第29話 獅子か、子羊か 前編
…そこは暗く、全ての音が何かで吸い取られているような、冷たい空間であった。
ひとりの男が、無言でそこに立っている。纏っているものは
ふと気が付くと、男の側に数人の子供が、ぼうっとばかりに突然現れ、彼の存在を認めないかのように動き始めた。子供は四人。身体の大きな少年は手に玩具の木剣を握り、その次の大きさの体つきの、同じように模造の得物を持った少年と、何やら剣劇を真似ているようである。そこから数歩離れたところで、やや線の細い少年が、二人を熱のない視線で見つめつつ、重そうな本を開いている。その後ろから、今度は、暗闇の中でもひときわ眩く映る、灼熱の火山の濁流を汲み上げたような
少女は興味深そうに、少年の本を覗き込んだ。沈毅な表情の少年に問う。
「オーおにいさまは、剣のお稽古をしないの?」
オーと呼ばれた少年は黙ったまま、鼻息を一つ漏らすと、本を閉じた。
「後でするさ。本の方が面白いんだ」
少女は首を傾げたが、やおら、地面にどこからか現われた、先の二人の少年と似たような模型を拾い上げた。
「グウェンはお稽古の方が好き!ご本も好きだけど」
無邪気にほほ笑む少女を、やや冷たく、オー少年は見据える。
「いつか本の方が大事だとわかるようになるさ」
ぶっきらぼうに彼は言った。グウェンという少女は眉を潜めて、再び首を傾げたが、この世の憎しみなど知らないような、底抜けのあどけなさで破顔した。
「オーお兄様、きょうだいみんなでお稽古しよ!」
その笑顔にしてやられたか、オー少年は仕方なさそうに嘆息して、他の少年たちの方に向かい、そのまま、子供たちは闇へと、跡形も無く、朝の霧が日昇とともに消え去る素早さで、消えた。
茫然とそれを見守っていた男は、だが、静かな気配を感じて、背後の暗闇を振り返った。
そこにはこの世のものではない何かが立っていた。彼はそれをすぐに悟った。何故なら、その何かには、首から上が欠けていたからである。その姿は、まるで古来より北方人の神話に語られる
一瞬たじろいだ男に、鎧の何かは、一歩前に歩む。両手で何かを抱くようにすると、そこに信じがたいものが現われた。燃え盛る赤毛を流血で更なる深紅に染めた、血まみれの女性の首であった。
「兄上…」
砂漠の風のように掠れた呼びかけが、その唇から発される。
「本は確かに大事でした…妾は本を疎かにして、兄上のお気持ちを読み取る術を失いました…」
男は慄然とする。彼らしくもなく乱れる呼吸。
「妾を…
目を閉じていた首は、かっ、と目を見開いた。血走った眼球を上下左右にせわしなく動かし、男を補足すると、暗夜に揺らぐ松明の光の強さで男を凝視した。
男は深く息を吸う。首を上に反らすと、意外にも傲然とした強さで言い返す。
「お主は犠牲になり怨んでいるやも知れぬが、そのために我らが大願、成就の兆しが見えておる。この世のことは任せて土に帰るがいい」
にわかに、赤毛の首が口を開き、冥界の亡者の叫びを集めたかのような、形容するのも困難な叫び声を上げた。
「大願!大願じゃと!妾はただ夫と子供と過ごせればそれで良かったのに!」
たまらず片手をかざして喋る首の声を遮ろうとする男に、首は尚も語り掛ける。
「兄を殺し、妹まで
男の胸に、針が突き抜けたような痛みが走った。鼓動が早まり、呼吸が苦しくなる。身体を動かすことも能わない。
「カムルが団結するために必要なことだ、あきらめろ」
「カムルの団結など!妾の失われた幸せに比べればいかほどのものよ!」
首は間髪入れずに答えると、自らを抱えていた体に命じでもしたのか、その両手に抱えられながら、もとは自分の居た場所に推戴された。結ばれた二つの「何か」は、美しい女性の姿を為したが、首筋からは止め処なく血が流れ、その双眸の焦点は微妙に狂い、動きは操り人形のように不自然であった。
「兄上の行いでどれほどの人が心を病み、体を損ない、命を落としたのか。考えたことはおありか」
火炎の熱が籠ったような白い瘴気を吐き出し、女性は男を睨みつけた。
「呪いますぞ、兄上。冥府より
女性の姿は、にわかに炎に包まれた。諸手の指を開き、男へ近づいてくる。必死にそれを避けようとする男だが、体は見えない何かに縛り付けられでもしたのか、動かない。炎に包まれた指が迫り、その炎熱が男を焼く―。
「殿下、殿下」
呼びかけと共に白くたおやかな指に額の汗を拭われる。気が付いたとき、男は見慣れた寝台の上に横臥しており、その傍らには、こちらも見慣れた彼の妻、グウラドゥスが腰かけていた。心配そうな慈母の表情で、男を見つめていたようだ。
「グウラドゥスか―」
呟くと、男は起き上がった。体中に発汗を覚え、その不快さに深く吐息する。額に触れた熱の正体は、彼に粛々と従う妻の指であったのだ。今度は安堵の呼気を吐き出すと、男はやや柔和に、妻に語り掛けた。
「とてつもない悪夢を見ていたようだ。起こしてしまったようですまない。それ程までに余はうなされていたか?」
グウラドゥスは男の手を握ると、
「私は気づくのが遅れました…獅子殿が殿下のお様子を察し、私の寝所までお越しになられたのでございます」
懐刀ともいうべき人物の名を聞き、男―オワインは再び、安らいだ表情になった。
「獅子、そうか。また助けられたな。」
部屋の暗がりから、音も無く、旭日の綺羅を
「差し出がましいとは思いながら、奥方を御呼び致しました。僭越至極、お許しいただきますれば」
重く静かな声で獅子が謝罪する。笑ってオワインは首を横に振るった。
「よいのだ。どうやらここしばらくの行いについて、神が夢を通して自身を顧みよ、とでも仰っているようだ」
自嘲気味に、オワインは言い捨てた。
「寝汗が酷い。古のローマ人に倣って、湯を使うか。グウラドゥス、用意を頼みたい」
忠良な妻は頷き、うやうやしく一礼して、夫の寝所を辞した。オワインは寝台から起き上がると、寝間着を脱ぎながら、あらぬ点を見つめてただ一言、ぽつりと漏らした。
「グウェンシアン…」
獅子はその言葉を聞き、珍しく表情を動かした。目を細めて主君を見つめ、何かを察したように頷くと、また、静かに闇に消えた。
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