第22話 辺境領、擾乱 前編

 僅かばかりの柔らかな温みを大地に注いだ太陽が沈みかけ、昼も闌になろうかというところ、マルボーシュとバルドルフは、その日中に王室家令を送り出した州の境目で、揃って物見櫓に昇り、歩哨の任務を果たしていた。彼らの主ことウォリングフォード卿ブリアンが、「もしもの時のため、境界を監視するように」と直々に下知を下したのである。

 高貴な血の身分をかさに着て自らの主君を罵倒した家令に対し、彼ら二人は全く好意的ではなかったが、敬愛するブリアンの命とあればと、粛々として槍を手に、櫓に登り、青々と繁茂する細道の方角から、目を離さないでいる。

「なあ、マルボーシュよ」

 先刻給仕係から受け取った干し肉にかじりつきながら、バルドルフがくだけた様子で話しかけた。マルボーシュは視線をバルドルフに投げかける。

「何だ」

「お主には違いが分かるか?その、嫡出と非嫡出というやつだがな」

「主の秘蹟で結ばれた男女を夫婦とし、そこから生まれるのが嫡出であろう。教会の教えに従って生まれた子らが主に認められた正しい血筋の子となる。そのように教わったが」

 マルボーシュは腕組みをして森の方に目を向け直す。わかりきったことを、とでも言いそうな表情である。バルドルフは頷きながら、空になった手の指を名残惜しそうにしゃぶる。

「それよ。主の秘蹟を受けない男女が結ばれることはおかしいのであろうか。時には、そのほうが良い後継ぎが生まれることがある」

 例えば、言わずと知れた征服王ことギヨム。或いは、先王陛下のご落胤、グロスター伯ロベール。更に言えば彼らの主君ブリアン。いずれも正当な契りの女性から生まれていないが、功績は高く、実力も備わっている。正嫡の例を見るとどうか。例えば、ギヨムの先代のアングル王エドゥアールは、祈りと信仰とに生涯を捧げたが、国王としては子供を残さなかったために後継者争いを引き起こし、その願いとは裏腹に国内外へ多数の流血を呼んだのである…。

「正嫡にこだわると何かとおかしくなる。もう少し寛容になれぬものかな、神の掟というものは」

「気持ちはわからんでもないがな、それだと跡目の問題が増えるだろうよ」

 先王アンリのごとき富裕な王者のような人間であれば、多数の庶子に対してそれぞれ報いることもできよう。しかし、大抵の人間の財貨や権限は限られている。多くの庶子を設けたとして、何もその子に残さないのであれば争いは増えるだろう。また、分け方にも問題が出てくる。

「その昔、フランク王国の太祖シャルル大王の後継ぎルイ王はその広大な領土を正嫡の息子たちに均等に分割相続させたが、その為に兄弟は争ってしまったからな。正嫡でさえそのように争うのだ。庶子にまで色々と認めては、まずいこともあろう」

 その歴史的事件を、後世の人間はヴェルダン条約からメルセン条約への間に起きた数十年の内乱として学ぶ。事件より数百年後に生を受けたマルボーシュは、直接その事件を見たのではなく、兵務に就く間に聞いた伝説として覚えたのであった。蓋世の英雄であれ、家族問題がその生前の業績を大きく損なうこと、洋の東西を問わぬ。シャルル大王の家系ですらその有様である、いわんや常人をや、ということだ。

「勿論、某だってブリアン様には栄達をしてほしいがな―」

 些か真面目ぶってマルボーシュは付言した。人柄は必ずしも生まれに影響しない、とは彼も考える。むしろ、恵まれない立場に生まれた人間の方が、他人の苦境に共感し、度量の広さを培うのかもしれない。ブリアンはその典型であろう。生まれに恵まれなかったがゆえに、学びと忠勤に励み、複数の領土を抱える公家直参の騎士として成功したのである。

 口数の多い同僚が賛同の意を表してくれると思って、やや謹厳なマルボーシュは黙っていたが、何らの返答もないので、訝しげに目線を送った。と、バルドルフは目を丸くして林のあらぬ方を凝視している。マルボーシュもそちらを見た。林道の彼方から土煙と馬蹄の音が近寄ってくる。槍を握る手に汗が滲んだ。馬の背には人影が一つ―いや、二つ。一人は必死の形相で何かをわめいているようだが容易に聴き取れぬ。その後ろに、腹ばいになった人間が載っているのが見えた。揺られるその体に生気は感じられない。バルドルフが絞り出すように叫んだ。

「あれは、家令殿の、侍従様だ!」

 マルボーシュは目を瞬かせる。

「バルドルフ、ブリアン殿の下へ急げ!俺が馬を止めるぞ」

「心得た」

 バルドルフは歩哨櫓に備え付けられた鐘を大きく鳴らすと、兎の如き俊敏さで櫓を駆け下りた。 

 マルボーシュも櫓から半ば飛び降りるように地面に立つと、槍を立てかけて走り寄る馬の前に立ちはだかった。二名を乗せて並足で駆けてきた馬は、疲労の為に口に泡を吹きながら嘶き、その場に足を止める。どうどう、と声をかけながら手綱を引くと、鞍上の人物、エドゥアールが腕をばたつかせた。見ると、腕を布で縛られているようである。小刀でその枷を切ると、自由になった手で自らの口に噛ませられた布をはぎ取って、エドゥアールは絶え絶えに喚いた。

「賊でござる…王室家令殿、討ち死に…」

 マルボーシュは鞍の後方に俯せに乗っている人物を見た。間違いない。それは今日の昼前彼の主君の好意を遮った居丈高なクレア伯その人であった。その双眸は半ば開いたままで、顔色には血の気が感じられぬ。鞍の脇には、彼のものと思しき血がべっとりと付着していた。

「侍従殿、ひとまずお休みあそばせ。さ、某の肩をお使いください」

 エドゥアールも無傷ではなかった。ところどころに大小の擦過傷を負い、何より長時間同じ体勢を取っていたために疲労の色が濃い。頷いてエドゥアールは馬から降りた。鐘の音を聞いて駆け寄ってきた兵士らに馬と手綱を託すと、マルボーシュは侍従の体をしかと抱きかかえた。その傍らに、馬蹄の音が近づいてくる。見ると、万が一の時に備えて州境の近くに屯していた彼の主君が、護衛の騎士と共に駆け寄ってくるところであった。改めて、マルボーシュはブリアンに敬意を厚くせざるを得なかった。


 ブリアンの指示は迅速かつ的確を極めた。まず、彼は隣領グロスター伯領へと使いを出し、伯の遺体を辺鄙なアヴェルガヴェニからそちらへ移すことを決めた。グロスター伯ロベールは朋友の頼みを快く引き受けてくれた。アヴェルガヴェニでは伯の埋葬をそれなりの格式で行うことは叶わない。グロスターにはベネディクト会の大修道院があり、そこで然るべき高位の僧が彼の魂を天上へ送ることになるだろう。その儀式の後、クレア領に送り返すなどの算段を取ればよい。

 次いで、エドゥアールを休ませ、クレア家本領へと護衛をつけて送り返す。彼はこの事件の生き証人である。無事アングル領の本拠へたどり着き、何としても国王に後の評定で証言をしてもらわねばならない。恐縮する彼に、ブリアンは20名の完全に武装した騎士らを気前よく提供した。マルボーシュとバルドルフらがその中に加えられたが、これは彼らに自領ウォリングフォードの様子を合わせて調べさせるためである。

「ウォリングフォードとロンドンの様子を見てきて欲しい。いずれ私も評定の為に帰参することになるが、騒乱の火種のようなものが見受けられれば必ず記憶して伝えてくれぬか」

 二人は恐悦し任務の途に勇んで就いた。彼らであれば大過なく見聞の任を勤め上げるだろうと安心しながら、ブリアンは思いを馳せる。

「さて、アングル王陛下にはどのようにお伝えするべきか」

 少なからぬ揶揄の意を込めた言葉を発さずにはいられない。そもそも王エティエンヌがアンリ一世の後継を自認するのであれば、その対外政策にも一貫性を持たせるため、クレア伯の軽挙は牽制し、或いはそれに先んじて適した兵力なりとクレア伯を同道させ、以て鎮定の王業に当たるべきであった。それはスコット王国との境界においても同じである。国内の不和は外敵を征討することで落ち着くことが多いことを彼は過去の歴史から学んでいた。例えば征服王はアングル領の平定と同時進行でワリア辺境の制圧とアングル貴族の掃討作戦として北伐行を成し遂げた。その子アンリ一世は王嗣であった兄弟をタンシブレに破り、スコット軍にも威圧の手を抜かなかった。そのどちらも、エティエンヌにはできていない。

 やはりエティエンヌにできるのは王位の簒奪までだ、とブリアンは実感する。他人を出し抜いては出来るが、目線がそこまででしかない。その行いで割れているアングルとフランク貴族の亀裂は、一層深刻さを増すであろうこと疑いない。ならばどうするのか。ブリアンには野望がある。正当な王を招き、その王の下でアングル領とノルマンディー公国とを統べるという、先王の忠良な騎士としての望みが。

「まずはロベールと会わねばならないな。クレア伯の葬儀にかこつけて…」

 深い碧の瞳に松明の火を宿しながら、その夜、彼は国王に書をしたためたのであった。曰く―。

「クレア伯、凶賊の手により斃れけり。ワリア辺境領擾乱し、王の助けを求めるや切なれば、至急ご裁可いただきたし」

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