第21話 其処は緑の隘路 後編

 背の高い、葉を幾重にも重ねた木々は、緑と言うよりは黒に近い影を眼前に落としていた。日の光は僅かにその隙間から投げかけられ、踏みしめられた雑草交じりの砂利道を疎らに照らす。リシャールはその景色を目前にし不安そうに鼻息を漏らす馬の首を軽く慰撫するように撫でる。ブリアンは数蹄ばかり馬を前に歩ませ、一行を振り返った。

「クレア卿、ここまでが身共の同行能うきわにございまする。ここより先は獣道に近い。確かにアンリ一世の御世には神の平和を結んだ我らとワリアの民、なれど、年初の凶事以来、何かと不穏にござりますれば、アヴェルガヴェニのつわものを10人は引き連れていくがよろしかろう」

 王室家令は押し黙って頭上を見る。空に日は高い。

 今までのブリアンの言には筋がある。確かにワリアの狡猾な何者かが辺境領主らを挑発し、或いは実力で抵抗を組織して、先王亡き後のワリアにおけるノルマンディー貴族らの征服事業を頓挫させようとしているのかも知れない。指導者が変わったアングル領からノルマンディー公国の経営は嵐の夜の船が如く揺動し、容易に落ち着きを見せぬ。舵を取るべき王エティエンヌは船長の椅子の安楽にばかり気を取られ、波の高さ―外患の程度を知ることを拒否しているかのようにも見える。

 踊らされている、との実感が、この王室の藩屏を自認する男にもないわけではない。自分にとって都合の悪そうな流れであることも薄々は感じ取っている。しかし、だからといってケレディギオン騒擾の噂、その実情を直接見なければ自分の気が済まぬ。何より王都の停滞した空気に肺を毒されて気分も悪い。それに―考え方を変えれば、ここで自分がケレディギオンの治安を確保すれば、ワーウィック伯に功で勝り、エティエンヌの視線を辺境領に引くことができるかもしれない。

 その為にこのブルターニュ人の手と兵を借りるのか。否や、とリシャールは否定する。借りを作って後々に禍根となることは避けたい。ブリアンの方でそのような借りを押し付けてこないとしても、この清廉ではあるが大胆不敵な「成り上がりの」知恵者に隙を見せることは、リシャールの自恃が許さなかった。まして、支持する相手が今上王ではなくその対抗馬と明言しているとなれば―。

「せっかくのご厚意ではあるが、ウォリングフォード卿、与力は無用。先ほど申したように我らは先を急ぐのだ。並足でも日が沈むまでにはスラントニへ到着できようて

 背筋を正して、家令の威厳を取り戻し、リシャールは答えた。ブリアンは予想していたかのように頷いた。

「急がれるのであれば忠良な騎士を数名お付けいたしましょう。有事の際は彼らが敵をひきつけますれば、伯はこちらに戻るもスラントニへお越しになるもご随意のままにござる」

 頑なな反対であった。支持する主は違えども、そして謀略の関与について諫言した立場であれど、上位の貴顕を守らんとする騎士の強い意志がその声調に漲っている。道理としては間違いなくブリアンの言う通りなのだ。しかし、征服王以来の門閥である高貴なクレア家の当主は、自らの存在が軽んじられているような錯覚に陥った。先刻からの鬱憤が刺激して、自分の思う通りに行かないときに起きる癇癪のようなものが、彼を激発させた。

「頭が高いのではないか、貴殿!某はアングル王室家令である。征服王の幼少から代々王に仕え、その血を分けた武家の血筋であるぞ!ナント伯の庶子である以外何の飾りも無き其処許がどのような権利を以てその行く手を指図するか!控えよ!」

 それは痛烈な、叱責の名を借りた罵声であった。まず、身分についてブリアンの出自を差別し、次いで立場によってその発言を抑圧した。そのどちらもこの場には不要な内容である。断るのであればただ丁寧に謝絶すればいよいところを、リシャールは立場を濫用して目下の者を責めるという暴挙に出てしまった。

 中世のことであるから、弱肉強食かつ優勝劣敗の社会であり、上位の者が下位の者を虐げることは日常的であった。しかし、ブリアンのように知勇兼備の武人であれば、上の者はその存在を貴重に扱うこともまた、正道であったろう。絶対的な権力者であったアンリ一世にはそれができた。然し、不安定な権力に右顧左眄する者にはそれが容易ではないのである。

 一瞬眉を顰めたものの、ブリアンは表情を然程変えず、無言で後ろに退いた。リシャールは傲然と鼻息をひとつ吐き、供の者と隘路へと馬を走らせた。その列を見送ると、ブリアンは短く吐息した。自らに浴びせられた罵詈雑言が作り上げた重苦しい空気を吹き飛ばすように。

「家令とは言え何という仰りようでしょうか。我慢なりませぬ」

「誠に。ご領主のご厚意を何と思っていらっしゃるのやら」

 憤然と言葉を継いだのは、ウォリングフォードからブリアンに付き従ってきたマルボーシュ、バルドルフと言う近習の者である。ブリアンに忠誠を誓うこと篤く、酷く面罵されても冷静なままの主君の代わりに、一言漏らさずにはいられない様子であった。

「よいのだ。私が庶子であることに変わりはない。家令殿が高貴な門閥であるのもまた事実」

 まるでそう言われるのは慣れている、とばかりに、宵の帳を薄めた瞳の騎士は小さくなっていくクレア伯の後姿を見つめる。何か言いたげな愛すべき近習らに向き直ると、ブリアンの表情は少し柔和な彩を帯びた。そして、その表情とは裏腹に、あまりにも太く冷徹さを帯びた声で、彼は呟いたのである。

「しかし、その身分がいつまで動かないのかは、天上の神のみぞ知る」


 道を進むにつれ樹木の発する草いきれは一層濃くなった。既にブリアンの一隊と別れてから数時間は経ったであろうか。リシャール一行は、眼前に薄く広がる焚火の煙を見つけた。何者かが道端で粗末な食事をしているようである。

「何者かあらためよ、エドゥアール」

 一応は警戒の素振りをするリシャールである。まさか追剥や野盗の類が日の日中このような一応は街道と呼べるような道の路傍にて食事をすることも無かろうが、用心に越したことはない。見ると、食事をしているものは三人ほど、それも年端のいかない少年達のようであった。皆楽器を携えている。

「フランクの言葉はわかるか。お主らは何者だ」

 エドゥアールが問うと、年長の少年が立ち膝になって両手を前に組んだ。敵対はしないという服従の合図である。

「はい、騎士様セヌール・シュヴァレ。わたしたちは旅の吟遊詩人ミンストレル見習い一団にございます。北のアングルの領主さまでのお勤めを終えて南に下っているところでございます」

「ほう、見習いとはいえ歌を歌えるのか」

「へ、へえ。まだ巧くはございませんが、ロランの歌や幾つかの武勲詩ジエストを奏でます」

 この時代、吟遊詩人は領主や王族の宮廷で栄誉ある騎士の武勲譚や悲劇を吟じ歌うことが多かった。もとは文化の交錯する地中海からイスラム圏経由で携帯できる弦楽器が伝播したことに合わせ、欧州各地に広がっていったと言われている。リシャールも貴族の風雅をそれなりに嗜んでいるので、この手の娯楽を好んだであろう。

「よろしい。なんとも気分を害する旅路だ、それなりの褒美を取らせるからスラントニまで同行せよ。列の先頭を行きながらロランの歌でも奏で歌うがよい」

 リシャールの命に、一同は顔を輝かせて突然の儲け話に飛びついた。年長の少年が歌を歌い、他の二人はそれぞれ小提琴リラ洋琵琶リュートを奏でるようである。一行を賑やかな音楽が先導していった。


 偉大なる王シャルル、丸7年イスパニアに留まる

 海に山に覇を唱え その手を払う都市は無し

 城も砦もみな下り 山城サラゴサをも下された…


 勇壮なシャルル大王マーニュ功績をたたえるロランの歌の導入部分を聴き、一行は満悦して並足を緩めた。張りつめていた急行軍にひと時の安らぎが訪れたかのように思えたのである。そしてそれは、まさしく油断であった。

 不意に歌を鋭い音が妨害した。次の瞬間、後ろを守っていた騎士の一人が短く悲鳴を上げて鞍上から転げ落ちた。矢羽の音であった。次いで、十は越えよう矢の雨が横殴りに一行を襲った。先導していた楽隊の一団は、悲鳴も上げずに散り散りに去っていく。その去り際の良さにリシャールらは嫌な汗が噴き出すのを感じた。

「賊にござる」

 半ば悲鳴のような声を上げ、エドゥアールは剣を抜いて主の前に馬を寄せようとする。間一髪で間に合わなかった。リシャールの左腕と乗馬の首筋に矢が刺さった。均衡を失ってリシャールは鞍から投げ出される。その直後、雄叫びを上げて林から躍り出る凶賊の群れが現れた。数は二十人にも満たぬが、今のリシャールらにとっては数倍の敵勢である。

「家令をお守りせよ」

 苦痛に顔を歪めるリシャールを肩で抱き上げてエドゥアールが叫ぶ。残った騎士たちは絶望感に苛まれつつ剣を抜いたが、賊の足は素早かった。瞬く間に一行への距離を詰め、槍を投げつける。騎士たちの乗馬は良い的であった。ほぼすべての乗馬に槍が致命傷を与え、騎士らは地上に主同様に投げ出されて白兵を強いられる。強度と威容で勝る馬さえなければ、騎士は一介の歩兵に過ぎない。数倍の賊に囲まれ、次々に剣戟を受け、血飛沫を上げて落命していった。エドゥアールは必死に剣を賊らに突き付けたが、数人に羽交い絞めにされ、主から引き剝がされる。片膝で立ち喘鳴しながら自らの剣を構えようとするリシャールの前に、二人の男が立った。

「俺はイォルワート・アプ・オワイン。グウェント王家の末裔」

「俺はモルガン・アプ・オワイン。同じくグウェント王家の末裔」

 男たちはそれぞれそう名乗った。フランクの言葉であったが、ややたどたどしさを感じた。フランク人ではないのが明白であった。グウェント王家と聞いてリシャールは思い出した。先日通過してきた地域は、征服される数十年前、確かグウェントと言う小国が存在していたという。

「卑しいワリアの蛮族め、血迷ってアングル王室家令に牙を剥くか」

 リシャールは威嚇したが、片手は矢傷からしたたる血で朱に染まっており、体勢もしゃがみ込んでいて、威厳の欠片もなかった。彼の言葉を、二人のグウェント人は理解できなかったようである。と、彼らの側に現れた小ぶりな人影―先ほどの吟遊詩人見習いが、耳慣れぬワリアの言葉で彼らにリシャールの言葉を伝えたようであった。怒気の彩を帯びた顔になった二人は、それぞれ剣を構え、何事かを大声でまくし立てた。

「蛮族とは貴様らの方であろう。父祖代々続く我らの土地を汚し奪ったその罪の報いを受けろ」

 訛りの少ない少年の声が、リシャールに無形の鞭となって叩きつけられた。二人の亡国の王族がものした言葉。それはワリア人すべてがフランクの騎士らに抱える思いと言っても良かった。やはり一味だったのか、とリシャールは少年を見て愕然とした。その刹那、鈍い痛みが彼の両胸を貫いた。肺と心臓をそれぞれ別の剣で傷つけられ、リシャールは血の泡を吹いて悶絶し、地面に崩れ落ちた。旦那さま、と悲痛な叫びをあげるエドゥアールに、少年が近づく。

「お前は殺さない。リシャールの死体をクレア領に届けるんだ。そして、アングルとフランクの人間に伝えるがいい。カムルは屈しないと」

 絶命したリシャールを生き残った馬の鞍に腹ばいにして乗せ、猿轡をして腕を布で枷したエドゥアールを騎乗させると、イウォルワートはアヴェルガヴェニの方角に馬首を向け、尻を叩いた。短く嘶いて馬は一人の生者と一人の死者を乗せて走り出した。

「うまくいったな、鷲殿。」

 イウォルワートは弾む息で吟遊詩人の役目を果たした少年に呼びかけた。少年は頷いて、目を輝かせる。

「これにてクレア伯の暗殺は成功にござる。お二方、すぐにグウィネド領にご帰参あそばせ。王子のご親征でケレディギオン攻めが始まりまする」

 おう、と亡国の王子たちは答え、雄叫びを上げた。


「…油断しきった一行は吟遊詩人と歌い手、他には小提琴弾きを先導させるのみであった。ワリア人は彼らを待ち受けていた。カルリアンの兄弟、イウォルワートがその陣頭に立ち、一族の者を引き連れていたのである。木陰に乗じて彼らは一気呵成に襲い掛かり、リシャールと供の者多くを殺した。不用心と無思慮とはなんと傲倨な振舞であろう。恐れは先見の明と転ばぬ先の杖をくれるが、傲慢は焦慮であり、分別のない妄動にはどのような助言も着いていけない」

 『カンブリア紀』で、ジェラールはこのようにリシャールの軽挙妄動を手厳しく解釈している。聖ダヴィド寺院で記録された『カンブリア年代記アンナルス・カンブリエ』には、以下のように記述が残されているという。

「リシャール・フィツ・ジルベール、オワインのモルガンの子弟により殺められけり」

 後世、その地の近くには「復讐の石ガレグ・ディアル」という石柱が設けられ、反ノルマン戦線に尽力した上記の英雄らの業績が、原題に至るまでひっそりと祭られている。



 





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