた。


「……なので、非常にざっくりですが、お勧めは東側、葛西とか市川とか、そっちの方でしょうか」

 わかったようなわからないような、曖昧な結果だ、酒井はそう思った。東京の事情はよくわかってないが、金額その他の意味で、都心部ではとても部屋など借りられないだろう事はわかる。部屋を借りるなら千葉か埼玉か、そもそもそう思ってはいたのだ。

「……酒井さん、あんまピンと来てないみたいです?はい」

「そりゃ、こっちの住宅事情はてんでわからないし……いや、申し訳ないんだが、実を言うと、今まであんまり占いとか頼りにしたことがなくてね」

「男の方はそういう方が多いですから、お気になさらなくて大丈夫ですわ」

 軽く肩をすくめて五月が言う。演技か本心か、「頼りにしてもらえないのは不本意ですわ」とその顔には書いてある。

「五月さんの占いはよく当たるんですけどねぇ、はい……そうだ、だったらいっそ、酒井さん、酒井さん自身についても占ってもらってはどうです?はい」

「俺自身?」

「過去の事とか、あるいはこの先の事で何か占いに符合することがあれば、信じる気になるんじゃありませんか?はい」

「蒲田さん、占いは無理強いするものじゃ……」

「いやいや、僕は五月さんの占いのファンですから、是非酒井さんにもその凄さを知って欲しいんです、はい」

「また……お世辞ばっかり」

「それに、酒井さん、何かお悩みがあるようなので、はい」

 突然、空気も読まずに思いもよらぬことを口に出した蒲田のストレートな物言いに酒井は驚き、それ以上に、口に出していないし、態度にも出していないはずの自分の内心を簡単に見抜いた蒲田の眼力に酒井は驚いた。驚いてから、ああ、と思い直す。この新しい職場の課長と蒲田はどうやら懇意らしいし、自分のことを任せている以上、自分に関する情報は一定量伝えているのだろう。警察官にとって、職場の同僚や上司に対し、ある意味プライベートは存在しない。お互いに一定の線まではプライベートを共有しあい、私生活が円満であるように努めあう。それが酒井が教わっり、信じている警察官の姿であり、そうでなければ、私生活に問題があるようでは、市民を守る警察官の仕事は全うできないと、そう思って仕事に励んできた。であれば、蒲田が酒井の問題をある程度把握していても、まったく疑問はない。それにしても…

「酒井さん、分調班でこれからどうしていくか、ひとつ占ってもらうといいと思います、はい」

 酒の勢いを借りている体でド直球をど真ん中にぶち込んでくる蒲田の、この男のこれは酒癖なのか素の人格なのか、はたまた演技なのか酒井は判断しかねた。そして、正直、酒井はまだ迷っていた。そろそろけじめを付けたいと思ってはいるが、こうも唐突に、こんな場所で自分のプライベートをさらけ出すことに対する抵抗が、まだ捨て切れていなかった。だが。

「…そうだな、ちょっと踏ん切りつけたほうがいいのかもな…」

 酒の力を借りて、当面の同僚の前で恥をかいてしまう方が踏ん切りが付くかも知れない。それこそアルコールのおかげか、酒井は、前に進む決心をしてみる気になった。


「今、酒井さんから見た側が正位置、酒井さんから向かって左が過去、真ん中が現在、右が未来を示します。過去も未来も、比較的近い範囲、と言う縛りで観てみます。現在にあるのは戦車の正位置。今現在、何らかの成功、出世、ないしは利益を得ませんでしたか?」

「さて……」

 歓迎会でタダ酒を呑ませてもらってはいるが……あ、

「……確かに、おかしな昇進はしたか……」

 三十三歳の酒井が警部に昇進するのは、Ⅲ類、高卒採用組としてはかなり早いほうに属するが、年齢的には必ずしも有り得ない事ではない。だが、そもそも酒井が警部補を拝命してからまだ一年足らずであり、本来、警部補拝命から警部昇進資格を得るには四年以上の時間が必要という服務規定がある。その上、昇進に関する試験や手続き一切をすっ飛ばしている事を考えると、これは本来ありえない人事であり、今回の昇進と転属について、酒井が疑念を抱く原因の一つでもあった。

 考え込んでしまった酒井を見て、五月はふわりと微笑んで、未来のカードを示す。

「未来にあるのは隠者の正位置。まだ酒井さんの人となりとか、正直よく存じ上げないのでなんとも言えないですけれど、未来には真実がある、いいえ、真実が未来に得られる、と言った方がいいのかな?きっと何か、疑問が氷解するような事が近い将来に起こる、と思えます」

 そう言われて、内心ぎくりとしつつ、酒井は曖昧にうなずいた、うなずく事位しか出来なかった。そして。

「問題はこれです、過去にある、逆位置の運命の輪。解釈が難しいですけれど、酒井さん」

 言葉を切って、五月は、真剣な、それでいてどこか辛そうな目で酒井の目をのぞき込む。

「……最近、ご自身か御家族に、何か御不幸がありませんでしたか?」

 言われて、酒井は動揺した。この瞬間まで、タロット占いなど、酒場の余興以上のものではないとタカをくくっていた。だが。

 酒井は、一月程前に勤務中に大ケガをし、しかもその前後の記憶を失い、そして。

 回復してやっと帰った家からは、妻と娘が消えていた。


「わかっちゃう、もんですか……」

 絞り出すように、酒井が言う。

「……それが、仕事ですから……」

 五月も、ちょっと辛そうに答える。占いが当たった、当たってしまったことが辛いのだろう、そう思える態度だった。

 蒲田は、何も言わずに、グラスを口元に当てて、ただそんな二人を見ている。今までの経緯からして、蒲田がその事を知らないはずがない、酒井はそう思っていた。いずれにしろ、知っていたとしても、知らなかったとしても、うかつに口を挟まない、酒の席でもその程度の分別と思いやりは持ち合わせている、酒井は、蒲田の評価にそう付け加えた。

 ふう。わざとらしくため息をつき、酒井は腹を決めた。決めることにした。

「一月程前、だと思うんですが、私は勤務中に大ケガをした、らしいんです。どうも、その辺の記憶がはっきりしなくて。何があったか全く覚えてないんですが……公傷扱いになってますから、勤務中のケガには間違いないんですが、気がついたら病院のベッドの上で。その時には体はもうなんともなくて、それで、家に帰ったら……女房と子供が居なくなっていまして」

 膝の上に肘をつき、組んだ手指に額を乗せて酒井は話しを続ける。

「それで、もしやと思って女房の実家に電話したんです。そしたら、女房は今度の件で離婚を考えていて、私が入院している間に家を出たと。実家には帰っていなくて、行き先は教えられないと」

「まあ……」

「自分に何が起きたのか、家族に何があったのか、全く思い出せなくて。その上で家に家族が居なくて、しかも突然離婚だと。もう、どうして良いかわからなかったところに突然の転勤、出向の話が来て。とにかく辞令には従わないといけないのでこっちに来たんですが……」

「……お仕事、断れないんですの?」

 酒井は顔を上げた。

「……自分は、警官ですから」

「……」

 五月は、哀れむような、何か言いたそうな目で酒井を見た。酒井は、自分がよほど卑屈な表情をしていたらしいということに気付いた。自分ではニヒルに笑って見せたつもりだったのに。だったら。

 ぱん。両手で両膝をはたき、勢いをつけて顔を上げて、酒井は切り出した。

「青葉さん、占いで、記憶を、過去をはっきりさせるって出来ますか?」

 五月は、悲しげな目をして、

「……それはどうでしょう、占いってそんなに都合良く出来てはいないんです。カードは手がかりは教えてくれますが、あくまで手がかりであって、私はそれを解釈してお伝えしますけど、答えを出すのは酒井さんなので。水晶玉に過去の出来事が映る、なんてのが本当に出来れば良いんですけど」

 そういうの、私はやってませんし。言って、困ったように微笑む。さては、そういう注文がたまにあるのだろう。

「でも、過去の手がかりにはなるでしょうし、何より、この先どうするかのヒントを得る方が建設的だし、本来占いってそういうもの、未来を如何に善く生きるか、その方法を探す為のヒントなんです。占って差し上げても、よろしいですか?」

 確かに、そうだ。過去は、知ろうと思えば、地元の警察の資料にあるはず。署長も、知っていて黙っていたに違いないし、そこで渋い顔をしている蒲田も、恐らく、ある程度は知っているのだろう。

 いずれ知れる事、過去は変えられない、だが、今教える事ではない、教えてこれ以上のショックを与えるべきではない、自分から蒲田に与えたくない、皆、そう考えたのだろう。俺が目の前で落ち込むのを見たくはなかったし、自分が落ち込ませたくもなかった、多分、ただそれだけなのだ。

 だったら。

「……お願いして、いいですか?」


 五月は、もう一度カードをかき混ぜる。その上で、酒井にも同じ事を、ウォッシュシャッフルをしろと言う。

「その方が、カードに酒井さんの事が伝わります」

 まるでカードが生きているようなものの言い方だ。いや、彼女は占い師なのだから、実際にそう思っているに違いない。

 酒井は教えられるままにカードをかき混ぜる。丁寧に、優しく。

 そのカードをまとめ、カットし、酒井は五月に渡す。五月は三回ほどヒンドゥーシャッフルした後に、今度はカードをケルト十字で並べた。


 並んだカードを見て、五月は考え込んでしまった。

「……」

 酒井は、声をかけたものかどうか迷っていた。蒲田も、さっきから一言もしゃべっていない。このテーブルだけ、空気が重かった。

「この真ん中の十字、下のカードが未来で、その上に乗っているカードが障害です。酒井さんから見て十字の奥が目標、手前が原因です」

 そのように設定してカードを配置した、と、五月は説明する。

「未来が隠者なんです。ここまで綺麗にさっきと一致するのも割と珍しいんですが……乗っかってるのが法王、真実を嘘、悪意のない嘘が押さえつけている、って構図なんですが……その原因がストレングス、もう、さっき酒井さんがおっしゃった構図そのものですね」

 暴力が原因で、真実が隠されている。しかも悪意がない、と言うより善意で。簡単に言うとそういう事になる、そう五月は説明する。

「近未来が戦車、これもさっきと同じですね、酒井さん、カードによほど気に入られてる、肩入れされてますよ。問題は……」

 言いながら、五月はカードに集中していた視線を酒井に向けて持ち上げ、微笑み、そして視線を落し、真剣な表情に戻って、

「遠未来あるいは目標、これが、死神の逆位置なんです」

 死神は見た目通り、正位置でもろくな意味にならない。基本的にタロットでは逆位置になると意味が反転するが、全く逆になる、と言う訳でもない、と五月は言う。

「この場合、それが何かまではわかりませんが、障害を文字通り力ではねのけた先に未来が得られる、ただし、それは相当な苦労を伴う、と解釈して下さい」

 言って、五月は傍らのグラスに口をつける。軽く唇と喉を潤して、

「酒井さんは、蒲田さんと同じお仕事なんですよね。場合によっては本当に命がけの事になるかも知れません、それくらい強い暗示なんです、これは。けれど、恐らくはそれを撥ね除けて栄光を手に入れられる、勿論酒井さんの努力次第なんですが、正直言って、相当きつい障害がこの先出てくると思います。それでも、必ず乗り越えられる、乗り越えさえすれば、栄光が手に入る、そういう暗示です、これは。そして、恐らく酒井さんには、その力が、ある。戦車が示すのが、それです」

 言い切って、五月は上気した顔をパッと上げ、酒井の顔を正面から見つめる。少しどぎまぎしつつ、このホステス兼占い師は、俺を元気づけようとしてくれているのだなと、酒井は感じる。

「今、この場で言えるのはこれくらいです。もっと詳しく占うには、やはり私の職場でないと……」

「ああ、やっぱりそうやって表のお仕事に誘うんですね?はい」

 絶妙なタイミングで、蒲田がおどけたように混ぜっ返す。それに乗っかって、このお店で筮竹ジャラジャラしたら雰囲気ぶち壊しでしょ?ジェスチャー付きでそう言ってから、だから私の占いの事務所にも来て下さいね、五月は最高の微笑みでそう付け足す。

 つられて、酒井は、苦笑するしかなかった。


 それからさらに小一時間ほど、とりとめもない談笑の時間が、紫煙とアルコールを伴って流れた。いつの間にかカウンターのサラリーマンは居なくなっていた。

 時計の針はあと三十分ほどで日付が替わる事を伝えている。壁掛け時計を見た後に腕時計でそれを確認した蒲田が、

「さて、そろそろおいとましないと。午前様はしたくないので、はい」

「あら、もうそんな時間?名残り惜しいですわね」

「そうだな……いや、楽しかったよ、こういうお店は初めてだったんだが……」

「お楽しみいただけて、こちらこそありがとうございました。またいらして下さいね。特に蒲田さん、ご自分のお財布で」

 からん、ころん。

 エントランスのドアチャイムが、宴の幕切れの、そんな定型的なやりとりの間に割り込む。酒井は、目深にパナマ帽をかぶり、白地に細いストライプのスーツを粋に着こなした、明らかにあえて男装していると思える大柄な女性が入店してきたのを、目の端に捕らえた。同時に、ほんの一瞬、五月の視線がそちらに向かい、見た事もない表情がそこに浮かんだように見えた。

「では、お支払いは管理官に、はい」

「はいはい、全く……」

 さっきのそれが見間違いであるかのように、五月の笑顔はそれまで通りのもので、酒井は、きっと、男装の女性客という、見慣れない一見の客をいぶかしむ視線を誤認したものと思う事にした。

「じゃあ、マスター、五月さん、ごちそうさまでした、いずれまた、はい」

「ありがとうございました。また、ごひいきにして下さいね」

「あ、ああ、それじゃあ……」

 笑顔で見送ってくれる五月の肩越しに、カウンターのスツールに腰掛け、パナマ帽を脱いでなにがしかマスターに注文するその女性客の、染めたにしてはあまりに自然で見事な栗色のショートボブを見ながら、酒井はたどたどしく言って、店を出た。


 雑居ビルの五階から、発進停止で盛大にガタゴト動く、狭くてくたびれたエレベーターで、ゆっくりと地階に降りる。

「いかがでした?」

 広さは二メートル四方ほど、一面は表通りに面するエレベーターホールに出たところで蒲田が聞く。店の雰囲気か、酒の質か、それとも。

「いいお店だった。……俺の居た田舎にはこんな店なかった」

 背広の内ポケットから煙草とライターを取り出し、器用に箱を揺すって1本だけ煙草を出したところで、酒井は答えながら蒲田を見る。蒲田は軽く頷く。そう言えば蒲田は店でも吸っていなかったな、思いながら、エレベーターホールの壁に軽くもたれつつ、酒井も軽く頷いて煙草を咥える。

 反対側の壁、隣の雑居ビルとの隙間側になるそれによっかかって、蒲田が、

「気晴らしになっていただけましたか?」

 ああ、そういうことか。酒井は理解した。何か抱え込んだままにするより、最低限の人数で一度吐き出させてから、改めて新しい職場になじませた方が良い。課長か、班長か、それとも蒲田自身か、誰かがそう判断して……

「……ありがとう、多分、大丈夫だ」

 そう言って酒井が、咥えた煙草に、器用にセブンスターの箱を持ったまま百円ライターで火を点けようとした、その時。

 どんがらがっしゃーん。

 並んだゴミバケツを盛大にひっくり返したような、ものすごい音がエレベーターホールに、正確にはホールの壁の向こうから響いた。

 思わず目をまん丸にして見つめ合ってしまった酒井と蒲田は、一瞥でエレベーターホールには異常がない事を確認し、一瞬の沈黙の後、酒井は100円ライターのヤスリを、擦った。

 蒲田の背後の壁の向こうで、轟音が轟き、閃光が走ったのが、蒲田の頭から少し離れたところの明かり取り窓から見え、聞こえた。


 目を見開いたまま、蒲田はゆっくりと表通りから酒井のライター、火の付いたままのそれに振り返り、指差す。

 酒井は、それが意味する所を理解し、ぶんぶんと首を横に振る。咄嗟に箱に戻した煙草を、ライターと共に胸ポケットに仕舞い、表通りに飛び出す。蒲田も後に続く。

 轟音と閃光の割には、壁の向こうも、表通りも、被害と呼べるものはあまり無いように見えた。裏に置いてあったいくつかの樹脂製のゴミバケツが融けて歪み、中身の生ゴミも熱に炙られてすえた匂いをまき散らしている。表通りでは腰を抜かした酔漢が数名、道路にへたり込んでおり、さらに多くの野次馬が遠巻きに現場をうかがっている。その多くがスマホをかざしているのは、やはり今風の若者が多い証拠か。

「怪我人とかは居ないみたいですね、はい」

 ざっと見渡して、蒲田が判断する。一見して、動けなさそうな者、変な姿勢の者が居ない事は酒井も確認している。炎も煙も、もう全く見えない。

「……ガスか?にしては匂いがしないが……」

 酒井は雑居ビルの隙間に目を向けている。大人が両腕を広げた程度あるかないかのその隙間は、その中途半端な広さ故に仮置き、物置、ゴミ置き場として使われているらしく、ビールケースやらゴミ箱やらよくわからない湿った段ボールやらが盛大にとっちらかっていて足の踏み場がないが、不思議とまだ燃えているものはなく、ガスや揮発油のような可燃物の匂いもない。

「所轄に連絡します、はい」

 蒲田は既にスマホを取り出して耳に当てている。

「ああ、頼む」

 少しだけ上の空で、酒井が答える。酒井は、爆発の瞬間に視界の隅をよぎったものに気を取られていた。壁を背にした蒲田からは見えていなかっただろうが、反対側にいた酒井からは、表通りに向けて開けっぱなしのエントランスから、隙間に面する表通り付近が見えていた。煙草に火を点けようとしていたから本当に目の隅にチラリと見えただけだが、確かに、爆発の直前、人影が二人、飛び出して行ったように見え、また、爆発の瞬間、何か黒い、一抱えどころではない塊が吹っ飛んでいったようにも見えた。だが、表通りの反対側に、それらしい塊らしき落下物は、痕跡含め見当たらない。人影は……記憶を咀嚼すると、黒っぽいスーツの男?と、赤いドレスの女?のような気がする。赤いドレス。ほんの直前までの記憶がよぎる。

「蒲田君、ちょっとここ、任せていいかな?」

「え?構いませんが?」

「参考人が居たかも知れん、探してみる」

「……わかりました、はい」

 酒井は、カンを頼りに、知らない街である歌舞伎町の奥に向かった。


「状況は所轄に引き継ぎました、はい。酒井さんは今どちらですか?」

 蒲田がそう電話してきたのは、それから十五分ほどした頃だった。

「えっと……」

 酒井は近くの電柱の番地表示を読んで、伝える。歌舞伎町は、というか、東京は土地勘がまったくない。

「わかりました、すぐ行きます、はい。では」

 通話が切れる。酒井は、携帯電話――スマホではなく、二つ折りのガラホ、最近までいわゆるガラケー使いだった酒井は、使い方がガラケーと変らないこれでないとダメなタイプだった――を閉じて、内ポケットに仕舞う。

 ここまで、酒井は、「黒いスーツと赤いドレスのカップル」の行方を、聞き込みで辿っていた。あの爆発の直後だからか、それともそもそも周りに興味がないものが多いのか、聞き込みの結果はあまり芳しくはなかったが、それでもざっくりの方向性は辿れた、ような気がする。大体、赤いドレスはこの町では珍しくはないし、黒いスーツなど特徴がなさ過ぎて記憶に残らないようだ。だが、少なくとも、繁華街を離れ、ホテル街方向へという動線自体は、信憑性があるように思える。

 目印の電柱に佇む酒井の基に蒲田が合流して来たのは、それから五分ほど経った頃だった。

「で、何がどうしたんですか?」

 呑んだ後に動いたので、普段より息が上がり目なのだろう蒲田が酒井に聞く。

「……さっきの爆発だけど、現場から立ち去る男女を見た、ような気がするんだ」

「えっ……」

「はっきり見た訳じゃない、あの瞬間に、目の隅にちらっとだから。気のせいかも知れないし、居たとしても無関係かも知れない」

 周囲を見渡しつつ、酒井が答える。

「でも、万に一つでも可能性は潰しておくべきと、そういう事ですね、はい。了解です」

 合点がいったのか、蒲田が明るく答える。

「で、この辺にしけ込んだと?」

「それらしい人影の目撃情報を追っかけるとそうなるんだが……」

 この先どうしたもんだか。酒井は正直、困っていた。そもそも駐在所勤めの長かった酒井は捜査とか聞き込みとかは苦手、というより経験が殆ど無い。さらに、この時間、この場所は人通りが殆ど無い、その上に、たまにある人通りも、声をかけられる事を避ける雰囲気を濃厚に醸し出している場合がほとんどだ。

「どんな風体、人相なんですか?」

「多分、若い男女のペアで、男は黒かそれに近いスーツ、女は赤いドレス。それ以上は……」

「……赤いドレスの女、ですか……」

 多分、蒲田も酒井と同じ事を考えている。あり得ない話だと思っていても、直前まで実際に「赤いドレスの女」と呑んでいたのだ。冷静に考えれば、五階の店にいるはずの彼女、青葉五月が、あの瞬間にあそこに居ると考える方が難しいし、赤いドレスなど、歌舞伎町のホステスではありふれすぎていて珍しくもなんともないのだが、それでも、思い出すなと言うのも難しい。

「……これ以上は、所轄に連絡して手離れした方が良いかもですね、はい。そもそも我々は非番で管轄違いですし、第一、呑んじゃってますし、はい」

 正論だ。モヤモヤするものは残るが、餅は餅屋、あとは所轄に引き継ごう。

 酒井が、そう決断しようとした、その時。

 例えるなら、重量級ボクサーの全力パンチがサンドバッグに炸裂するような音がリズミカルに三回、続けて、木材とガラスが砕け、アルミがひしゃげる音が、夜半のホテル街に響いた。


「どっちだ!」

「多分こっちです!はい!」

 音はそう遠くは無さそうだが、ビルの谷間で反響して方向が今ひとつよくわからない。が、思ったよりあっさりと、その場所は知れた。

 窓を閉め切ったビルばかりのホテル街で、破られたその窓だけ、光りが漏れていたからだ。

 酒井は、迷った。こういう時、どうすべきか、酒井には経験が殆ど無かった。この時間帯に、こういったホテルの窓が開いているのは明らかに異常だが、それだけで事件とは決められない。自分たちが追っている参考人らしき人物との関係も不明、むしろ無関係の可能性も高い。まして、自分たちはこの地域の管轄ではなく、そもそも自分たちは、現行犯でない事件に対して強制捜査をする権限はない。

「……いきなり踏み込む訳にはいきませんよね、はい。ちょっと、フロントに様子を聞いてきましょうか?」

 酒井の迷いに感づいたのか、蒲田が提案する。恐らく、蒲田にも同様の逡巡があって、酒井より先に結論を出したのだろう。

「済まない、そうしてくれるか?」

「了解です、はい。酒井さんは、ここで窓を見ててもらえますか?」

「了解した、頼む」

 二本指のラフな敬礼を返して、蒲田がホテルの入り口に向かう。酒井は、電信柱の防犯灯の影になる位置を選んで、明かりの漏れる窓を監視する。窓は四階、高さは十メートルちょっと、窓の真下までは二十メートル程か。さて、警察手帳があるとは言え、アルコールの入っている私服の言う事を、ホテルのフロントの担当者がどれくらい信用するか……そこは蒲田の話術に任せるしかない。どうも、分調班で一番の古株、というのは嘘ではないらしい、少なくともこういう場面の場数は、多分自分より蒲田の方がよほど多く踏んでいるようだ。酒井は、蒲田の評価に新たな情報を付け加えながら、さっき吸い損なったセブンスターを取り出した。

 酒井にとって残念な事に、事態はまたしても、酒井に紫煙をたしなむ余裕を与えてはくれなかった。


 蒲田がホテルの入口の中に消え、酒井が百円ライターのヤスリを擦ろうとしたその時、

――ぱん。

 知らなければ、大きめのクラッカーを鳴らしたと勘違いしそうな破裂音が、明らかに光の漏れる窓から聞こえた。

 反射的に酒井は身を固くし、姿勢を低くする。銃声だ。聞き慣れている、と言うほどは聞いてはいないが、警察官として年に一回、五十発程度を撃つ実射訓練を受けている身には、銃声はテレビドラマのような外連味のある音ではないことはよくわかっている。間違いなく、あの窓の中では、何か非常事態が起こっている。だが……

 酒井も蒲田も、そこに踏み込む許可も権限も持っていなかった。

 所轄でもなく、非番で、しかも酒が入ってしまっている警察官に出来る事は、一般市民に万が一の危険が及ばないよう、警戒しつつ事態の推移を見守る事だけであった。

 なので、酒井は、歯軋りしつつ、その場に低く身を潜めていることしか出来なかった。それしか出来ない自分が歯痒く、いまにも飛び出しそうになる自分を抑えているのが辛かった。普段の酒井であれば、そこまで衝動的なものの考え方をしなかっただろうが、やはり酒が入っているせいなのか、今の自分が非常に衝動的かつ攻撃的なものの考え方をしている事に、酒井は気付いていなかった。だから。

 ビルの四階、破られた窓から何者かが飛び降りた時、矢も楯もたまらずに飛び出してしまっていた。


 その何者かは、最初、とても人とは思えなかった。何か異形の生き物、そんな感じだった。が、窓の奥からこぼれる明かりに照らされ、よく見るとそれは何者かがもう一人を担いでいるのだと、かろうじて判別することが出来た。問題なのは、その状態で窓から身を乗り出して、一体何をしようかということだった。真っ先に酒井が思い当たったのは、痴情のもつれからの傷害事件が発生し、被害者が窓から投げ捨てられようとしている、あるいは加害者が被害者をかついだまま飛び降りて心中しようとしているという、わかりやすい構図だった。

 ……投げ捨てるのか?飛び降りるのか?……

 どちらとも言えない、判断出来ない、判断する材料などなかった。はっきりしているのは、あの高さから降りたら――落ちたら、人間は無事では済まない、という明確な事実だ。

 そんな事を考えるのに費やした時間は、多分、一瞬であったのだろうが、酒井には恐ろしく長かったように感じた。すべてが――自分の体さえ――スローモーションで動いているようにすら感じた。そして。

 何者かは、誰かを担いだまま、窓枠に脚をかけて軽く身を沈めた。

 ……飛ぶ!

 そう思った時、酒井の体は既に飛び出していた。

 冷静に考えれば、地上四階から落下する人間を真下で受け止めたとして、双方共に無事で済む訳がない。地上四階の窓、およそ地上高十五メートルからの自由落下なら滞空時間が一秒強、落着時の速度は毎秒十メートルを超えるから、全力疾走のオリンピック級アスリートの百メートル走をゴール地点で受け止めるより運動エネルギーは大きい。相手が地上を走るアスリートなら、受け止められなくても双方ともそのまま地面に沿って吹っ飛ぶからまだマシだが、落下物の場合、真下が地面がなので、吹っ飛んでエネルギーを減殺する余地はない。良くて複数箇所の骨折、悪ければ即死しても不思議はない程度の衝撃を覚悟しなければならない。また、そもそも約二十メートル離れた地点からスタートして、一秒強で落下予想地点にたどり着くのは、それこそオリンピック級アスリートでも不可能な話だ。まして、静止状態から二十メートルを一秒強で走りきるほど加速した後に、落下地点で停止しなければならないのだ。

 だが、酒井の脳裏にそんな計算はなかった。ただ、民間人が落下する、それを防ぐ、なんとか助けたい、それだけしか考えていなかった。そして。

 気がついた時、酒井の目の前、文字通り目前には、バスローブにくるまれた人体を担いだまま、着地の為軽く膝を曲げて姿勢を整えた状態で、驚きに目を丸くして酒井を見る、赤いドレスを着た女性の体があった。そして、酒井は、この時点で、落下物を受け止める為にはその場で静止していなければならない、という事は脳裏から抜け落ちていた。つまり、酒井は、着地寸前のその女性に対し、全力疾走のまま、体当たりをかます格好になった。

 流石にこのままぶつかるのはマズい、その程度の分別と、驚いた事にそれに反応出来る反射神経が酒井に残っていた。なので、酒井は可能な限り衝突の衝撃を逃がすべく、体をひねりながら、落下してきた女性を抱え込むようにして背中から転倒する事を選び、酒井の体は忠実にその指令に従った。

 落下を受け止めた衝撃と、それを上回る勢いの水平移動からの転倒の衝撃で、酒井は一瞬気を失ったらしい。天地のひっくり返った視界と、その中から驚いた表情でこちらを見つめる栗毛でショートボブの美女。目を開けた時に見えたその光景が一体何を意味するのか、酒井は数瞬理解出来なかった。

 ただ呆然と見ていたのだろう、その酒井の視線をまっすぐ見返し、美女は、驚きからすぐに何かに気付いた表情になり、次いで、まるで少女のように悪戯っぽく微笑んだ。そして。

 ハンドバッグから黒い扇子を取り出し、酒井の体の上にある何かと、酒井の視界の外にある何かをパシリと一叩きずつし、そしてもう一度酒井に振り向き、ウィンクを一つ。

 次の瞬間、美女は、赤い残像と風巻く音を残して酒井の視界から消え失せた。酒井は、瞬きを一つ。少し間を置いて、もう一つ。ハッとして、正気を取り戻した酒井は飛び起きた、飛び起きようとした。

 飛び起きようとして、仰向けにひっくり返っている自分の体の上に、バスローブを着た女性の体が乗っかっていることに気付いた。

「酒井さん!」

 蒲田が駆けてくるのが見える。

「……ああ、蒲田君」

「凄い音がしましたけど、大丈夫ですか、って、うわ?」

 息せき切って駆け込んできた蒲田が、たたらを踏んで立ち止まった。何を見たのか、非常に狼狽しているようだ。

「済まない、ちょっと起こしてく、れ?」

 どうにも起き上がれなくて、蒲田に助け起こしてもらう為に手を伸ばそうとした酒井は、何とか上半身を起こしてやっと回復した視界の中で、下半身をこちらに向けて自分の上に乗っかっている女性が纏うバスローブが、かなりはだけてしまっている事に気付いた。それ自体、なかなかに衝撃的な光景だったが。

 その女性の体には、首から上が無かった。のみならず。

 その女性の体も、もがき始めた。起き上がろうとしたのか、酒井の上に斜め反対向きの仰向けに乗っかっていた体を横座りにするように姿勢を変えようとし、途中で突然、はだけたバスローブと、その自分を見ている酒井と蒲田の視線に気付いたように、あわててバスローブの前をかき合わせる。

「な、え?」

 首のない体が動く、ましてや、恥じらうような仕草をしている。

 酒井と蒲田は、文字通り、思考停止して凍り付いた。その時。

「あの……えっと、もしかして、蒲田さんと酒井さん、ですか?」

 聞き覚えのある声が、明後日の方向から聞こえた。酒井と蒲田は、ギシギシときしみ音が聞こえそうな程ぎこちない動きで、声の聞こえた方に顔を向けた。

 そこには、横目で酒井と蒲田を見る、青葉五月の首から上が、恥ずかしそうな、情けなさそうな、なんとも言えない表情を浮かべて、仰向けに転がっていた。


「本当にすみません……」

 五月は、申し訳なさそうに酒井にそう言って、腰掛けているベッドの上で小さくかしこまった。

 ここは酒井が借りているウィークリーマンション、ソファなどない1Kの物件には座れるところは備え付けの広めの書見台の椅子の他はベッドくらいしか無く、酒井は仕方なくベッドに座るよう五月に勧め、自分は椅子に腰掛けた。

 あれから、何が何だかわからないが、とにかく青葉五月をこのままここに放置する事だけは避けた方が良い、という事で酒井と蒲田の意見が即座に一致し、ホテルを含めた状況確認と後始末は蒲田が担当し、酒井はとりあえず五月を安全かつ事情がわかっているところに連れて行く事にしたが、この状況下で酒井が行けるところといったら自分が借りているウィークリーマンションくらいしか無かった。

 まさかバスローブ一丁、その下は全裸の、しかも首と胴体が離れている裸足の女性をそのまま連れ歩く訳にはいかず、急場のしのぎに酒井のロングのトレンチコート、さっきの転倒で泥だらけのそれを羽織らせ、肩の上に乗せた頭が何とか落ちないように五月の両手と、たまに酒井が片手で支えつつ、苦労して新宿職安通りの文字通り職安前でタクシーを拾い、運転手の好奇の視線を全力でいなしながら、やっとの思いで板橋区のマンションにたどり着いた頃には時間は午前一時を大きく回っていた。

「と、とにかく、着替えた方が良いでしょう。と言っても何も無いですが……あ、これで良ければ」

 洗ってあります、と付け加えて、酒井は、キャスター付きトランクの中からグレーのスウェットの上下を引っ張り出す。本来は自分の部屋着兼寝間着だが、他に渡せるような服は無い。

「良ければ、シャワーも使って構いませんので」

 盛大に転倒した酒井は泥だらけのホコリだらけだったが、巻き込まれた五月も似たような状態、むしろ裸に近かっただけにあちこち擦り傷だらけだった。

「本当に、すみません。お気遣いいただいて……」

 繰返して、五月は、ぎこちなく、自分の頭をスウェットと一緒に抱えてバスルームに向かう。言ってしまってから、酒井は、あの状態でどうやってシャワーを浴びるのだろうと疑問かつ心配になったが、だからといって手伝うという訳にもいかない。自力で何とかしてもらうしか無かろう。

 そこまで考えが進んでから、そもそも、なんで首と体が離れて生きてるんだ?と酒井は今更のように思い出し、それをきっかけに疑問が次から次へと湧いてきた。やはりあの、黒いスーツの男と飛び出してきたのは青葉五月だったのか?いや、赤いドレスは別の女が着ていた、あれは誰だ?銃声は?窓を破ったのは?

 すっかりアルコールが抜け、代わりに疲労がどっと押し寄せてきた頭では、どうにも全く考えがまとまらない。酒井は、とにかく疑問点を殴り書きのメモ書きに書き出し始めた。今の状態では大事な事を見落としてしまっているかも知れないが、明日になったらもっと色々思い出せない可能性がある。思い出してはメモ書きを書き足しながら、酒井はハンガーに掛けてあったトレーニング用のジャージに着替える。こっちは毎日の習慣で運動する都合上、ここを借りた初日である昨日も着て、軽く運動して、実はそのまま寝てしまったから、五月に貸す訳にはいかなかったものだ。

 そうこうしていると、

「お先に、すみません……」

 五月がバスルームから出てきた。どうしていいか、どうしてこうなったか、こちらも混乱しきっているのが態度と表情、首の上ではなく、スウェットを着た胸元に表情があるのが普通じゃないのだが、そこに如実に表れている。

 振り返った酒井は、五月が酒井の手元のメモ書きを見ている事に気付いた。

「あの……」

「聞きたい事は色々あります。でも、明日にしましょう。青葉さんもお疲れなんだと思いますが、正直、俺もヘトヘトだし、何がわからないんだかすらわからないんで、今は多分、俺自身がまともに質問する事も出来ないと思います」

「……」

「なので、俺もこれから風呂浴びてきますから、良ければ休んで下さい。ベッド、使ってください」

 それは申し訳ないです、そう言おうとしただろう五月の機先を制して、酒井は、

「タクシーの中で聞いていたと思いますが、明日、俺は職場に行ってきます。普通に朝早いので、熟睡して寝過ごしたくないからソファで寝ます」

 酒井は、タクシーの中で蒲田からの連絡を受けていた。一応のカタは付いたので、申し訳ないが、非番ではあるが明日、定時に庁舎の事務室に出てきて欲しい、簡潔に、それだけの連絡だった。そして、酒井は五月にそこまで言って、バスルームの扉を開けた。

「だから、遠慮せずにベッド使ってください」

「すみません……ありがとうございます」

 本当に申し訳なさそうに、五月は礼を言う。

 酒井は、その時になって、自分の頭を胸元に抱える女が目の前にいるという異常な状況なのに、怖いとも、気持ち悪いとも感じていない事に気付いた。

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