第20話 其処は緑の隘路 中編

「スランテウを過ぎ、我々は緑の林道コード・グルーノと呼ばれる、木々に囲まれた急峻な道を下った。左手には、雄大な山嶺に囲まれたかの気高きスラントニの寺院が過ぎ去っていく。アベルガヴェニ城はガヴェニ川とウスク川が合流する地点にあるので、そのような名で呼ばれている」

 『カンブリア記』におけるジェラール・ドゥ・バリの記述である。ジェラールはカンブリアの紀行文を纏めるうえで各地の詳細を記していったが、この文はブレイキニオグ山脈の中心部に近いスランテウに立ち寄って山々の神秘を綴った箇所の次に記されている。記録に沿えば、旅程は北から南東に山間部を抜けてアベルガヴェニに至る道筋をたどっており、彼から見て左手と言うのは方角としては北であった、スラントニの修道院は往時より宗教上の要所で、1188年にカンタベリ大司教ボードワンが第三次十字軍に参加する兵を募った場所としても知られていた。

 ジェラールは更に筆を進める。

「アンリ一世が崩御されてすぐのことであった。高貴な生まれの貴族で、ケレディギオンの領主でもあったリシャール・ドゥ・クレアは、アングル領からワリアへの旅路でこの道を通った。この地域の領主ブリアン・ドゥ・ウォリングフォードが一軍を率いてこれに随行した。ブリアンらは反対したが、リシャールとその随員は軍から離れ、武装もせず旅路を進んだ」

 ジェラールは1130年代には未だ生まれておらず、後世になって様々な伝説を聞き取り、或いは同時代の年代記―例えばウースターの修道士ジャンが完成させた『年代記クロニコン』などからの情報を収集して、この文章を著したと思われる。

 後世の立場からは推測するしかないが、1136年の4月、リシャール・ドゥ・クレアがケレディギオンに急行し、その途中でブリアンの一軍と合流するも、彼らとは意思疎通ができずに別離したという事実は揺るぎようがなさそうである。しかも、ブリアン側が注意を促したにも関わらず―。

 一体何が起きていたのであろうか。


 アベルガヴェニに差し掛かったリシャール一行の人員はさほど多くなかった。もとより一刻も早くケレディギオンへ到達することを目的としている。武装を固め過ぎては馬がすぐに潰れてしまい、騎行者自身も疲労を蓄積しやすい。夜露を凌ぐに十分な上衣と外套を纏い、各々が剣を佩くのみで彼らはサフォークのクレア荘園から南東に動いた。アングル領西部でヒベルニアと大陸との交易中継点として一大商港を為すブリストルで休息を取った後、その近隣にあるセヴァーン川を渡河し、自領を構成するグウェント領を通過した。グウェント領では、当地で領地警邏の任に当たる伯父ワルトゥーの送迎を受けた。

 二人は共に騎乗する人として再会した。迎える側は10名ほど、迎えられる側はその半分にも満たぬ。ワルトゥーは数か月前の会合を思い出し、あれほど本領安堵に執心したリシャールが何故今頃になって急にケレディギオンに向かおうと決意したのかを知りたがった。リシャールは憮然として、「ケレディギオンの情勢が変わったという知らせが入った」としか答えぬ。左様であれば、とは首肯したものの、余りにも少数かつ手薄なクレア家当主の一行を見て、ワルトゥーは呻いた。

「ご当主の意とあらば止むを得ぬが、王室家令としてあまりにも身軽な出で立ち。某の麾下より何名か随伴させましょうか」

 征服されて数十年、いまだ完全には恭順せず、まつろわぬカムルの民を相手にしている前線の戦士の意見として、当然と言っていいワルトゥーの物言いである。しかし、尊大に馬上で反り返りながら、リシャールは気を吐いた。

「結構だ、伯父御殿アンクル。人が増えればその分目立ち、ワリアの賊共に気取られてしまうし、身動きがとりにくくなろう。何より、今回は拙速を尊びたいのでな」

 手練れを二、三人伴っている、とリシャールは付け加えた。リシャールの随員は5名で、一人はリシャールを長年世話する侍従長エドゥアール、その他は出立の際に選抜された城付きの騎士で、戦慣れしているという。その者らと当主の、無謀ともとれる気宇に半ば呆れつつ、ワルトゥーは為すがままに任せることにした。

「どうせ言っても聞き入れてはくれぬであろう。こちらでもグウェントの治安を維持する為に余分な人手を割くことは難しいのだから」

 半日の休暇をグウェントのストリゴイル城で過ごすと、早朝、リシャールは進発した。家令自領の北限までリシャールに随行すると、そこでワルトゥーは当主に別れを告げた。

 ワルトゥーは、ブレイキニオグ山脈の中間に通る林道を通過して北西に遡上し、スランテウ経由でケレディギオンに抜けようとするリシャールの計画にも難色を示した。このようにワリアが不穏な情勢に在る中、敢えてそのように危険な道を通り、野盗にでも出くわしたらどうするのか。南回りに進路を取り、ゴワーのワーウィック伯領を経由していく方がまだ安全であろう、と。リシャールは煩げにそれを断ったので、それ以上ワルトゥーは諫言を続けなかった。

「これより北はアヴェルガヴェニ領にござる。拙者はここまでの随行とさせていただくが、アヴェルガヴェニには宿老ブリアンセヌールがお詰めになられているとのこと。何ぞ危険があれば助力を得ることもできましょうぞ」

 それはせめてもの心遣いの言葉であったが、リシャールは未だ冷えの残る明け方の空気に白い呼気を叩きつけて返答した。4月も中盤に差し掛かろうと言うのに、まだブリテン諸島に本格的な春は訪れていないかのように見える。

「ブリアン・ドゥ・ウォリングフォードか。妾腹のブルターニュ人が、先王陛下の御心に取り入ってとんとん拍子に城持ちとはな」

 リシャールはブリアンに対して隔意があった。アングル王家、すなわちノルマンディー公家に忠誠厚く、アンリ一世の遺志を継いでマティルダ姫を擁護しようとする清廉さは認めるが、現状維持よりも理想を追求するその姿勢が時折王室家令の心を騒がせるのである。今、玉座はエティエンヌの掌中に在る。ゲルマンの言葉しか話せぬ姫がアングルに重来したとて、どれほどの支持を得られるものか。よくてグロスター伯ロベールと連合するくらいであろう。それも、このワリア地域とロンドン周辺のちっぽけな勢力に過ぎぬ。ワリアとクレア本領を纏め上げるリシャールに及ぶはずもない。転向して体制に乗じればよいものを、あの折り目正しいブルターニュ人は頑として距離を取っているのであった。

「俺はあの男を好かぬ。声をかけられれば対応するが、そこまでのこと。一刻も早くケレディギオンに到達し、治安を確たるものにして悠々とロンドンに帰還しよう」

 冷笑をたたえ、リシャールは手綱をひとひねり、そのままアヴェルガヴェニの方角へ進発した。ワルトゥーは嘆息すると、馬首を巡らせて帰城の途に就いたのであった…。

 アヴェルガヴェニに入るとすぐ、リシャールの行く手に数十名からなる騎士の一団が現れた。その群の中に、赤地に金色の競い獅子が描かれた旗幟が翻りはためく。ノルマンディー公の旗である。その旗のそばに、鎖帷子を纏って鞍上に跨る、ひと際勇壮な身なりの騎士の姿を認めることができた。彼我が近づくと、その騎士が颯爽と前に馬蹄を進めてきた。早速来たか、とリシャールは眉をしかめて随行員を顧みた。皆首を振る。ここでこの一団に何も言わず早駆けしてアヴェルガヴェニ領を通り抜ければ、何かと問題になるだろう。

「家令殿、よくぞ我がアヴェルガヴェニ領内へお越しになられた。王の騎士ブリアン、領主の務めとして歓待致す」

 太く低い、しかしよく通る声で、騎士―ブリアン・ウォリングフォードはリシャールに名乗った。リシャールは平静を装って頷く。

「王室家令にしてクレア家当主リシャールにござる。出迎え有難い、と言いたいところではあるが、別に迎えを請うてはいなかったはず」

「近時王都といい辺境と言い何かと小火ぼやの報せを聞くこと多く、某も方々に使いを出して色々と調べておりましてな。それに、貴殿程の高位の方の動向は音高く爆ぜる薪のごとく我が耳に入りまする」

 牽制と言うべきブリアンの応答に、リシャールは口の端だけで笑みを浮かべて無言の答えを返した。家令の動きは筒抜けであるぞ、とブリアンは仄めかしたのである。

「お心遣いとその耳聡さはまさに領主の鑑、称揚に足る。さればご存知であろうが、我々は一刻も早く属領に赴きその地を安んじねばならぬ故、歓待は無用。このまま領地を素通りさせて頂くが、如何」

 やや硬質なリシャールの答えに、ブリアンは一度だけ頷いた。そう答えるのを想定していたような静かさであった。

「では家令殿、我が領土の終わるところまではご同行させていただきたい。積もる話もござります。無論暖かな城内での歓待の席も設けておりましたが、それをお断りになると言われる。然らば、某の我儘も聞いていただきとうございます。あぁ、我儘と言えば少々言葉が悪い、言い換えれば領主の務めでございましょう」

 交渉上手は知性と識見に裏付けられる。お抱え騎士の中でも抜群の学識を持つブリアンの弁舌の滑らかさは、阿諛追従に特化したがごときエティエンヌには無い重厚さを以てリシャールに現前した。身内でもないのに相手の好意を無碍にして更にその次の礼儀すら聞き入れぬのか、と言うのだ。普段は物静かなこの男がこのように弁舌が立つのか、とリシャールは怖気を感じる程であった。よかろう、と短く答え、家令は宿老の一団の領内での随伴を許可したのである。

 リシャールの一団を囲むように数列の騎馬隊がアベルガヴェニの平坦な領土を移動する。さながら戦に向かう軍の如き威容であった。自領内では何事か起きても必ずや家令の身に傷をつけさせぬ、という決然とした意志が表れている。

 馬首を並べて同道しながら、ふと、ブリアンが口を開いた。

「先日某の城に密告がありましてな」

 リシャールは無言でブリアンを見た。ブリアンは夕刻の空のごとき暗さの瞳でリシャールを見返す。

「家令殿は錯綜した情報に踊らされている、とのことでございました」

 ぎょっとして、リシャールは固まった。子息ジルベールとの出立前のやり取りを思い出したのである。

「それ以上のことはござらぬ。送られた文を経由してのこと。それも、矢で射られた矢文にござった。家令殿がまかり越すとの報せを受けた後のことで、どうにも出所が怪しい。機を見るに敏も過ぎるというもの。おそらくは何らかの謀が進んでいるのではないか、と某は考えておりまする。何かお心当たりは」

 嫌な汗が噴き出るのを感じ、リシャールは固唾を飲みこんだ。ブリアンは静かな男だが、ジルベールよりも明敏であった。与えられた情報に踊らされず、その情報の真偽のほどを直接リシャールに訪ねたのである。

「踊らされるなど、ばかばかしい」

 リシャールの答えは簡潔で、潤いに欠けていた。動揺しているのは明らかであった。確かに偽の情報を信じて自分が動いた可能性を、彼は漸く考慮するに至ったのだが、今更自らの非を認めるような柔軟さは無く、それよりもそのことを打ち消す方に心理が働いてしまったのである。

 ブリアンは考えていた。一国の家令たる人物がほぼ単独で領地に急行するなどと言う軽挙は、道理が通らぬものである。道理が通らぬというところ、エティエンヌの行い同様、どこかに「無理」が通っていることがよくある。その無理は、おおむね個人の感情や我欲に基づいて生まれることが多い。エティエンヌがそうであったし、歴史を顧みれば、相続権を捏造するような形でアングル領を奪い取った征服王の行いですらそれに類するであろう、と彼は分析している。リシャールの行動にもその筋が見て取れたのであった。リシャールに無理を使嗾する何者かがいる。

 狼狽えるリシャールを横目に、ブリアンは二の句を継いでいく。

「まあ、踊らされていないというのであれば結構。某は事の真偽を確認したかったまでにござる。それはそうとして、このようなことを行う者がいるということ、これは

見過ごすことはできませぬ」

 一息をつき、ブリアンは再びリシャールを見た。

「クレア伯、これは何者か伯を害し、アングル領の均衡を失わせ、大乱を呼び込もうとしているのではございませぬか」

 単刀直入の見本のような手際で、ブリアンはリシャールの懐に言葉で切り込んだ。返す言葉もなく、リシャールは押し黙ってしまう。

「僭越ながら申し上げますれば、このような流言飛語が飛び交う状態を招聘せるは、エティエンヌ王の行いに端を発すると某は思うのです」

 まず、ゴワー半島の乱。これはワーウィック伯の侮りも原因ではあるが、ワリア地方の平定に一定の存在感を残していたアンリ一世の死去が影響している可能性は高い。その後継者と「なってしまった」エティエンヌがどのように動くか様子を見ているというわけである。それに加え、ワリア辺境の統治を在地で行っていた貴族らが―その大なる者はリシャール自身であるが―新王との誼を結ぶためロンドン入りする。城代は領地の守護をもっぱらとするのであるから、当然領主との間で意思決定に空隙が生じる。まずは火種を巻く。領主層が動揺する。これでエティエンヌが動きワリア征討のいくさを出すとなればそこで方針が変わるが、エティエンヌは玉座を固めるのに忙しくワリアに援軍を送らないばかりか、攻め込んできたスコットの王に譲歩して見せた。当然、その動きを奇貨として考える人々が現れよう。現にクレア伯が無理を押して領地に急行する事態になっている。さて、アングル領の対外政策に混乱を引き起こし、辺境領主の筆頭格であるクレア伯を害して得をしようとしている。それは誰か?

「ワリアの王侯でかなりの才知ある者が、アングル王家の事情に乗じ、裏で糸を引いているのではありませぬか。伯が害されて得をするのは、その線が一番可能性が高い。特に、ケレディギオンの盟主が不在になってその利を得る者が―」

 ケレディギオンはワリア西部の穀倉地帯であって、その地を狙う有力者がいる。一人はワリア南西部を本拠とするデハイバース王。しかし、デハイバース王は現在行方が知れぬ。その身柄を引き受けていると噂されるのは、北のグウィネド王である。彼の地には俊秀の王子あり、名をオワインと言うらしい…。

「…馬鹿馬鹿しい」

 リシャールは半分呻きながら吐き捨てた。ブリアンの論旨は淀みなく、あり得る現状分析として筋は通っている。通り過ぎている、とリシャールは思う。そしてそれはブリアンの才華を認める正の方向ではなく、小賢しい正論と知恵を揮う者、という負の方向へとリシャールの心持を誘った。その心裡を、ブリアンも理解した。

「馬鹿馬鹿しい、それも結構。ですがクレア伯、これは全てエティエンヌが玉座に就いたことに遠因がありましょう。外孫とはいえ血統上はマティルダ殿のご子息が正しい王位継承者に在らせられる。我らは正しき王を戴くべきではござらぬか」

 とどめの一撃、と言うべきであった。ブリアンは透徹した知性でほぼ完全にオワインの謀略を見抜き、更にエティエンヌ派の領袖たらんとするクレア家をマティルダ側に引き抜こうと画策しているのである。空恐ろしさにリシャールは幾分慄然とした。

「そ、そのような暴言、貴殿は血迷られたか」

「何ぞ迷いがありましょうや。そもそも血迷っているのはエティエンヌにござろう。ブーローニュ伯を継いだことですら偶然の賜物に近い男。彼奴が栄達できたのは、先王の御恩あってのもの。その恩義を仇で返したのですぞ」

 一つの乱れもなく、ブリアンは返す。リシャール一行は全員蒼白となった。このブルターニュ由来の硬骨漢は、この場でマティルダ支持を明言し、武装せる一団でクレア家にそれを了承させ、あわよくばエティエンヌ支持を翻意させようとしているのである。もし応じなければ剣の錆にすることも―この高潔な騎士の行いとしてそれはあり得ないことではあるが―辞さぬという気迫と巧緻が感じられた。

「俄かには同意いたしかねる。貴殿の言葉は儂の心に留めておくが、余り大言壮語を吐くものではなかろう」

 平静さを欠いた曖昧な返答に、ブリアンはこの日初めて冷笑した。気が付けば、一行はアヴェルガヴェニの北東の出口に差し掛かっていた。そこは木々が鬱蒼と道の周りを囲う隘路であった。





 




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