何の取り柄もない営業系新入社員の俺が、舌先三寸でバケモノ達の相手をするはめになるなんて。 ー第一部ー

二式大型七面鳥

第1章 Side-A:出逢い

 世界有数の繁華街とビジネス街の双方を持つ、日本経済の要衝の一つである、大都会、新宿。

 その新宿の、これまた世界最大の乗降客数を誇る新宿駅から見て北東方向、いわゆる丑寅、鬼門の方向にあるのが、日本最大の不夜城にして魔界都市、新宿歌舞伎町である。

 金曜、午後十一時三十五分。その歌舞伎町の片隅の、雑居ビルの建ち並ぶ裏通りからさらに入り組んだ路地裏の入り口で、リクルートスーツも真新しい北条柾木ほうじょうまさきは、新入社員歓迎会の二次会で盛大にあおったホッピーとハイボールを、怒濤の勢いでリバースしていた。

 割れ鐘を鬼の金棒でぶちのめすがごとき頭痛と、五臓六腑をイバラで締め上げるがごとき不快感は、胃の腑の中身をあらかた戻してしまっても収まる気配が無い。涙と鼻水がだらしなく垂れるが拭う気力も枯れ果て、周囲の喧噪も全く耳に入らない。

 足に力が入らない。濡れたコンクリートに膝をつかないよう、体を支えようと雑居ビルの壁に手を伸ばす。

 その手が、偶然、細長い紙切れをむしり取った、取ってしまったが、当の北条柾木はリクルートスーツを汚さないよう気を使うのに精いっぱいであり、全くそんな事に気付く余裕はなかった。


 突然、けたたましい音を立てながら目の前のゴミバケツが吹き飛んだ。流石に驚き、北条柾木は焦点の今ひとつ定まらない目でゴミバケツのあったあたりを見る。

 そこには、驚いたようにこちらを見返す二組の目があった。


 よく見れば、それは双方とも女性であったが、北条柾木は当初、片方は男であろうと思った。と言うのも、片方の女性――赤いワンピースのドレスを着た、いかにも値の張りそうなホステス風の女性――は路地の地面に組み敷かれ、その上にのしかかっていたのは、女性としてはやや大柄で、しかも仕立ての良さそうな白地に細いストライプのスーツを着た、見るからにイケメンのジゴロ風であったからだ。

 スーツの女性の左足は、仰向けになったドレスの女性の右腕を膝で押さえ込んでおり、左手は親指側の3本の指でドレスの女性の頭を路地のコンクリ地面に押さえつけ、薬指と小指は何か棒状の物を二本握り込んでいる。ドレスの女性の左手は、スーツの女の右手首あたりを掴み、そのスーツの女の右手が握っているものが自分の頭に向かないように抵抗しているようであった。

 暗がりである事もあるが、その手の知識を持たない平均的な日本人である北条柾木にとって、スーツの女の右手にあるものが拳銃であり、左手にあるのが朱塗りと黒塗りの二本の鉄扇であることなど、その一瞬で気付くはずもなかった。

 

 吹き飛んだバケツが耳障りな不協和音と共に再び地面に落ちるまで、どれくらい間があったろうか。そのけたたましい音と共に、停止した時間に現実が帰ってきた。

 真っ先に動いたのは、ドレスの女だった。スーツの女の右手首を掴んでいた左手を離したと思うや、その手が一閃する。鋭利な刃物が強く張った太いロープを断ち切るような、そんな音と共に、スーツの女の右袖と右肩が離れる。いつの間にか、ドレスの女の左手首、長袖と一体になったかのようなブレスレットの先から鋭利な何かが伸びている。鈍く光る、短剣のごときそれがもう一閃し、スーツの女の首を狙う。しかしそれは、すんでの所で空を切る。スーツの女は、のけぞるようにしてその暗器を避けた。

 スーツの女の拘束が甘くなった隙を逃さず、ドレスの女は全身のバネでスーツの女を振り落とし、そのまま跳ね起きる。まだ空中にあったスーツの右袖をひっつかむと、あろうことか北条柾木の方に飛び出して来る。

 その時初めて、北条柾木は二人の女の容姿を認識した。尻餅をつくように後ろに転びかけるスーツの女は、栗色のショートボブの髪にキリリとした目元の、一見したところで三十を少し過ぎたくらいに見える姉御肌のそれであった。右肩から吹き出す血潮、倒れつつも執念深くつかみかかろうとする左手、憤怒とも苦悶ともつかぬ形相と、食いしばった口元から覗く、妙に大きな犬歯が強く印象に残る。

 対して、自分の方に体当たりのごとく飛び込んでくるドレスの女は、ウェーブした亜麻色の長い髪と、薄いドレスが申し訳程度に包み込む豊かな胸と腰の張りが印象的な、見たところ二十代後半くらいの美女であった。いくらか返り血を浴びたその必死の表情、その中にあって返り血より紅いルージュと、何よりまっすぐに北条柾木の目を見つめる視線が心の中の何かを射抜き、揺さぶる。

唵 金剛火 薩婆訶オン バザラナラ ソワカ!」

 ドレスの女は、北条柾木にぶつかるように抱きつくと、そのまま北条柾木には全く意味の分からない言葉を呟き、投げキッスをするような動作で細長い紙片をスーツの女に向けて放つ。スーツの女は、後ろに倒れ込むのをたたらを踏んで堪え、跳躍するつもりか体を低く構え直したところで、その紙片を受ける。

「走って!」

 ドレスの女が、北条柾木の体に抱きついた勢いをそのままに、叫び、北条柾木の手を引いて、走る。つられて北条柾木も走り出す。

 路地に轟音と閃光、そして爆炎が広がるのは、その直後であった。


「……えーっと……」

 歌舞伎町の外れのホテルの一室で、北条柾木はここまでの出来事を反芻しようと試みていた。

 北関東の、急成長する地方都市に最近合併された町村部から就職を契機に上京してきた、外見的にも性格的にも特徴が無いのが特徴みたいな典型的な現代の若者、学費が安いのを理由にがんばって地元の国立大学に入り、一応は誰でも名前を知っている企業の端っこに採用試験で滑り込んだ、そんな北条柾木にとって、今自分が置かれている状況は、はるかに理解の範疇を超えるものだった。

 申し訳程度に置いてあるテーブルの上には、中身ごと切り取られたスーツの右袖が、ドレスの女――青葉五月青葉五月と名乗った――が何事か書き足した、北条柾木がさっきうっかり剥がした細長い紙を貼り付けて置いてある。さっきは気付かなかったが、その右手には拳銃――十四年式拳銃、などという名前は北条柾木は当然知る由も無い――が握られている。

「……この拳銃はあの女のもので、青葉さんは命を狙われていた……?」

「命というか、存在自体ね……何か飲む?」

 備え付けの冷蔵庫を開けて、五月が聞く。

「すみません、じゃあ冷たい水を……」

「……まあそうでしょうね……」

 言って、五月は瓶ビールと栓抜き、ミネラルウォーターのペットボトルを手にベッドサイドに戻って来る。

「一応確認しますけど、これ、本物なんですよね?」

 拳銃を見ながら、北条柾木が聞く。

「だと思うわ、撃たれたもの」

 さらりと物騒な事を五月は言ってのける。およそ平均的な日本人であれば、お巡りさんの拳銃であっても間近に見る機会はまず無い。

 見るのも嫌、そんな目つきで銃を一瞥した五月は、瓶ビールの栓を抜き、コップに注ぐ。北条柾木は、好奇心に負けて十四年式に手を伸ばす……が、スーツ女の右手は銃を握ったままである。思わず五月を振り向く北条柾木に、五月はコップ片手に頷く。力なくにへら笑いしながら視線を戻した北条柾木は、すっかり冷たくなっているスーツ女の指を、一本一本、なるべく広い面積で触らないように用心しながらつまんで開いてゆく。硬直しているのか、それとも何らかの意思が残っているのか、人差し指を除く四本の指は――人差し指だけはまっすぐ伸びて用心金の外にある――思いのほか硬く銃把を握りしめていた。

 やがて、ゴトリ、と銃がスーツ女の掌からテーブルにずり落ちた。その重量感のある音にごくりと唾を飲み込んで、北条柾木は意を決して銃を手に取る。見る人が見れば、それは旧軍の十四年式拳銃、ただし後期型のフレームに前期型のボルトがついているなどコレクター的価値は低く、むしろ撃つ事を目的に程度の良い部品を寄せ集め、擦り合わせたものである事が分かるのだが、オートとリボルバーの区別もつかない一般的日本人にはただの「人殺しの道具」でしかない。唯一、北条正樹が気になったのは、そのグリップのたいそう手の込んでいそうな細工――薄板を積層して、そこに柊と桃をモチーフにした唐草模様が彫り込んである――が、今一つみすぼらしい銃に比べてアンバランスに金がかかっていそうだな、程度の事だった。

「それ、こっちに向けないでね。多分それ、引き金引くと弾出るから」

 言って、くいーっとコップのビールを一息で飲み干し、ほう、と五月はため息をつく。安全装置が「安」ではなく「火」の方に入ったままになっている、なんて事には全く気付かず、言われた言葉だけで思わず固まってしまった北条柾木に微笑みかけながら、

「さっきもそれで二発撃たれたもの。当たんなかったけど」


 爆炎に追われるように路地から飛び出した後、北条柾木は五月に手を引かれるままとにかく走った。が、何しろ急性アル中寸前の体調だったから、すぐに息が切れ、電柱を背にへたり込んでしまう。そんな、真っ青な顔で喘息持ちのように苦しげにあえぐ北条柾木の顔をのぞき込み、五月は、

「……今楽にしてあげる、ちょっと辛抱しててね……唵 医薬 医薬 医薬給顕現掲帝 薩婆訶オン ビセイゼイ ビセイゼイ ビセイジャサンボリギャテイ ソワカ……」

 目を閉じ、真言を唱えた五月は、ゆっくりとその紅い唇を北条柾木の唇に重ねる。

「……どう?少し楽になったでしょう?」

 一呼吸ほど唇を重ね、何かを軽く吸い出した後、五月は一旦顔を離して北条柾木に問う。確かに、疲労はともかく苦痛や不快感はかなり軽くなっている。

「……あ……」

 何から聞いて良いのか、何を話したら良いのか分からず、言葉を探す北条柾木の唇を人差し指で優しく塞ぎ、五月は微笑む。

「どこかで少し休みましょう、貴方のおかげで命拾いしたけど、出来ればもう少し助けになって欲しいし……」

 そして、いやも応もなく何かを聞く間も与えられず、引きずられるままに場末のホテルに転がり込み、北条柾木はこれまでのいきさつを聞いた。

 青葉五月は、本業は占い師であるが、それだけでは食べていけないので歌舞伎町で水商売のバイトを兼業しているのだそうだ。正直な話、稼ぎで言えばどっちが本業か分からなくなってきているが、それでも五月の占いは結構当たるというのでホステス仲間では評判であり、むしろ一時期当たりすぎて問題になりかけた事があり、それで最近は適当に結果をぼかしており、そのせいで本業の客が減っているのかも知れない、という。

 そんな五月に、店の客が「失せ物」を探してくれないかと頼んだのは一年ほど前の事だった。的確すぎるのもよくないとわかっていたが、その「失せ物」がそれほど重要とは思えなかった――娘が人形を探していると言う――から、割と正直に占いの結果を伝えた。その客が、「失せ物」が見つかったと、娘を連れて礼を言いに来たのはそれから一週間ほど後だったか。それ以降、その客と、むしろその娘が足繁く店に現れ、何かにつけ頼み事をするようになった。そのたびに礼もはずむし、有り難がられるので悪い気もせず占いを続けるうち、今夜、あの女が、来た。


「お前の占いは人として危険なレベルだ、だから死ね、ですって。冗談じゃ無いわ」

 椅子に座って足を組み、ビールのグラス片手にプリプリ怒る五月に、対面のベッドに腰掛けた北条柾木は曖昧にうなずく。意識しているのかいないのか、ムーディな部屋の照明の下での五月の容姿とふるまいは北条柾木にモヤモヤしたものを感じずにはいられなかったが、強制的に酔い覚ましさせられた身としては大人しく話を聞く以外に無さそうだった。

「私も、師匠から符術も体術もそれなりに教わっているけど、アイツは文字通りの化け物よ。どうにか目をくらませて店の外に逃げ出して、符で閉じ込めようとしたんだけど、すぐに見抜かれたわ。その後は符が仇になって声も何も外に届きはしないから、もう諦めかけてたんだけど、貴方が符を動かしたから……」

 北条柾木は何が何だかよく理解出来ていなかったが、自分が紙を剥がした事で五月が助かったらしい事は理解出来た。

「……よくわからないけど、よくわかりました。つまり、あの女は殺し屋か何かで、それで……」

 北条柾木は、腰掛けたベッドの上からテーブルの上に置かれた「スーツの女」の腕を見る。

「……えーっと……」

 何がなんだかまだよく整理がつかない頭で、でも、一つだけわかった事がある。

「……東京って、怖いところだ……」

 それを聞いて五月はくすりと笑う。


 歌舞伎町の裏路地で突然吹き出した爆炎は、吹き出した時と同様、一瞬でかき消すように消え失せた。後に残るのは狐につままれたような顔の野次馬と、それでも火に炙られたのが嘘ではないと自己主張する、ビニールが溶け、すえた悪臭を放つ、収集前の生ゴミがひとかたまり。押っ取り刀で駆けつけた警官も、周囲の野次馬に事情を聞くも要領を得ず困り顔。そんな喧噪を、少し離れた別の路地から覗く瞳があった。

 大人の腰ほどの高さで、時折何かの光を反射してキラリと光るその瞳は、明らかに人のものではなかった。面倒くさそうに長い鼻先からため息をつくと、それは人目につかないように路地の裏方向へと向きを変えた。ネオンサインの輝きに――今はネオン管ではなくLEDが主体だが――一瞬映し出されたその顔は犬に似て、しかし額にあたるストップと呼ばれる部位が明確でなく、その体もやはり犬に似るも成犬のセントバーナードよりまだ一回ほども大きかった。

 よく見ると右前足のないそれは、己の体のにおいを嗅ぎ、くぐもってはいるが、明らかに人の言葉と分かる「……こゲくさイ……」というつぶやきを残し、音も立てずに路地の闇に同化していった。


「あれは化け物よ。正真正銘の、化け物」

 瓶の底に残った、すっかりぬるくなったビールをグラスに注ぎつつ、五月が言う。

「私の符が奴を抑えてるから人の腕に見えるけど、あれの正体は人ではないわ」

 言って、またしてもくいっとコップを空ける。どうやら水商売のバイトは伊達ではないようだ。

「正体?」

 ちょっとドギマギしつつ、北条柾木が聞く。

 五月は、「ちょっと身を清めてくるわ」と言ってシャワーを浴び、今は濡れ髪を乾かしつつのバスローブ姿だった。こっち見ないでね、と言って、ベッドに座る北条柾木の死角になる斜め後方で濡れ髪を拭いているが、髪を拭く気配と物音、シャンプーの匂いが気にならないわけがない。

「……ほっといてもいずれ来るでしょうから、どうせ逃げ切れないから先に言っておくわね。ヤツはそのうちにきっと、自分の腕と、あたし達の匂いを追ってここまで来るわ」

「え?」

 手の中で拳銃を持て余していた北条柾木は、その言葉にぎょっとして五月に振り返りそうになり、ギリギリで思いとどまる。

 その五月が、北条柾木の方に向き直る。はにかんだようでもあり、ちょっと悔しげとも取れる表情は、残念ながら真面目に前を向く北条柾木には見えない。

「私の符と術だけじゃヤツを仕留められないのよ。ヤツは強力な魔物だわ、噂には聞いていたけど……でも、今なら勝ち目があるの」

 五月の掌が、後ろから北条柾木の二の腕を掴む。そっと、しかし明らかな熱を帯びて。

「お願い、私を手伝って。その鉄砲で、ヤツを撃って」

「って言われても。鉄砲なんか撃ったこと無いし、そりゃ助けてあげたいけど、でも、そんな化け物相手に」

「動きは私が止めるわ……多分、私は止めるので精一杯だから、貴方がその鉄砲で、その鉄砲の弾丸をヤツに当てて欲しい。多分、かするだけでもいい。その弾なら、ヤツを倒せるんだもの」

「どういう……」

「その鉄砲の弾丸は銀……皮肉よね、ヤツは自分を倒す武器を自分で持って歩いてるの。笑っちゃうわ」

 北条柾木の頭の中の、冷静な部分が気付いた。銀の弾丸。ファンタジーやオカルトでおなじみのアイテム。そして、銀の弾丸と言えば……

「……狼男……じゃなくて狼女……?」

 五月が頷く。

「筋金入りの古株だって聞いてるわ。正直、私じゃ本来、手も足も出ない……実際さっきは本当に間一髪だったし」

 北条柾木の中で、怒濤のように疑問が湧く。

「なんで?なんで狼女が銀の弾丸つか鉄砲つか服着て人襲うってかこんな新宿の真ん中で?」

 混乱し、思わず振り向いて五月に詰め寄る北条柾木の肩を軽く抑え、五月は言葉を続ける。

「ヤツにもヤツの都合とかあるらしいわ、その銀の弾丸で自分たちに刃向かう魔物とか殺してるって。たまたま今夜はその対象が私だったって事かしらね?」

「魔物?」

「ああ、言っておきますけど私はちゃんと人間よ?そりゃ符も使うし術も心得てるし、そういう意味では多少は人間離れしてる自覚はあるけど。私もヤツに会ったのは初めてだし、聞いた話しか知らないけど、ヤツらはヤツらで集団を作って……」

 五月はそこで少し言葉を切った。何か、言いにくそうな、思い出したくなさそうな事があるらしい。北条柾木はそんな五月の目をのぞき込んで先を促す。

「……魔物だけじゃなく、人も、殺すって」

「人を……殺す……」

 今ひとつピンと来ていない北条柾木は、その言葉の意味をよく考えようとした。でも、魔物が人を殺すのは、まあそういうものじゃないのかな?としか思えない。どうも、危機感というか禁忌というか、抜けきらないアルコールせいかここまでの経緯のせいか、頭の中のそういう部分が上手く働いていないらしい。

「お客さんの失せ物の事話したでしょ?最初は本当に失せ物だったんだけど、何回か人も探したの。殆どは遺品しか見つけられなかったけど……一度、ギリギリで間に合わなかったことがあって……」

 間に合わない。それが何を意味するのか、北条柾木の脳は考えるのを拒否しようとした。

「私がもう少し早く見つけてれば、もう少し術に長けてればどうにか出来たかもって。精一杯やったんだから悔やむことじゃないって言ってくれるんだけど、でも……」

 北条柾木から目をそらした五月は、グラスをテーブルに置いた。

「……絶対、許さない」

 何があったのか、北条柾木には知る由もない。だが、そうまでこの人に思わせる程の何かがあったのだ、その事は理解出来る。何故なら。

 美人の部類に入る五月の横顔に、その刹那、般若の相が浮かんだと、北条柾木にはそう見えたから。


 歌舞伎町の町外れ、人気もまばらな場末のホテル街の、その街灯の影を縫うように、その闇の獣は歩いていた。3本足で、ひょこひょこと。

 遠目には犬のようであっても、近づけばその体躯は明らかに野犬のそれを上回る。だが、夜陰に溶け込むかのようなその気配は、例えすれ違ったとしても「野良犬がいる」以上の認識を人の記憶に残さなかった。

 ふと、獣は顔を上げた。古ぼけたラブホテルを見上げる。このあたりに良くある中層ビルだ。その上の方の階をしばらく凝視し、獣は、大きく裂けた口を歪めた。どうやら笑ったらしい。

 せせこましい通りの反対側の似たような中層ビルを見やり、数歩後じさると、獣は突然走り出す。アスファルトに足形が残るのではと思うくらい強く踏切り、疾走の勢いをそのままに飛び上がったその体が、建物全体が揺れるほどの脚力をもってホテルの二階の壁を蹴る。その反動でさらに反対側のビルの三階の壁を蹴り、再度ホテルの四階の壁へ……今度は蹴らず、鎧格子の閉め切られた窓の一つに背中から体当たりした。


 突如、何かが壁をどやしつけたと思ったら、直後にベッドルームの窓が爆発したかのごとくに外から破られた。木材とガラスの破片が猛烈な勢いで飛び散り、アルミのサッシがひしゃげる。破壊によって運動エネルギーの大半を減殺した獣は、空中で体勢を整えると、3本足で器用に、綺麗にベッドルームの絨毯の上に着地した。

 夜半の屋外に比べれば、ムーディにしつらえてあるとはいえベッドルームの照明は充分以上に明るい。急激な明るさの変化による眩しさに目をしばたかせつつ、獣は素早くあたりを見回す。

「……やはり来たのね」

 部屋の奥の五月が呟く。

「……かんがエなおスきは、なイ?」

 獣が、言う。その言葉は、口腔の構造の違いから不明瞭ではあるものの、確かにそう聞こえるものだった。

 見た者が石になりそうな眼光で、五月は獣を睨めつける。

「ふざけないでよ……誰があんた達と!」

 持っていたグラスを投げつける。

 獣は事も無げにそれを避けると、ゆっくりと立ち上がった。二本の足で。

 それは、瞬きするほどの間に、アメリカのカートゥーンでカリカチュアされた「悪い狼さん」を、ハリウッドの技術でよりリアルに、よりグロテスクにデフォルメしたような姿に変貌していた。

 その姿は、紛れもなく、人狼だった。

「ソう……ざんねンね」

 口の構造か、発声機関か、あるいはその両方がより人のそれに近づいたのだろう、先ほどより若干明瞭な発音で言いながら、人狼は二歩ほど踏みだし、そこで歩みを止める。

 何か言いたそうに、獣は五月を見た。

「舐めるんじゃないわよ……このケダモノ!」

 小声で真言を唱え終えた五月が、獣に毒づく。巧妙に配置された、しかし未完成ゆえに何の気配も放っていなかった符の結界。投げつけたグラスにねじりこまれていた最後の一枚が正しい位置に落ちる事によって完成したそれが、歩み寄ろうとした人狼を絡め取っていた。しかし、罠にはまり、蔑まれているにもかかわらず、むしろ人狼は感心するようなそぶりを見せ、獣の顔のまま、明らかに、微笑んだ。

「オしイわ……イイうでナのニ……どうシテも、ダメかシら……」

「……撃って!柾木君!」

 人狼の言葉にかえって激高したのか、五月は北条柾木に声高に命じる。

 北条柾木は、さっきからずっとベッドに腰掛け、細かく震える手で反射的に銃を人狼に向けてはいた。その距離三メートル程、この距離なら、銃は素人の北条柾木でも、間違いなくかする以上の事は出来るだろう。だが、その胸中は混乱の極みにあった。目の前にいるのは明らかに人ではない。だが、人の形に近い物、そもそも生き物に鉄砲を向け、撃ってしまって良いものだろうか?それよりも、そもそもここで撃つことが正しいのか?撃って、当たれば良いけど外したらその次はどうなる?撃っちゃったら俺、逮捕される?銃刀法違反?警察沙汰?混乱している割りには、いやむしろ混乱しているからこそ、頭の隅に、この場にはどうでも良いような余計な考えがぐるぐると渦巻く。

 もっと酔ったままでいたならば、五月が毒気を抜かなければ違ったのかも知れないが、そもそも、北条柾木は、五月の話にそれほどの共感を覚えていなかった。今この期に及んでさえ、魔物とか、人殺しとか、どうにも現実味がなかった。「そりゃひどいね」と五月の話に相づちを打つことは出来ても、素性もよくわからない行きずりの女から聞かされた他人の話に、すぐに感情移入出来るほど、北条柾木はお人好しでもなかった。

「こいつは人殺しの化け物よ!撃って!」

 だから、激昂する五月の言葉が耳から入って指に作用した時、北条柾木自身には、どうして引き金を引いたのか、よくわからなかった。

 ただ。

 鬼の形相の五月の叫びが耳から指に至る間に、北条柾木の目には、何か小さな物が二つ、ものすごい勢いで破られた窓から飛び込んできたのが見えていた。


 銃という物は、引き金を引けば弾が出るように作られている。今、北条柾木と人狼との距離はおよそ三メートル、よほどの事が無ければ素人でも当てることは出来る。そして、十四年式拳銃は反動が小さく、コントロールしやすいことでは定評がある。

 反射的に引き金を引いた北条柾木の、小刻みに震える手に握られた十四年式拳銃から発射された銀の弾丸は、拳銃弾としては遅めの初速で銃口を飛び出し、それでも人狼の胸部の真ん中あたりに命中した。

 いや、したはずだった。

 拳銃の発射音とほぼ同時に、被さるように鋭い金属音が響き、人狼の後上方の天井にゴルフボール大の穴が開いた。北条柾木は、いつの間にか、人狼の胸の前に赤い扇子が浮いているのを見た。何が起こったのか理解が追いつかない北条柾木の耳に、五月の居たあたりから、分厚い肉塊を鋭利な刃物が両断したような、重く、湿った音が届く。

 北条柾木は、震える手に握った銃の先、人狼を狙った弾丸が、突如現れた扇子に弾かれた事実を見たが、弾丸が宙を舞う扇子に弾かれたなどという常識ではあり得ない事実を脳が受け付けなかった。

 ごつり、重くて硬い物が床に落ちた音がした。続いて、もっと重く、適度に柔らかい何かと床が激しく接触する音。視界の隅をよぎった、頭部のない五月の胴体が床に崩れ落ちた光景を、北条柾木の脳は理解することを拒否した。

「あ……」

 思考が停止したままの北条柾木の視野を、一対の扇子が舞う。人狼の胸を守った扇子は鮮血の如く赤く、五月の首を苅った扇子は闇夜の如く黒い。その扇子が起こす、わずかばかりの風に煽られてか、術者を失った符が、壁で、柱で、そしてスーツの袖で、微かな、儚い音と共に崩壊してゆく。澄んだ、寂しい音と共に、呪を失った符と共にグラスが砕けた。

 叫ぶか。走るか。それとも頭を抱えるか。どうして良いかも分からず、ただ震える手で銃を握り、人狼に向け続けていた北条柾木は、その興奮と恐怖にぼやけた視野の中の人狼が、いつの間にか全裸の女に変わっていることに気付いた。

「全く……そっちこそ舐めてんじゃないわよ?」

 フンと一息鼻息をつき、凄みのある笑顔でそう悪態をついた右腕のない女は、無造作に北条柾木に近寄り、今度は慈母のごとき微笑みで、

「これ、返してもらうわよ」

 言って、素人にありがちな、把持力不足による排莢不良、いわゆるストーブパイプジャムを起こした十四年式拳銃を、左手で北条柾木の手からするりと抜き取る。そのままテーブルに向かい、拳銃をテーブルに置くと、テーブルの上でだらりと横たわる右腕を持ち上げて千切れたスーツの袖を抜き取り、その切り口を自分の右の肩口に押しつける。

「……この……畜生!」

 その時になって、北条柾木の耳に、しわがれた五月の声が届いた。

 呆然としたままの北条柾木が、機械的に声のする方を向く。見れば、般若の形相も凄まじい五月の首が、横倒しになったまま、目尻も裂けよと見開いた目から血涙を流し、奥歯も砕けんばかりに歯軋りしながら、さっきまで人狼であった女を睨めつけていた。

 その額には、五月の細い親指程の、二つの角が見えた。

「……あんたの服、もらうわよ。あたしの服燃やしたのあんただからね、悪く思わないでね」

 その視線を無表情に一瞥しただけで受け流し、右腕をぐるぐる回してきちんとくっついたことを確認しつつ、女が言う。

「こんな格好じゃ坊やの目の毒だし……」

 言ってる割にはあまり気にしている風でもなく、女は五月の下着を遠慮なく身につけ始める。どうにもサイズの合わなさそうなブラジャーは省略し、五月より一回り大きく筋肉質の体を苦労して五月のワンピースに押し込み、背中のチャックを上げる――途中までしか上がらない。

「坊やもしゃんとしなさい。きっとすぐにこの部屋、怖い人たちが押しかけてくるわよ」

 女は、北条柾木にそう告げつつ、テーブルの上の十四年式拳銃を持ち上げた。弾倉を抜き、抜いた弾倉を右手の薬指と小指で手挟み、排莢口を下にして遊底を引く。引っかかっていた薬莢が落ちたのを確認して遊底を戻し、空撃ちしてから安全装置をかけ、弾倉を戻す。よほど手慣れているのか、流れるように一連の操作をこなすと、床に転がった五月の首の髪の毛を、わっしと掴むと目の高さまで持ち上げる。

「この……こんな……畜生……」

「ったく……恨み骨髄に達し、まさに鬼に成り果てた、って顔ね。まあ、逆恨みでも誤解でも、あたしは別に今更いいんだけどさぁ。でも……」

 女は、真剣な目で五月の目を見ながら、

「……その恨み、あんた自身のものなの?」


 女は、五月のハンドバッグをばさばさと逆さに振って中身を床に撒くと、自分の拳銃をそこに収め、ハンドバッグの肩紐を左肩にかけた。空いた両手に、今まで宙を舞っていた一対の扇子が呼ばれたように飛び込み、掌に収まる。ぱちーん、と、景気の良い音を立てて二つの扇子を畳む。

「あんたに勝ち目があったとしたら、あたしが飛び込んできた瞬間に全弾たたき込むべきだったと思うわよ。そうすりゃ、一発でもかすりでもすりゃ何とかなったかもね。小細工するならその後よ、自慢じゃないけど踏んでる場数が違うんだから。自惚れるのも命取りだから大概にしときなさいね。まあ、符術で縛るので精一杯だったみたいだし、これでもよくやった方かもね……ったく、思い違いもいい加減にして欲しいわよ、あたしもつい熱くなっちゃうから。折角助けに来たってのにさ」

 自分を睨みつける五月の首に向かってたたみ込むように一気にまくし立ててから、その女は何事か小声で呪文のような物を呟き、右手の紅い扇子に軽く口付けるとその扇子で恨み言を呟き続ける五月の頭を軽く叩く。叩かれた五月の首が黙り込む。

 既に銃の重さだけで底が抜けそうなハンドバッグに、さらに重い鉄扇――どういう細工か、骨だけでなく紙の部分まで薄鉄で仕立ててある――を仕舞うと、よっこらしょとその右肩にガウンを纏ったままの五月の胴体を担ぎ、左手には五月の頭を鷲掴みにして、女は北条柾木に振り向いた。

「……坊や、あたしはこれでおさらばするけど、面倒ごとになりたくなかったら坊やもさっさとここから出なさい。ああ、窓とか気にしなくて良いからね」

 言って、女は北条柾木に、先ほどのような慈母のごとき笑顔で微笑む。

「あと、坊やはもうこっちに関わっちゃったみたいだから忠告しておくわね。いい?、こんな怖い思いをしたくなかったら、二度と『こっち』に近づかない事よ。そうは言っても一度関わったからにはあっちから寄って来るかもだけどね」

 北条柾木の脳は、まだフリーズしていた。一体何の事だ?

「いい?、何が来ても徹底的に無視するのよ。今回は坊やは員数外だけど、次は知らないわよ?……じゃあね」

 言うだけ言って最期にウィンクを付け足し、女は五月だったものを担いだまま窓から飛び出した。何事でもないような様子で、軽々と。


 どれほど呆けていたのか、それとも一瞬だったのか、窓の外から聞こえた落着音にふと自分を取り戻した北条柾木は、のろのろと立ち上がり、壊れた窓から暗い街路を見下ろした。


 女の行方は、知れるはずもなかった。

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