第27話 ケレディギオン攻防 後編

「…生まれの故というよりは、冷静沈着に輪をかけた識見の深さで、王の腹心として登極せしこの御仁は…王の勅命により、王の代理たる書状を携えてワリア騒擾に乗り入れた。敵中にて自らと自軍の兵とを危険にさらし、暗い森を抜け、名だたる高峰のいただきを越え、彼の城に勇ましく到達し、兵を用いてその地を奪回して、栄光の凱旋を果たしたのである」

 『エティエンヌ伝』によれば、ミロの功績とはこのようなもので、歴史的事実から言えば、ケレディギオンの城としての支配はアングル側に復し、彼の働きは目覚ましいものであったことが印象付けられる。しかし、その一方で、ミロの後に派遣されることになるアングル軍の将兵は、悉く敗北を帰し、成果なくワリア領から帰還してきた、とこの書物は上記の直後に記す。両者の違いには、明確な記録がない。ただ、それが対比可能なくらいにはしっかりと、後者の側にはワリア側の反撃があったことが記されている―。


 ミロの率いた軍勢はそう少なくはなかったであろう。ワリア側が三千に及ぶほどの兵力を率いていることは既に知れていたため、少なくともその数に匹敵するか、あるいは凌駕するほどの兵力を従えていたと思われる。戦の定石として、敵よりも多くの兵力を揃えることが上げられるが、勿論、ミロは奇策を用いらず、大軍を用意してケレディギオンに進発した。もとより兵権の長たる大司馬の出馬とあれば、満を持して、の気運もあったであろう。戦功をあげたい強者たちはこぞって大司馬の行軍に加わった。

 これまでにアングル軍が踏破してきたケレディギオンに至るワリアの街道は、アングルの旗を仰ぐ人馬の波によって次々に洗われていった。行軍の最中、ラファーの戦いに学んだミロは、奇襲についての警戒を怠らぬように全軍に布告したが、それは杞憂に終わった。むしろ意外なほどに、旅程は順調であった。鬱蒼とした林道を進み、ブレイキニオグの山脈を抜けてケレディギオンを望む平野に至っても、遠くワリアの軍勢は城を囲んで火矢を射かけており、ミロの率いる軍隊に歯向かうものはなかった。

 あまりにも呆気ないケレディギオン到達にミロは眉を潜めた。あるいは、奸雄との噂がある彼のグウィネドの将帥、オワインと言ったか、その奇策の中に嵌まり込んだかとの危惧が、彼の胸中に僅かな漣を呼んでいる。伏兵や散兵の襲撃がないこともまた、更に彼を疑心暗鬼に誘った。とまれ、彼にはアリス・ドゥ・ジェルノンを救うという至上命題がある。そちらを優先させるのが第一であった。

「このままカーディガン城を攻囲するワリア軍を衝く。弓矢の射程に入り次第、すぐに弓兵に斉射させ、敵の出方を伺え。逆撃には十分に注意し、歩兵はいつでも応戦できるよう備えておくこと」

 そう下命すると、彼は兵を進めた。

 おそらくは1136年の6月にさしかかろうとする一時期、こうしてケレディギオン城の攻防戦は静かに始まった。ケレディギオン城の守備を担うのはロベール・フィツ・マルタンという武将で、ケメスという近接領の領主でもある。先にカーディガン一帯がワリアに攻め入られた際、自ら進んでクレア家所有のこの城の防衛を買って出た、義侠シヴァルリの人であった。孤軍数百の手勢で数千のワリア人の囲繞を防ぎ続けた彼は、アングル王の旌旗がはためく援軍の姿を認めて歓喜し、城内の伯住居に憔悴して居留する未亡人アリスに援軍の報を告げた。

御夫人ダーム、ご安心召されよ。とうとう国王軍が到着しましたぞ」

おお、と瘦せこけた顔に光を宿し、亡きリシャールの妻は十字を切った。

「神よ、感謝いたします。夫の亡骸に手向けができるやも知れませぬ」

「すぐに馬車と警護の騎士を差配いたしましょう。ロンドンに戻る準備をなさいませ。この地は我ら武辺の者が安んじます」

 フィツ・マルタンは握りこぶしで自らの胸を叩いて見せた。急ぎ城壁の上に戻ると、城外の戦況を見る。そこでは今まさにアングル軍がワリアの凶賊に矢を射かけているところであった。


 ケレディギオンの城を囲むカムルの将兵は、空気を切り裂く弓勢の音に、すかさず手持ちの楯を掲げて防御を試みた。矢が次々に霰のごとく降り、弾かれ、あるいは板目に刺さり、僅かに被害を受けた兵士らの悲鳴が聞こえる。

「作戦の通りにせよ。こちらの弓の間合いでもある」

 短くオワインは命じる。カムル側の腕利きの射手達が、横数列になって斜め上に弓の角度を合わせ、合図一閃、お返しとばかりに矢を放った。カムル側の弓は現在の度量衡で2mにも及ぶ長大なものであった。扱う矢もそこそこの大きさと規模となる。放たれた矢は、鉄の石礫の雨となって、アングル軍に降り注いだ。大小の悲鳴が相次ぎ、その場に蹲る兵が続出した。なまじ目に見えて血飛沫が上がらないため、遠目からは糸の切れた沢山の操り人形が力を失って崩れ落ちるように見える。

「矢戦ではワリアに分がある。彼我の距離はそこまで広くない。騎兵の一撃を以て敵を圧迫せよ」

 想定より多い被害に幾分苦み走った声でミロは命じた。後方に温存していたグロスターの騎士連中が喚声を上げて馬を進める。だが、それより早く、ワリア人は動いていた。

 一斉に蜘蛛の子を散らすように、ワリア兵が逃げ出したのである。フィツ・マルタンは城壁に齧りつきながら事の推移を見守っていたが、ワリア人が逃散していく様子を見て、半ば茫然と、半ば陶然となって天を仰いだ。守り抜いた、との安堵が勝って、ほう、と大きく吐息した。鎖帷子の頭部を後ろに下ろすと、冷や汗に濡れた髪から、湯気が立ち上るかのようであった。

 ミロの方はと言えば、この戦場に到着した時と同じ、嫌悪感にも似た不可思議に包まれ、いまいち釈然としない面持ちで、ワリアの兵が退いていく様を見つめていた。だが、それも数十分、幾許かの戦塵を除いてはほぼ完全に敵軍勢が去ったことを確認すると、自ら騎乗してカーディガンに寄せ、守備の長フィツ・マルタンとの邂逅を果たした。

「アングル国大司馬、ミロ・フィツ・ワルトゥーである。クレア伯御内室を救援するため、王命にてここに馳せ参じた」

「ケメスのロベール・フィツ・マルタンに御座る。御来援、恐悦至極」

 恭しく一礼するフィツ・マルタンに目礼すると、ミロは続けた。

「貴殿の善戦、誠に感謝いたす。王命により、アリス殿を救出せし後は急ぎ王都にお連れせねばならぬ。こちらに残す兵の猶予は王より与えられておらぬが、悪く思わないでいただきたい」

 フィツ・マルタンは頷いた。もとより、囲みさえ一度解かれれば、城外との補給もやり易く、堅固なカーディガンに拠ればまだ持ちこたえることはできる。将兵の疲れも癒すことが出来よう。何よりも、心理的安堵と、要人を守り抜いた達成感が、彼を楽観の化身に変えていた。

「これだけの大軍にワリアどもも恐れをなしたでしょう。暫くは大軍で襲ってくることもありますまい」

「だと、いいがな」

 ミロは彼ほど楽観の域には達していなかった。矢傷を受けた兵士の数は少なくなく、あのまま矢戦を続けられたら、との悪寒がある。更には、敵に大した被害を与えられていないという後味の悪さ。逃した兵は一時の勝利の何倍にも苦い災厄と成りうる。これは勝利ではなく、吟遊詩人が貴人を楽しませるような、ただの幕間劇に過ぎぬのではないか…。

 エティエンヌは、それが唯一の長所であろうが、身内や自らが許した相手に対する出費において吝嗇ではなかった。カーディガン救出軍には相応の費用が割かれており、援助物資、糧秣の多くはカーディガン城に残され、今後の一助となる。数日の駐屯の後、フィツ・マルタンに引き続きのカーディガン防衛を依頼し、彼の勲功を王にとりなすことを約すと、ミロはアリスの馬車を陣中に配置して、帰国の途に就いたのであった。


 異変は、辺境ワリアを半ばまで戻り、あと一息でグロスターに足が届く地域で始まった。帷幕で全軍の状態を確認していたミロに、各所から夜営の見張り兵が人知れず殺害されたとの報告が数日相次いだのである。ただ、それは敵襲と言うにはあまりにも小規模で、俄かにミロの判断を曇らせた。恐らくはワリアが追ってきている。しかし、大軍で襲い掛かってはこない―。

「ここまで来て足を止めるわけにはいかぬ。味方同士の諍いと言うならまだしも、未だ敵地に在る以上、そして要人を護衛している以上、多少の被害は致し方あるまい。事の仔細を記録しておき、沙汰は後日にいたす」

 そう全軍に伝え、夜営の見張りを増やすように命じると、先日の嫌悪感を引きずりながら、ミロは先を急いだ。何かがおかしく、不気味である。歴戦のアングル軍総司令の予想できぬ事態が、漆黒の顎を広げて待ち構えている―。

 そして、自領まであと一日の距離で、それは牙を剥いた。アングル軍はアングル領の手前、ちょうど先にワーウィック伯とワリア人が干戈を交えた地域の海沿いに近い平野に陣を張り、その日も夜営には多くの兵士が参加していたが、連日の行軍の疲れは否めず、また、先に夜営が殺されていた件から、極度の緊張を強いられていた。次に殺されるのは自分ではないか、との恐怖が、彼らの精神を酸のように浸食していた。

 不意に、陣中の明かりが消えた。誰かが松明を消したのである。その明かりが消えたのは、ちょうど食料などを集積した陣のあたりであった。背筋を氷塊が滑り落ちる。その近くの兵士たちはどよめいた。おい、異常はないか―相互の問いかけの次の瞬間、一斉に彼らの者ではない松明が、今まで彼らが折り返してきた道の向こうにある森で、何百も灯り、異国の雄叫びが上がったのである。

「ワリア人だ!」

 おののく兵士を他所に、大量の火矢が、明かりの消えたあたりに降り注いだ。その場所を護る兵士は、松明が消えた後、慌てて明かりの見える方に動いたため、その場所が手薄になっている。火矢は保管された糧食に刺さり、あるいはそのすぐそばに落ちて、あたりを照らした。そこに、少年のように小柄な何者かの陰が動き、犬の一匹は包めるであろう袋から、何かを食物の山とその周りに巻き散らした。兵士が誰何の声を浴びせる間もなくその小柄な影が消えると、やおら風が吹き、その何かの香気を辺り一遍に漂わせた。兵士たちの顔から血の気が引いた。

「油だ!油だぞ!火に気をつけろ」

 兵士の誰かが叫んだ。その直後、一瞬で糧食に火が上った。もとより余裕をもって用意していた兵士たちの食料は、香ばしく焼ける匂いを漂わせながら、火の中に崩れ落ちていく。それを、ワリア人は歓声を上げて喜んだ。騒ぎを聞きつけたミロは急ぎ軍装を整えながら、苦渋の表情を浮かべる。

「奴らの狙いはこれか。これではもうあれだけの数の敵襲を長時間受け止める余力がない。急いでグロスターまで戻らねば被害が拡大する」

 数千の兵を養う膨大な食料が焼かれたということは、これ以上の継戦能力はアングル軍から失われたことを意味し、飢えた兵士は暴徒となって近隣を襲いかねない。ミロは今回は迷うことなく判断した。

「強行して全軍グロスターへ進発する。寝ているものはたたき起こせ!明日の食料はグロスターに到着するまではないものと思え!」

 一方で彼は、グロスターで待機する伯ロベールに向けて早馬を走らせ、至急補助の食料を用意しておくように命じねばならなかった。謹厳なロベールは知らせを受け取り次第奔走してくれるであろうが、そこまでたっぷり一日は歩き通さねばならぬ。先が思いやられるばかりであった。ロベールの方も、家令長の時と言い、損な役回りとなるだろう。何れ報いることができればよいが。

 それにしても、ワリア人を服従させることなど、一朝一夕でできることではない。慄きと共にミロは実感する。地の利は向こうが知り尽くしており、大軍を展開できる場所は少なく、こうも変幻自在に出血を強いられるとあっては、短期決戦など机上の空論でしかない。先達のノルマンディー貴族が為したように、地道に城と街道を築いて繋ぎ、長期間で同化を図らねば、土台辺境領の鎮撫など能わない。

「まして、有能な敵将がそこに加わるとあっては、だ」

 王宮にアリスを送り次第、エティエンヌ陛下に本気で対ワリア戦略の見直しを求めよう。ミロはすっかり戦支度を整えると、混乱の収拾をつけようと、従者の引く馬に跨るのであった。


 敵の補給を燃やし尽くしはしたが、カムル軍はアングル軍を追わなかった。というより、実のところ、追いすがる兵力を用意していなかったのである。夜目の効く者ならあるいは判別がついたかもしれぬが、夜襲をくわえたカムル人の実数は実のところ100名にも満たず、松明は森の木に結び付けたり、荷駄を運ぶ騾馬などの鞍に結び付けて、実際の数よりも多く見せかけたのであった。そして、この破壊工作を成し遂げたカムル側の手勢は、獅子隊が中心となっていた。

 敵兵を数名暗殺したのは、獅子隊の長、獅子の働きである。音もたてずに忍び寄ってほんの数瞬で亡き者にしてしまう暗闘の術に、改めて獅子隊の面々は驚嘆した。

 油を散布し、僅かな明かりを頼りに火付けを行ったのは、雀である。その俊敏さと夜目の強さ、練達の弓捌きもまた、仲間を驚かすに足りた。むしろ以前より熟達している、と鷲は思う。

「これでよい。アングル軍大司馬とやらに一泡吹かせ、痛い思いをさせることができた。これに比べれば、ケレディギオンを落とせずにいることもさして問題はない」

 オワインはそう言って獅子隊を労った。

 オワインにとって、クレア家の未亡人がケレディギオンに残っていたということは奇貨に他ならなかった。人質として身代金を要求することも考えたが、それにはアングル王との折衝に時間がかかり、いたずらに時を浪費することになる。それよりも彼が求めたのは、時間の確保であった。

「カンブリア解放のためには、アングル王やフランク人の譲歩を誘うため、いずれケレディギオンなりどこぞで大きな勝利を収める必要がある。そのための段取りを作らねばならぬ。策を練る間、フランクどもにちょっかいを出されては困るからな。荷物は傷つけずに返し、彼らの帰国の際で襲い掛かる」

 諸将にそう説明する彼に、そこで撃破をしないのか、と主だった王侯たちが問いかけた。オワインは顔色一つ変えずに「ファルサルス」と答えた。訝し気な表情の僚友たちに、彼は少し上を見上げて、かつて熟読した『内乱記コンメンタリー・ド・ベッロ・キウィーリー』の内容を回想しつつ、説明する。

「ローマ内乱の時代、ファルサルスの戦いで、補給を断たれたカエサル軍は死兵となって勝った。ポンペイウスの言う通りにカエサルを消耗させ続ければ勝ち目もあったろうに、功を焦ったローマ元老院が、衰微寸前のカエサル軍に攻撃を仕掛け、結局大敗したのだ。飢え始めた狼を刺激すれば、かえってこちらの喉笛が食い破られることになるかもしれぬ」

 滔々とオワインは諭す。せっかく敵が焦って選択肢を狭めているのに、そこを刺激して激発を誘うのは無駄である。そこそこの損害を与えて返し、向こうが再度攻め込もうと言う気持ちに暫くならない程度で放置すればよいのだ。その間に、可能な限りカンブリアを奪還していけばよい。

「それに、おそらくはフランク側の軍資金が難しくなってくるだろう。既に一度数千の軍隊を動かしたアングルの国庫はそれなりに消費しているから、いかに蕩児のエティエンヌ王とはいえども、周りが掣肘を図るに違いない」

 そして、今後は確実に侵入者を迅速に撃退する。攻めあぐねるアングル軍、少なくともエティエンヌは、いずれ手を焼くこの地の支配を億劫に思い始めるだろう。そうなれば、カンブリア統一も絵空事ではなくなってくる。

 オワインは明かさないが、アングルにはまだある程度強力な存在であり続けて欲しいというのが彼の本心であった。カムルの王侯はもともと団結力に欠ける。だが、纏まって対峙せねばならない敵がいるならば、その限りではない。あと少し、弱ったままでこちらの敵で居続けてくれれば、オワインが老いる前に、カンブリア糾合が更に強くなるであろう。

「もっとも、向こうに俺のような人間が生まれぬとも限らぬが―」

 最大限の驕慢で、彼はそう考えるのであった。数十年後、成長したアンリ一世の孫、すなわちアンリ二世と対立するときに、彼は自らの浅慮を思い出すことになるが、それはこの物語で語るには及ばない―。


 ケレディギオンの攻防はひとまず落着を見せた。依然同地方の支配は半ば孤立する主城を除いてはほぼカムルの手に渡り、エティエンヌ王らは貴婦人の保護の後、数回の(大失敗に終わった)投機的侵入を除いては、ほぼ「アングル王権の介入は放置」という状態になった、と前掲史書は記す。すなわち、在地のフランク人辺境領主らは自弁で「ワリアの凶賊」らに立ち向かわねばならなくなったのである。「分割して統治せよディウィーデー・エト・インペラ」というローマの格言を、オワインは軍事面で実行したのであった。


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