第2話 カンブリア秘史 前編
「カンブリアの民にとって家は皆のものであるから、誰一人として拝跪することはない。彼らは自由と歓待の心こそを最高の美徳と考える」
12世紀の後半、カンブリアで数々の記録を残した作家ジェラール・ドゥ・バリはこのように『カンブリア記』と言う書物で述べている。詳細は省くが、彼自身カムルの高家の血を引いているので、同書における記述にも、幾分カムル贔屓の気味があるとの評価が多い。しかし、記録の別のところではしっかりとカムル人の弱点を
カンブリア―後の世のウェールズは、彼の書物完成から遡ること半世紀の今、平和とは程遠い状態にあった。
この時代、カンブリアには大まかに分けて三つの王国が存在する。アングル国ヘレフォード伯、シュルズバリ伯領と地続きで大きく接し、常に矢面に立たされるポウィス王国と、ゴワー半島を含み南西部を支配するデハイバース王国、そしてベルウィン山脈と言う急峻な山地を自然の要害として抱え、東部でチェスター伯・シュルスバリ伯領と接する北西部のグウィネド王国が、それらである。これらの主要な王国が、いくつもの小国を従え、更にその下に
先に述べたカンブリアの三王国は、かつて大ブリテン島に住み、やがてローマの駐屯軍と融和したブリトン人国家を母体としている。6世紀以降のアングル人らの来寇の後、幾度となくアングル人を脅かし、または同族同士で角逐しながら、9世紀にはロードリーと言う有力な王が出て、数少ないカンブリア人の統一政権もどきを産んだ。この時期はアングル国でもアルフレッド、フランク世界でもカールという巨大な王が排出されており、西洋中世が決して暗黒ではなかったことにささやかな傍証を与えるだろうか。
もどきと言うのは、カンブリア人がこの後も完全な統一を同族同士で行えなかったからである。理由は多々あるが、相続に
どうやら、カデルはロードリー家の中で一番野心的であったようである。彼は弟のメルフィンを力でねじ伏せてポウィスを自国に併合すると、子息ハイウェルに後事を託して没した。この頃都合の良いことにアナラウドの後継ぎがアングル人との戦で戦死してしまい、主家アベルフラウの王が不在のまま、空のグウィネド王位が彼の手に転がり込んできた。このハイウェルが、長じて後、カンブリア史に複数名の残る偉大な王の一人、ハイウェル
善王の名に恥じぬ統治を彼は行ったが、その中でも有名なものとして、「ハイウェル
善王の治世は、だが、長くは続かなかった。ハイウェルはポウィスにマトラファル家と言う分家を作り、うまく均衡を取るように努めたが、彼の子息らがそれぞれに仲たがいを始め、ポウィスは黄色地に赤獅子の旗を、デハイバースは赤色地に黄獅子の旗を、そしてグウィネドは赤と黄、二色に分けた地に黄と赤の獅子をそれぞれ分けてあしらった旗を掲げ、互いにいがみ合った。
もし、本物の獅子が同じように群れの中で淘汰をしあう姿を見たのなら、彼らはこの生き物を崇め奉ったであろうか。
カムルの王たちが相争う間、諸外国は恐るべき速度で変容した。アングル―カムルの民はサセナクと呼ぶが、強大でもあり時には同盟を組んだこの人々の国が、11世紀になり大きく動揺した。
カムルの民は剽悍な戦士である。前述のジェラールに言わせれば、「粗食に耐え、武具の扱いを幼少から学び、山や森で体が鍛えられている」ので、いざ戦となれば、攻め込んできた外来者をはじき返すだけの実力も自信もあった。形勢不利となれば山に逃げ、機を見て報復する。それがカムルの戦い方であった。
しかし、フランク人の戦の仕方は、今までにカムルの民が経験したことのない方法で行われた。突撃専門に育てられた
ノルマンディー公がアングル国の王位を得た後で、勿論抵抗がなかったわけではない。肉体が異物に拒絶反応を起こすように、アングル人の一部も精々張り切って反抗した。特に、首府ロンドンから遠ざかれば遠ざかるほど、蜂起は激しいものになった。北部などでは激しい戦になり、更に多くの血が流されたと言われている。
11世紀後半、征服王ギヨムは多大な流血でいくつもの池を作り出した後、アングル領が概ね平定されたのを見て、各地の平定と税収検地の傍ら、未だ独立を保っているワリア地方の対応を考えた。英明な彼は、欧州他国の制度にも学び、異民族の防波堤として新たに伯領を設けることを決めた。
伯と言う地位は、言うなれば方面軍長官である。軍を指揮し、独自に幕僚や宮廷を設け、徴税などを統括する。大きなものであれば、一つの国家にすら匹敵する。事実、現在のベルギーはフランドル伯という中世発祥の貴族国家が元になっているほどだ。当然、地位に伴う責任と能力とが要求される。
ギヨムは幕閣の中から三人の重臣を呼び出した。アヴランシュ
「卿らに命じる。新たに創設する伯領の長となり、ワリア地方に我が武威を示せ。卿らに与える権力は、
宮中伯とは、王の側近として、時には摂政級の働きを許される栄誉職である。この職は、領土獲得や城塞建築と言った上位君主の監督が必要な行為を、ほぼ際限なく行えるというものであった。歴戦の大貴族達はこぞって征服王に改めて深い忠誠を誓った。
ワリアとの境界線に、こうして巨大な伯領が形成された。北方、スコット人の国からワリアへと抜ける地域には、ダヴランシュがチェスター伯として支配を広げ、ポウィスに隣接するシュルスバリには王の右腕モンゴメリーが、最南端ヘレフォードには築城の名手フィツ・オスベルンが赴任した。
ヘレフォード伯となった
それは鉄と血の悲劇であった。北方ではグウィネドの本拠アベルフラウが一時的に陥落し、チェスター伯・シュルスバリ伯連合軍は放縦に暴行と虐殺を繰り返して、同地の人的資源に長年のこる爪痕を残した。シュルスバリ伯などは同地の教会の長老格の手足を切断して悶死させ、その教会を犬小屋にしてしまうほどであった。往時の王族は命からがらアイルランドに亡命し、捲土重来の機会をうかがうしかなかった。ノルマンディーの習いとは、すなわち弱肉強食の、血なまぐさい獣の掟に、幾許かのキリスト教的な装飾を施したもので、残酷さは祖先のヴァイキングでさえ舌を巻いたであろう。
非道は非道の連鎖を産む。シュルスバリ伯はその後傭兵に裏切られ、北方人の襲来に敗れて戦死し、弱体化した軍を纏めるチェスター伯は、間隙を縫ったグウィネド王らの巻き返しで一時的に自領へ撤退する羽目になった。ヘレフォード伯は大陸での領土争いに巻き込まれ客死した。彼らの空位は別のノルマンディー貴族やその嫡子が埋め、何度も小競り合いが繰り返され、掬いきれぬほどの血泥がワリアの地の底に沈殿していった。そして、その間、ワリアの貴族―カムルの民の王族は、一同団結してフランクに抗すること能わず、主導権を巡って対立することを止められなかったのである。
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