第25話 ケレディギオン攻防 前編
1136年のいわゆる「ワリア大反乱」について、当時のアングル国王エティエンヌの対応はいかほどであったか。評価は真っ当な歴史研究者の手に委ねるべきであろうが、『エティエンヌ伝』を片手に筆を走らせようとすれば、少なくともわかるところがある。それは、やはりと言うべきであろうか、彼の「辺境を軽視する」姿勢である。
「…内外に(リシャール・ドゥ・クレアという)ワリアの支配者の死が伝わったことにより、数多の州より手勢が加わり、巨大な軍となって、三つの軍団を成し、ケレディギオンに侵入した。近隣の城砦や集落から加わるものを含め、3000余にまで膨れ上がったワリア軍は、リシャールの手勢や他の(ノルマン)勢力を撃退した。彼らは歩兵の隊列を組み、同地の4分の3を解放したのである。鬨の声を上げ、勇ましく矢を放ち、追補の手を緩めず、残忍に仕留めた。川に追い込まれた者もいた。家や寺院も焼き払われることがあった。36羅馬里に及ぶ州の全土で彼らは土地の主とばかりにまかり通り、全てを平らげた…」
同書のこの抜粋は、先に紐解いた『カムル諸王の年代記(1135-1136)』よりもやや詳細に事績を記述する。言わば逆撃を受けた被害者の目線であるから、失ったものへの恨み辛みを込めた節回しである。アンリ一世が手ずから親征軍を率いて城下の盟を誓わせたワリア辺境一帯は、リシャール・ドゥ・クレアという実力者の不在もあろうが、僅か数か月の間に一時的な失陥の憂き目に遭ってしまった。
歴史に仮定法は禁物であるが、もしエティエンヌがスコットからワリアに至る辺境の鎮撫策に今少し尽力していたなら、チェスター伯の出奔や、リシャールの突発的な軽挙妄動は起こらず、畢竟、マティルダ派の台頭も遅れ、彼の王権は今少し堅固さを増したやも知れぬ。しかし、そうはならなかった。エティエンヌ当人がそのような労苦を欲さなかった。彼が重い腰を上げてワリア対策にやや能動的な態度を取るのは、自分に遠からぬ不利益を生みかねぬ「種子」を見つけてからであった。
「何と、亡くなられた家令殿の細君がカーディガンに残っていると言うのか?」
神経質そうな、厚みを欠いた声音の早口で、やや面倒くさそうに、アングル王エティエンヌは嘆息した。彼の玉座の周りで、「家令リシャール・ドゥ・クレア」を除いた錚々たるアングル国の実力者がそれを見守る。その中にはブリアン・ドゥ・ウォリングフォードや、 今やワリア近隣では随一の大勢力に「なってしまった」グロスター伯ロベールの姿もあった。
一応、王の御前である。定例の評定にて、国の要職たる家令の横死とその埋葬についての対応を討議する為に、辺境ワリアから前述の二人がロンドンへ帰京し、その他の兵権を持つワリア統治関係者が、王の側近たちと共に参上していた。
「御意。報せによりますれば、ワリア軍は多数を持ちまして怒涛の如く家令閣下の領土を南進し、かの地に逗留されているクレア家内室を城ごと包囲する勢いとの由」
謹厳に上申したのはロベールである。王冠を頭に戴きつつ憮然としたエティエンヌは、面白くなさそうに彼を見下ろした、血縁的には
「ご存知とは推察いたしますが、家令殿の細君アリス様は、現チェスター伯の妹御に在らせられます。チェスター伯の内室はこれにあるロベールの娘。陛下と遠からぬ
「存じておる。余を見くびるべからず」
エティエンヌは五月蠅そうに顔を顰めた。
第四代チェスター伯ラヌルフ・ドゥ・ジェルノン!自らの「鷹揚な」対スコット采配に異を挟み、果ては宮廷から出奔して何処ぞへと身を隠した者の顔を、彼は思い出したのであった。スコット王はエティエンヌの義理の叔母にして先代王妃、すなわちアンリ一世の妻の父であったから、大叔父ともいえる存在である。故に、格上への敬意と、かつ身内の者同士の誼としてあのように振舞った。自分とは違って元から領地を持つチェスター伯であれば、それ位甘受もできように、とエティエンヌは考える。
十字軍で失態を曝しムスリムに処刑された貴族の三男坊という「持たざる者」から、狡知と運でのし上がった、との自負が、エティエンヌにはあった。待たざる時、彼に味方するものは少なく、家族が必死で―兄は戦と宮廷で、弟は聖界で―精進した後に、人は彼を評価するようになった。彼は阿諛追従、内輪受けの達人となり、貴族連中での声望を高めた。一方で、その故に阿諛追従で物事の機微を図り、自分に尻尾を振る有力者を利用かつ厚遇し、敵対する「分限者」を迫害しようとする嫌いを見せた。これより後1140年代の前後から彼は新しい爵位を乱発して自らの支持者に振舞ったが、これは名ばかりで実のない輩よりも才覚ある実力者を重用して国政の効率化を図った先王アンリに逆行するものであった。悪戯に閨閥を作り政治の乱脈化を招いたとの誹りは、そうでもしなければ門閥的
「陛下、某に救援軍派遣のご許可を下さりませ。或いは、アングル軍での出兵であれば猶の事心強く思いまする。何れにせよこのグロスター伯ロベール、必ずやアリスを救出いたしまする故に」
ロベールは恭しく申し出た。が、エティエンヌは薄い笑顔でそれに否と応じた。
「グロスター伯の心中は察するに余りある。されどアングルの軍は徒に戦を起こして国内鎮撫の用に能わずとなるを好まぬ。カーディガンの解放及び平定に禁軍および諸侯の兵権発動は認め難し」
アングル本領安堵のため、王の手勢と他地方の招集兵を送ることはない、とのことである。眉を潜めたロベールの隣で、ブリアンが一歩前に進み出た。
「国王陛下、ワリアの騒擾は連合した南北ワリア勢力の手によるものとのこと、一過性のものには留まりますまい。某の観たところ、北のグウィネドのオワインは端倪すべからぬ輩。今、この時、ワリアに大軍を以て御親征遊ばせ、アリス殿を安んじられる上でワリアに威を披露すること、先王アンリ陛下のご偉業同様、後の百年の安寧につながる大業に値するは必定。是非ご再考遊ばせ、我らに出師を御下知頂きたく」
アンリ一世が為したように、大兵力を以てワリア遠征を国王が行い、反乱を起こせば痛い目に遭うと見せつけろ、とブリアンは言っているのである。しかし、先王との言葉が出たところでエティエンヌの顔色が一瞬で変わった。
「叔父上はもう天に召された!今の王統は余だ。叔父上の偉業は無論見事であったが、叔父上のすべてを真似てうまくいくとも限らぬではないか」
やや顔を赤らめ、多少むせ気味にエティエンヌは激した。重く沈んだ空気の中で、ブリアンは「なるほど、ここが奴の発火点か」と静かにうなずく。血縁の人間の偉業と不功績とに挟まれ、過剰に周りの目と評判を気にする。自分が無能だと思われることに耐えられず、故に玉座と言う煌びやかな達成の証拠を求めて必死になったのだ、エティエンヌと言う男は。
空気に幾らか気後れを感じたのか、咳払いを一つ、エティエンヌは首を振った。彼なりの頭の冷やし方なのであろう。
「…だが、救わない、とまでは言わぬ。ワリアの蛮族にアリス殿とやらが凌辱されるのも、人質交渉の具にされるのも、このエティエンヌは赦さない。故に、グロスター伯」
名指しされ、ロベールが顔を上げる。
「余の友であるアングル国
呼ばれて前に一歩進み出たのは、玉座の側に立つ、堂々たる体躯の中年の騎士であった。名はミロ・フィツ・ワルトゥーという。
「余に確かに臣従礼を捧げた汝に命じる。カーディガンに囚われつつあるアリス殿をお救い参らせよ。ヘレフォードの兵とグロスターの兵をそちの自由とする」
御意、と頷き、ミロはロベールを見た。ロベールは静かに首肯して目を閉じた。ブリアンはその横で苦々しい薄笑いを一つ見せるのであった…。
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