第13話 キドウェリー哀歌 中編
グウェンシアンが勇ましくマウルの砦を出立したころ、その目的地であるキドウェリーには、既に殺伐とした空気が流れている。
モーリス・ドゥ・ロンドルは村から城に帰還して以来、本領オグモアの騎士や傭兵らを招集し、一週間の間にキドウェリー一帯を武装する人々の集約地帯に変えてしまった。城には収容しきれないほどの兵が集い、やれ武器の供与だの、糧食の手配だの、さながら最前線の補給地の如き有様である。その数はおよそ500を超えるだろうか。まだ彼は確知していないが、グウェンシアンの用意した間に合わせの兵力に比べると二倍以上の数があり、既に戦術的な優位は揺るぎない。
「果たしてそのグウェンシアンとか言うグリュフド王の妻はこの地に攻めて来ますかね。俺なら民など見捨てて時期を伺うものだが」
短剣の刃を磨き粉で擦りながら、ラヌルフはモーリスに問いかける。傭兵としてフランドルからワリア辺境に流れ着いて数多の戦いを潜り抜けてきた彼は、学は無いものの、戦場での理には経験的な蓄積を持っている。人質を取られたからと言って、その人質の解放を狙って敵の本拠地に殴りこんでくるなど、常識的ではない。人質に害が及んだとしても、その他への害が及ばず、結果として多くが救われるのであれば、その害は通行料として払っておくべきものと考える。
まして、王や女王は国の象徴でもあるのだから、余程のことが無ければ前線に立つものではない。前線に立って仕事をするのは彼のような専門家で十分である。自らを危険に晒すのは愚の骨頂であろう。その危険があるからこそ、グリュフド王も散兵戦術でフランクとの正面衝突を避けてきたのではないか。
「そうさな、我々にしても、できれば来てほしくないものだが」
顎を擦りながらモーリスは狡猾な笑みを浮かべる。
彼の言う通り、来なければ来ないで良いのだ。グリュフド王の嫌疑や罪状が晴れることはないので、追捕の根拠にけちはつかぬし、村娘たちを好きなように処す―彼なりの―口実にもなる。南ワリアのワリア人の忠誠はデハイバース王から離れ、無力感が伝播し、ノルマンディー人の支配を受容する潮流がより強まるかもしれぬ。そうなれば彼が今後ブレイキニオグやその他の地域を獲得するのに幾らかやり易さが増すというものだ。
ラヌルフにもその程度のことはわかっている。理解しているからこそ、これから相見えるであろう王妃のことを嘲笑したくもなるのであった。名誉や感情などで無名の
「じ、城主殿は、ブーディカと言う女傑の伝説をご存知か」
珍しい声がした。二人は意外そうな視線を一点に集約する。荒事には怯えて祈ってばかりの写本師兼臨時通詞のジャンが、やや遠慮がちに、二人に話しかけたのである。
「ブーディカ?はて、どんな人物だ」
モーリスは興味深そうに問い返す。ジャンは息を整えながら話し始めた。最初はギヨムらのことを猛獣の如く恐れていたこの学僧は、やや異常な環境に慣れ始めていた。特段なことが無い限り、事が終わるまで彼らが自分を害することは恐らくないであろう。幾許かの余裕が、普段の知性的な彼の姿を呼び戻していたのである。
「カムル、いやワリアの民に伝わる伝説の女王のことだ。タキトゥスと言う歴史家も記録を残している。はるか昔、主の降臨の後一世紀と経たぬ間に、まだローマの属州であったこの地で、ローマに反してブリタニアに未曽有の大混乱を生んだ女王であるらしい」
ブーディカは理由なく蜂起したわけではない。かの軍事的巨人ユリウス・カエサルがブリタニアに足跡を残した後、肥沃なこの地を目指してローマの
意を決してブーディカは異教の祈りを挙げて叛旗を翻した。自らガリアの戦車に乗り込み、ローマに対抗するガリアの人々を従えて複数の軍団を破ると、ロンディニウム、すなわちロンドンに至り、市民を見捨てた軍団への見せしめとして同地を劫掠したという。
「その乱でローマの軍団は大きな被害を被り、一度は南部に撤退しなければならなかったという。カムルの民は祖先にあたる彼女を英雄として祭っていると聞いた」
「それで、結局は負けたのであろう?」
ラヌルフの声は意地悪い。短剣を鞘に出し入れしながら、口元には冷笑が揺蕩っている。ジャンは頷き、否定しない。
「負けはした。だが、後世に名が残る。おそらくはそのような義侠の心持で、グウェンシアンと言う王妃もこちらに向かってくるのではないかと、そう思ったのだ」
事実、ブーディカは敗北した。ロンドンを餌にしてブーディカ軍に供するという徹底的に冷徹な判断を下した当時のブリタニア総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌスは装備と兵を整えてブーディカを誘い出し、投槍の投擲と卓越した反包囲陣形で彼女の軍を殲滅したのである。8万にも上る死者を出し、敗軍の将に堕したブーディカは毒を呷って自害したという。
しかし、ブーディカの「個人的な感情と名誉」に端を発した蜂起は、以後長くブリタニアのガリア人に伝わった。ローマの側でもまた、行き過ぎたブリタニア統治は火に油を注ぐとして、以降の政策に若干の修正を施していかねばならなかった。戦に参謀として参加していたアグリコラと言う人物が、その騒擾を義理の息子タキトゥスに伝えざるを得なかったほどのことであった。
「名を残すか、なるほどな。写本師殿はなかなかに文才がおありだ。職人の経験は伊達ではないと言うことか」
モーリスは幾分感銘を受けたようではあったが、ラヌルフと表情はそう変わらない。
「その話が我々に教えてくれることとしては、そうさな。ローマ軍は賢かった。最後まで手を抜かずに反乱を収め、その後も数世紀はブリタニアに統治者として君臨したと言うことだろう。後世の名よりは現代の実を我々は取るとしようぞ。英雄などになるよりは、領地を加増する方が遥かにましであろう」
モーリスの意見に間違いはない。それはジャンにもわかる。しかし、ブーディカのごとき反乱は、征服者や植民者の側が圧政を続け、かつ原住の人々の権利や利益を脅かし、更に約定や人倫を破ったときに何が起こるのかを普遍的に示すものではないか、と彼には思われるのである。今これから義兵を募って勝つ見込みの薄い戦に身を投じるグウェンシアンの行いに、そのような普遍的な何かを感じ取らずにはいられないのであった。
全く、全知全能の神は下々の我らに時に耐えがたき試練を与えるものだ、とジャンは聖職者の端くれとして嘆かざるを得ない。原罪に始まり、言葉の壁といい、人々には乗り越えるべき壁が多すぎる。それもこれも、虚栄と慢心に塗れて神の言葉に目を背けてきた人間の行いが招いた結果ではあるのだが―。
「わたしはわが怒りのさばきを行うために聖別した者どもに命じ、わが勇士、わが勝ち誇る者どもを招いた、か」
偶然にもグウェンシアンと同じくイザヤ書の一節を引用すると、ジャンは改めて十字を切った。願わくば、これから刃を交える人々に神の救いがあらんことを、と彼は短く祈りを捧げる。
それにしても、早く写本室に戻りたいとの気持ちが、ジャンには強い。オクスフォードの学堂にいた頃が懐かしく感じられた。あの学堂では何人もの俊才が集い、日夜クリストの教えについて熱く理想を語ったものだ。彼にタキトゥスの本を貸してくれたのは、学童の先輩にあたるジョフロワと言うブルターニュ生まれの僧であった。確か自らをドゥ・モンマスと名乗っていた。カムルの物語やフランクの物語を集め、ローマの文化的遺構も含めて後の世に伝えるのだ、と息巻いていた。職務にも精励できる有能な男で、確か
「それはそうと、お主も変わった人物じゃの、学僧殿。我々には容易に理解できぬワリアの言葉に通じ、その伝承にも詳しい。どのような経歴をお持ちなのか、なかなかに興味が尽きぬが」
モーリスがジャンを見つめて、純粋に問うた。その言葉に、ジャンの背筋が一瞬びくりと動いた。上辺を取り払って本質を衝く武人の直覚が、彼の触れられたくない部分を貫いたのである。俄かに閉口して脂汗を流すジャンを不思議そうに見つめ、「言いたくなければよいが」とばつの悪そうな二の句を継ぎ、モーリスは肩を竦めた。
そこまで語ったところで、天守の階下から只ならぬざわめきが届いてきた。モーリスとラヌルフが視線を送り合い、ジャンを残して城の見張り塔へと駆けていく。ジャンは汗を僧服の裾で拭うと、覚束ない足取りで二人を追った。
ラヌルフを伴って見張り塔に昇ったモーリスは、見張りの兵に指さされ、北東の方角を見た。マウルの方角の野から、数百名になろう一団が、武器を携えて行進してくる。その先頭には、騎乗せる者数名。遠目に見て、デハイバース王家の紋章をあしらった旌旗がはためいているのがわかる。
「おいでなすったか。さて、仕事だ」
ラヌルフが乾いた唇を舌で潤し、獣のような笑みを浮かべる。モーリスも頭を縦に振り、配下の将に伝達を始めた。城の鐘が音高く鳴らされ、待機していた兵たちに戦の到来を告げた。キドウェリーに、春の午後の光が照らし、空は一層青く広がって、人々の争いさえなければ、まったく良き日取りとなりそうな一日が過ぎていく。兵士たちが城から慌ただしく出て、周囲に縦深陣を敷き、敵軍を迎撃する格好を整えていった。ジャンは遅れて見張り塔に昇ると、迫りくる獅子の紋章を見つめ、無言で十字を切るのであった。
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