第17話 復活祭 後編
ケレディギオン地方の蜂起を知らされたクレア家当主リシャールは、常日頃の大貴族としての風格を表面上は維持しつつ、柄にも無い焦慮に囚われていた。ロンドンに滞在して宮廷家人らの職務を差配するのもそこそこに、主だった幕閣らを集めて、領地防衛の議を設け、意見を募った。
「ケレディギオンのワリア人が蜂起し、カーディガン城へ襲い掛かっていると言う知らせが届いた。いずれは起きうるとは思っていたが、余りにも奴らの行動が早過ぎる。ワリアの兵力は想像以上に多数で連携がとれているのではなかろうか」
リシャールの声には酸鼻の色合いが濃い。ついこの前の当主会議で、まずは王権の安定化に努め、宮廷の内外に王エティエンヌの覇権を確立して自らの家臣として枢要的な地位を固めた後、満を持してワリア辺境に兵馬を進めようと自分の主張を通した手前、予想を裏切るワリア人の動きに足元を掬われた観が否めない。あるいは、自分の思考が油断と打算の産物であったことを思い知ったとも言えるだろう。ワルトゥーがこの場にいれば、それ見たことか、と冷笑を浴びせてきたに違いない。
ワルトゥーは今、アングル領の本土にはいない。自らの領土であるワリア辺境領グウェント地方に先駆けて戻り、対ワリア人の警戒を強めているという。ジルベールもまた彼に従って辺境に在り、防備を固める為に奔走中であることが知らされた。当主の意には反しているが、彼らの武人としての直観はどうやら正しかったようにリシャールには思われた。
「父上、恐れ入りますがここは性急に動いてはなりませぬ。我ら王室の藩屏たるクレア家当主格の務めは王の補佐、何よりも新王の政を盤石にすることでありましょう。そもそも、この報せそのものに疑いがありまする。カーディガン城代の封蝋も何もない文が届けられただけではありませぬか」
次期当主ジルベールの言葉はあくまでも冷静である。
事実、このケレディギオン蜂起の報は、正規の城代が使わせた早馬で届けられたものではなく、ラテン語で記された羊皮紙が矢文でクレア城に届けられたという剣呑なものであった。カーディガン城代エティエンヌ・ドゥ・マレの署名や蜜蝋の封印なども施されておらず、出所が全く分からない代物なのである。
それにも拘らず、リシャールは浮足立っていた。いつもの父らしくない狼狽えぶりに子息の側も若干当惑して諭す言葉が荒くなったのだが、これにはエティエンヌ王とリシャールとの関係が影響を与えていた。
前述のとおり、アングル王エティエンヌは既に家臣との間に隙を生んでいる。君側の離反者として大なる者はスコット王との約定によるチェスター伯であるが、細かい反感を数えれば枚挙に暇がない。王の実弟アンリはウェストミンスター司教と張り合って国内の聖界に亀裂を生み、どちらが上に立つか優劣を競い合っている。先王アンリの登用した名臣らに代わり、エティエンヌ派閥が台頭しようと摩擦を起こし、彼らの人心は先王の非嫡出子グロスター伯に流れ始めていた。いわば玉座は底に亀裂が生まれた船のような状態であり、その中で何とか水を掻き出そうと奮闘するのがリシャールの近況でもあった。
付け加えるのであれば、そのように動く家令長リシャールに対するエティエンヌ王自身の反応がまた宜しくない。リシャールの望む地位―例えば兵馬の権を握る
「ジルベールよ、確かにお主の言う通りだ。だが、それでは何者がこの文を投じたと言うのか。俺を妄動させて喜ぶ人間の仕業か」
言葉に漂う王宮の貴人達への怨嗟が、息子のジルベール以外にも容易に伝わるほどである。ジルベールは頭を横に振りながら嘆息した。
「それは私にもわかりかねます。これから密偵などを雇って事実を明らかにしていけば何れはわかりましょう。それよりも今は軽挙に及ぶことなく、王佐の務めを果たされるべきです」
ジルベールも説得に力を入れるが、一歩引いてみれば父と子の立場が逆転しようとしているようでもあり、滑稽ではある。二兎を得ようと―いや、失うまいとする欲張り
しかし、事実は巻き戻ることはない。とにかく現状は打破しなければならないのである。項垂れる当主を何とか奮起させようと次期当主は更に言葉を継ごうとしたが、それは息せき切って会議の場に闖入した者によって遮られた。クレア城の衛兵の一人で、手に二つの書面を携えている。
「何用か。ご当主と我々は会議の途中であるぞ」
若干叱責気味にジルベールが詰問すると、衛兵が恐れ入りながら跪いて書面を差し出す。
「ご無礼をお許しくださいませ。御屋形さまの会議の始まった直後、カーディガン城主マレ殿から先月のカーディガンにおける情勢を報告する書面が城の使者から届きました。ところがその直後にまた矢文が城の門に居られておりまして…これはどちらもすぐにお伝えするべきであろうと、衛兵仲間で相談したのです」
リシャールの表情に複数の感情が浮かんでは消えた。ジルベールは立ち上がると、「使者はいずこか!」と叫ぶ。既に辞去し帰途に就いたと衛兵が答えると、ジルベールは大きく舌打ちを漏らした。その使者に聞けば、カーディガンの実情はある程度判明したであろうにと考えたのである。リシャールは二つの書面をかしこまる衛兵の手から受け取ると、まずは城主マレのものに目を通した。
「情勢は、いかに」
幕閣のひとりが重い口を開く。おそらくは皆、当地がワリア人の跋扈する状態であるとの内容がそこに示されているのだろうと考えていた。リシャールは半ば鼻白んだように答える。
「特筆すべき争いのようなものは見受けられぬ…ただの報告でしかない。裁判はどのようであった、牢の空き状態はどうであるか、収支はどうであるか、等だ」
その言葉に、ジルベール以外が驚いたようである。ジルベールはむしろ安心したように腕を組んだ。だが、リシャールがもう一つの書面に目を通し始めて顔色が変わったのを見て、全員が息を飲んだ。震える声でリシャールが読み上げる。
「クレア家当主は注意されよ。マレは既にワリア人に下っている。遠からずワリアの王がアングル王にケレディギオンの宗主として正式に同地を継承したことを告げ、クレア家の領地経営がいかに貧弱であったかを伝えるであろう。王はクレア家を信頼しなくなるであろう…」
馬鹿な、とジルベールは失笑した。もともとエティエンヌ王はワリア経営などそこまで熱心ではなく、王位に就いてそれを維持するだけが目標の人間である。そのような人物にかような継承を宣言し讒言したとして、王の心がそこまで動かされることはない。王とて政治の素人ではないし、多少の分別はある。一度の失態で家臣への信頼を全く失うなど、かえって王としての器に問題があると言われよう。それくらいの客観性は失ってはいないはずであろう。
しかし、リシャールの胸中は、既に大時化の海原のように、巨大な感情の波濤で乱されていた。当事者として王との関係に満足がいっていないのは言わずもがなだが、彼自身が他人、特に王に対して疑心暗鬼に囚われ始めていたのである。このまま王に対して失点を重ねれば、彼の地位や面目に傷がつく。何よりも、ロンドンで心身を擦り減らす現在に、彼自身の倦厭が酷かった。
書面を握り締めたリシャールは、俄かにその手を膝に打ち付けて立ち上がった。
「決めたぞ。私はこれよりカーディガン城に急行し現地を視察する。マレに対するこの書面が単なる偽物であればそれでよし。ロンドンに戻るか現地の鎮撫に勤めるかは現地で考えることとしよう」
リシャールの目には決意の熱がみなぎっていた。父上、とジルベールは抗議の端緒を開こうとしたが、リシャールが片手を上げ謝絶した。
「もうよい、ジルベール。おぬしが当家の跡取りとして冷静であり、家門と営為を引き継げる才があることは分かった。もし私に何かあれば、お主がクレア家を統率して王の助けとなるがよい。」
父の言葉に、ジルベールは黙すしかなかった。父は今、息抜きをしたいのだ、ということが彼にもわかったのである。ロンドンで王に低頭しその地位を固めることは父の仕事であり、それから逃れることは今のところ不可能である。だが、カーディガンが不穏になっているということが事実であればそれを治め、虚偽であれば安堵して戻ってくる、何かしらの結果を齎すことができる。受動的に時局を待つよりも能動的に時局そのものを動かす、その道を父は選んだのであった。
「供回りは腕の立つ者数名を選ぶ!明日にでも出発するぞ、馬を引けい!」
リシャールの号令に、幕閣一同が立ち上がった。やはり征服王の血を分けるクレア家の当主はこうでなければ、と皆が鋭気を反響させた。今年の四月は、穏やかに終わらないであろう―しかし、それは彼らの沈滞した今を良い方向に動かしてくれるような気がしたのである。
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