オワインの獅子
北海 加伊
第1話 狼煙
…獅子は最早騎士の背後に控えず。
残された者たちはその騎士を救世主として崇め奉った。
何よりも、その仇は彼らが悪魔ほどに恐れるものだったのだから。
どれほどの良き戦士たちが、彼らの眼前、同じ場所で屠られたことか。
同じようなことがこの騎士に起こりませぬようにと。
彼らは神に祈った。どうかこの騎士を生かして我らの元へお返しくださいませ。
どうぞかの騎士にあの巨人を葬る力をお与えくださいませ。
各々は騎士の願いを自らの祈りに託し、捧げた。
巨人は猛り狂って騎士に対峙した…。
クレティアン・ドゥ・トロワ 『獅子の騎士オワイン』より
時は12世紀半ば、現代の英国がまだ統一される前、戦乱と騎士物語の時代。
その英国の国土の主要な部分を占める大ブリテン島の西部、ウェールズ。
この地は古代から大ブリテン島に住むケルト系の民、カムル人が住むことから、カンブリアと呼ばれていた。
カンブリアの民は小さな王国に分かれ、その王国を上位の王国が統治していた。
北部の上位王国は、グウィネド。古のローマの血を引く王が統べる。
中部にはポウィス。南部にはデハイバース。
この王国の東部にそびえる山を越えたところには、後世アングロ・サクソンと呼ばれるゲルマン人の国家、後のイングランドがあったが、11世紀の後半、フランスの北部に定住した戦闘民族の末裔、ノルマンディー公国が攻め込み、支配者となった。
ノルマンディーの貴族たちはその食指を未征服のカンブリアへと伸ばした。
彼らは私腹を肥やすために領土拡張を狙い、カンブリアの王たちは生存と統一を目指して戦いを始めた。
裏切りと血塗られた戦の中で、カンブリアの歴史は、やがて一つの転換点を1136年に迎える。
これは、まだ日本にはあまり知られていない、この時代のグウィネド王オワインの為したその偉業を、少しだけ物語るお話。
海岸へと続く、薄く雪の積もったなだらかな斜面。その合間を、灌木の群れが寒気に抗うように生い茂り、白と茶の斑を地面に作り出している。その東側の果て、ブレイキニオグの山々の稜線が、ゆっくりと白く染まり始めていた。
後世、ブレコンの山々として、大ブリテン島に数少ない山岳の自然を人々に楽しませるこの山の姿は、今はまだそのようには呼ばれていない。急峻な自然の峰は、頂に雪を抱き、厳然として、はるか先の裾野で寒さに耐える人々を見下ろしているように思える。
寒さに耐える人々は、海沿いの砂洲を見下ろす小高い丘の、葉の落ちた林の中に居て、静かに白い息を吐いていた。人数は三名。いずれも獣の毛皮を加工した外套を纏っており、顔に黒の布を巻き付け、目と鼻を露出させ、微動だにしない。よく見ると、皆一様に外套の下に武具を帯びていることがわかる。弓矢、剣、短剣。季節柄、この時期には鹿を求めて野に出る
彼らの目線のはるか先には、高い木柵に囲まれた石造りの城砦があった。方形のその城の周囲では、夜明けもそこそこと言うのに、幾筋もの煙が昇り、灯りが城の室の中で燈され、ともすればそれらの喧騒すら伝わってきそうなほどであった。
「そろそろだろう」
一人が、まるで料理の出来具合を見るかのように、落ち着き払って呟いた。声は大きくないが、良く通り、耳なじみがよい青年の様子である。背格好も三人の中では一番高く、俊敏な獣を思わせる。残りの二人のうち、やや小柄な体格の者が、声もなく静かにうなずいた。こちらは、猛々しい獣と言うよりは、野生の山猫のような、より静かで捉えにくい印象を受ける。
「長の言う通りになるだろうかね、
最後の一人、二人の中間位の体格の者が、やや掠れた、くぐもった声で、最初の青年に問いかけた。
「なるんじゃない、させるんだ。その為の我らだ、
嗜めるように、鷲と呼ばれた青年は答えた。「そうだな」と鳶と呼ばれた男性も短く答えると、それきり呼吸を整え、城をじっと見つめた。
ブレイキニオグ山の向こう側に橙色の光が見え始め、やがて太陽がその姿を現した。見つめる先の城にその光が投げかけられる。と、同時に、城の門がゆっくりと上がり始めた。三人は灌木の群れに身を隠しつつ、固唾を飲んで城門が上がりきるのを待った。
開いた城門から、遠目に黒い人影がぞろぞろと出てくる。と、鳶と言う呼び名の者が、右手に小さな輪をつけて右目に押し付け、もう片方の手でもう一つ小さな輪を作り、右手の先に重ねた。遊牧民などが得意とする、裸眼での遠見の技術である。
「
「数を数えろ、鳶。」
「数えている、鷲。」
鷲の要望に彼はすぐ応えた。どうやら、鳶の眼力は非常に優れているようである。たっぷり千歩以上ある距離で、他の者にはかろうじて見える人影が数えられるようだ。もごもごと呟きながら、溜息を吐いた。
「うへえ、三百は固いな。アベルタウィの本軍でこれだ、ゴワーのフランク人を全部合わせれば千人近くになるんじゃないか」
アベルタウィと言うのは、この地域、特にあの城が建つ入江の地域を指す言葉である。遥か昔、ゴワーと呼ばれる半島、その南東部にあるあの地域に、北方から海賊の類が来寇し、やがて定住するようになった。彼らはそこを本国の頭目スウェイン
背の高い青年―鷲は、満足そうにうなずいた。鳶の数の数え方と記憶力はかなりのものであるが、そのようなことは彼には分り切っているように思われる。強い信頼が、彼らの間にはありそうであった。
「長と王の考えた通りだ。フランク人は我らの数を知らない。直ちにハイウェル殿下に事の次第を告げよう。」
三人は立ち上がった。林のはずれに馬が止めてあるので、それに乗ってこの場を去るのである。しかし、小柄な者だけが、二人が歩み去る中、じっと遥か向こうの一団―フランク人の兵を見据えていた。
「行くぞ、
鷲の呼びかけに、雀は小さくうなずいたが、それでも目線は暫く動かなかった。その眼には、喩えがたい暗い煌めきが、朝焼けの光と共に揺らめいていた。
第二代ワーウィック伯ロジェは、鎖帷子と兜などを纏い、自慢のスペイン軍馬の鞍上に揺られ、何十名と言う選りすぐりの騎士に騎行の周りを固められながら、並足でゴワーの西を目指している。
主の降臨以降1135年も終わりの現在、彼は齢33歳の少壮貴族であった。本名は、ロジェ・ドゥ・ボーモンという。ボーモンと言う名を聞けば、本国アングル領内ではほとんどの人々を地にひれ伏させるであろう。ボーモン家は、余りにも偉大で高名な
ワーウィック伯はアングル国ワーウィックに本拠を持つが、フランク国領内ノルマンディー公国ヌーブール地方由来の大貴族であり、大陸とブリテンとに領土を持つ。初代伯アンリは相当の切れ者で、征服王無き後のノルマンディー家家督争いで必ず勝者の側につき、征服王の子息達―ギヨム
カンブリアとはすなわち現代のウェールズであるが、1100年代の今、この地はラテン語では公式にこのように呼ばれており、ウェールズとは語られない。また、その地に元から住む人々は当時ワリア人と呼ばれた。かつてこの大ブリテン島の過半を支配していたアングル人が「よそ者のケルト人」として付けた名前である。
初代伯はワリア人の住むゴワー半島を支配するために、武力と植民政策を用いた。具体的には、ワーウィックなどの地域で職にあぶれた民をゴワーに入植させた。当然、ワリア人は父祖代々の土地を奪われてはならぬと抵抗したが、その動きは強力なノルマンディーの騎馬兵団によって幾度となくねじ伏せられ、ゴワー半島のアングル化は急速に進んだ。ときにはスウォンジー城の柵が大規模に破壊されるなどのこともあったが、移動速度と威力に勝る騎兵は最終的にワリア人を追い散らした。
初代伯の有能さは、戦略にも現れた。彼はゴワー半島の各地に支城を築き、城代を任命して、アングル領と同様に城同士の情報網を張り巡らせ、ワリア人の反乱あればすぐに騎士を呼集して事に当たらせることができるようにしたのである。ゴワー半島の東部はスウォンジーが首府として支配し、西部にはラハーなどの支城が建てられ、支配の輪を広げた。ワリア人は旧来の部族国家的伝統を捨て、ノルマンディーの習いに甘んじて税や賦役を納めねばならなくなった。
「ワリア人どもはアングル人よりも手懐けにくい。森や山の戦に慣れているから、討伐しても
アンリ・ドゥ・ボーモンは晩年、伯の後継ぎとなる長子ロジェにそのように教鞭を垂れた。ロジェもそれを首肯したが、ワリアの他の地域では同輩のノルマン辺境領主らの伸長著しく、それらに後れを取りたくない稚気があった。
「クレア家は既にワリアの西にまで手を伸ばし、カーディガンと言う肥沃な地帯を手に入れている。我々もゴワーから更に手を広げ、富貴を養わねばなるまい。」
クレア家と言うのは、これも征服王の譜代であり、縁戚にあたる名家である。本家分家合わせると広大な領土を抱える一門であるが、ゴワーの近くハートフォードに辺境伯領を拝領してからというもの、強大な王権にも匹敵する権力で、カンブリアの各地でワリア人から領地をもぎ取っていたのである。
中世のことであるから、領土をより多く持ち、より多く貢税を得たものが更に強大になる。カンブリアの領地経営ではやや後発となってしまったボーモン家には、焦るだけの理由があった。何より、アングル国内でも政治的不穏が漂ってきているのだから―。
そのような折、ゴワーの各地から、ワリア人の強盗が頻発するという知らせが、ロジェのもとに届けられた。1135年も暮れに差し迫り、半島の各地では主の生誕を祝う準備に追われている秋口、その間隙をついて、武装したワリア人が10名前後の集団で押し寄せ、祭りの準備から何からを荒らし、財物を奪っていくという。城代たちが騎士を呼んで警戒に当たり、時には追撃するのであるが、土地を知り尽くしたワリア人のこと、ほとんど功を奏さずに終わった。
気力体力共に充実する壮齢のロジェとて、手をこまねいてはいなかった。ワーウィック領からの遠隔統治に座すことなくスウォンジー城に入ると、大規模な討伐隊を組織し、新しい年の憂いを一掃すべく動いたのである。
封建制度の場合、臣下の騎士らを呼び、軍隊として組織するが、封建軍には従軍期間の定めがある。年に一度、40日程度と言うのが通常のそれであった。ロジェとしては年末の祝祭期に軍の招集をかけることに躊躇いはあったものの、このままワリア人をのさばらせていては名望にも傷がつく。やむを得ず、兵を整えねばならなかった。
傭兵もあわせて数百人の軍勢がスウォンジーだけでも編成できる算段がついたころ、各地に放っていた斥候が、12月も半ばに入って有益な情報をもたらした。半島の西部にあるラファー地域とこのスウォンジーとの間に、ワリア人の野盗100名余が根城を築いているというものである。
「狡猾なワリアの群盗め、この際一撃で目にものを言わせてくれる。ブリテンの支配者は我らノルマンディー人だと言うことを、思い知らせてくれようぞ」
征服王以前にブリテン島をおおむね支配していたのはアングル人とサクソン人、更にはノルマンディーの祖先と同族の北方人との連合した王国であり、その前はブリトン人とローマの軍閥が支配していたのだから、盗人猛々しいのはノルマンディー人の方である筈だが、当代の権力機構を牛耳るのはまさに彼らノルマンディーの人々であったのだから、言い分にも箔が付く。意気揚々と彼は家中の者に布告を出させ、騎士たちを集結させたのであった。
「全知全能の主の名において、ゴワーの支配者、ワーウィック伯、ロジェが挨拶と共に告げる。ワリアの民の暴挙許すまじ、これを討伐せん。ワリアの民に正義の鉄槌が下るであろう」
計画通り、スウォンジーだけで400を数える騎士や傭兵、ラファーでも同じほどの兵力が集められた。たった百名余の盗賊を制圧するには十分すぎる数であった。出陣前の12月31日、夜の拝礼を城詰司祭の導きで終えた後、老練のゴワー城代オドーにそれを問われると、ロジェは得意げに答えた。
「群盗を始末したら、徹底的にワリア人の地域を荒らして回り、奪えるだけ奪い返してやる。いまだ我らに従わぬ村々は焼き討ちにし、恐怖と屈辱を与えるのだ。」
先代の頃からゴワーに詰める城代は、怪訝そうな顔でロジェを見返したが、黙々と一礼し、スウォンジー城の広間を辞し、主が不在の間の守りの手配にかかるべく夜陰の城を従者と共に歩いていく。
「若君はどうやら功を焦っておられるようだ。何もなければよいが、いささか気になる。いつ若君が帰城してもよいように、十分な備えをしておかねばならぬな」
白い息を吐きながら、老将は城の周りに野営する兵士らの陣幕を見下ろした。
「ですがオドー城代殿、ワリアの盗賊は数で劣ると聞きます。既に勝利は決したも同然ではございませぬか」
若い従者は城代の言葉に答えてそういったが、城代は首を振った。
「戦では最悪の事態を考えねばならぬものよ。若君はワリア人の人数を報告通りに信じているが、もし斥候どもが騙されておったらどうだ?敵の本体は群盗ではなく、それを囮にして若君をおびき出したのやもしれぬぞ」
「はあ、それはあり得る話かもしれませぬが、ワリア人はカンブリアのあちこちで小国に分裂していてまとまりを欠くといいます。大軍を指揮する能力もないと評されておりますが」
従者の手から葡萄酒の入った革袋を手に取ると、一口飲み、城代は深い息を吐く。
「あの征服王ギヨム様ですら、最初は周りの親族に侮られ、凄絶なお家争いを戦い抜いて成長された。ワリアの側に同じような傑物が生まれんとも限らん。用心にこしたことはないぞ。」
征服王と呼ばれたギヨムはもともと継承権を正当に与えられない妾腹の出であったが、父ロベール公が十字軍参陣の道半ばにして斃れたとき、直接後継者に指名されたのである。その後の血塗られた権力闘争の中で幼いギヨムは散々年長の親類から脅かされ、侮られつつ、非情の君主として成長した。まだ彼の死から100年と経っていないが、その生涯は半ば伝説と化し、ノルマンディーの人々に誇りと畏怖とを与えている。従者は無言でうなずいたのであった。
1月1日の午前の間にラファー軍とスウォンジー城の本隊は両地の中間地点にある平原で合流し、そこより北に進むことになった。リアン川という小流が行く手に現れ、それが蛇行して大きく東北に弧を描く、その先に湖が在る。この湖の周辺に、群盗が跋扈しているという報告であった。
「ワリア人は散兵戦が得意だ。川の途中で藪などから襲ってくるやも知れぬ。警戒を怠るなよ」
ロジェは幕下の騎士たちに伝えると、陣の半ばで行軍を指揮した。先代の薫陶と言うべきか、陣中にあって指揮をする素振りにはそれなりの風格がある。ワーウィック伯の紋章、黄金と青の格子の中央に五匹の
徒歩と騎兵を合わせて800有余を数えようというロジェの軍は、雪に彩られた川岸を数時間かけて北上し、周りを鬱蒼とした樹木に覆われた湖にたどり着いた。川の周辺に繁る木々をも含むと、かなり深い森の中に兵を進めたことになる。日の光は林の枝葉で遮られ、一層の寒さが押し寄せてくるようだった。
先遣の斥候が湖の奥で立ち上る煙を観て、ロジェに根城が近いことを告げる。ロジェは全軍に武器を抜かせると、煙の方向へ兵を進ませようとした。その時である。
不意に、風を切る怪鳥の羽ばたきの如き音が響き渡った。何百本という矢が、林の上から降り注いだのである。虚を衝かれたロジェの軍勢は強かに矢の痛撃を被った。反応の遅れた歩兵や騎士が射抜かれ、悲鳴を上げて倒れこむ。
「何だ、この数は!百名ではきかぬぞ!」
美麗なワーウィック家の楯で何本も矢を受け止めながら、悲鳴に近い声をロジェは張り上げた。
「伯、この林は危険です。一時林の外に出て態勢を立て直しましょうぞ」
騎士に言われ、ロジェは矢を躱しながら「林の外に出よ!来た道を戻れ!」と指示を下す。騎士も歩兵も一斉にそれに従い、矢の雨から逃れようと必死にこれまでたどってきた道を戻ろうとした。と、先頭を切って逃げ出そうとした兵士が、くぐもった悲鳴を上げ、その場に立ち止まった。あろうことか、地面から木を削りだした槍が飛び出してきて、憐れな兵士ののど元を一突きに貫いたのである。
「地面からワリア人が出てきたぞ!」
ロジェは愕然とした。ワリア人たちはロジェの軍勢が通り過ぎた道の周囲の各所に穴を掘り、そこに10名ほどの集団で複数潜んでいたのである。装備は粗末ながら、ワリア人は山岳と森林で鍛えられた強靭な肉体を持つ。武器さえ与えれば、幾らでもフランクの騎士と渡り合える地力があるのだった。
ロジェ軍は完全に包囲された。林からは木々の上から降り立ったワリアの弓兵が手に武器を携えて襲い掛かり、来た道は100を超える伏兵が襲い掛かる。林から抜けることもできず、湖を背にして、絶望的な戦いを余儀なくされたのである。
「おのれワリア人の畜生め、誰の指示でここまで巧妙な罠をしかけおったのか」
自ら剣を抜き、襲い掛かるワリア人を幾度となく切り捨てながら、馬上で歯ぎしりをし、ロジェは悔しさに身をよじった。完全に見くびっていた。ワリア人は無能ではなかった。兵を組織してこちらに歯向かうこともできる力が、この民にも残されていたのである。
「伯、このままではいよいよ御身が危のうございます。我らが活路を開きますので、全軍を率いスウォンジー城へお下がり召されよ」
弓矢に肩を射抜かれた直営の騎士の一人が息を弾ませながら、自らの若君に決死の覚悟を伝えた。ロジェがここで死んだり人質に取られては、ワーウィック伯の家門そのものが揺らぎかねぬ。そうなればゴワー半島の支配が崩れ、ひいてはアングル国の基盤そのものにも少なからぬ影響が出てしまうであろう。ロジェは屈辱に唇を噛みながら首肯せざるを得なかった。
「済まぬがそういたそう。全軍、スウォンジー城へ撤退じゃ!活路を開け!」
ワーウィック伯の家紋をあしらった盾を持つ騎士たちが、雄たけびを上げ、数十名の一団を作り、攻囲の輪を締め付けるワリア人の一部を衝いた。騎馬が猛進すれば流石に軽装の人間では防ぎようがなく、ワリア人の一部は吹き飛ばされ、あるいは自ら飛び退って難を逃れた。
決死の騎士たちに道を譲られて馬を走らせるロジェの耳に、ひと際高い哄笑と嬌声が聞こえてきた。どうやら、追いかけてくるワリア人の騎馬隊が10騎ほどあるようである。林を抜け、南東に駆ける彼らに追いすがる。
「無様だな!ワーウィック伯よ!カムルの民の本気を見たか!」
訛りの強いフランクの言葉で、追手のワリア騎士は叫んだ。振り返りその姿を見ると、装備や身なりがよい。どうやらワリアの貴顕の身であるようだ。眼光鋭く、立派に蓄えた髭と筋骨たくましいからだが、歴戦の戦士を思わせる。ロジェは忌々しそうにその男に言い放った。
「ワリア人よ、今日のところは退いてやる。貴様のような畜生にも名があるのなら、名乗るがよい!後日の仇として心に留めておくぞ!」
敗走するにしても、ロジェはやはり伯としての威厳を損なうつもりはないようだったが、いささか虚勢じみていることは否めない。追いかける男は高く笑い声を上げて叫んだ。
「よかろう、負け犬のフランク人よ。俺はブレイキニオグの王、マレデュドの子ハイウェルだ。冥途の土産に覚えておけ!」
ハイウェルと名乗った騎士はやおら弓を構え、ロジェに狙いを定めた。弓弦を引き絞り一気に放つ。矢はほぼ直線にロジェの背を射抜く形で飛んだが、彼の身を守る騎士が咄嗟に盾を掲げ、その矢を防いだ。スペイン馬の脚は大したもので、ハイウェルらの馬の脚を遥かに凌ぎ、瞬く間に矢の届く距離を脱してしまった。
ロジェの軍は何とか死地を脱したが、奇襲を受けてから退却する中で、五百人以上の兵が失われた。大敗と言ってよい。何とか敗軍を林から離れた平地でまとめ上げると、粛然として疲労した足をスウォンジー城へと向けたのである。
ハイウェルは騎馬の上から遠く影になっていくフランク騎兵たちを眺め、満悦の表情をたたえていた。憎き侵略者を大層懲らしめることができたので、積年の恨みも晴れようというものである。そのそばに、数名の騎士が付き従う。その者たちに向き直ると、ハイウェルは静かな感謝の意を瞳にたたえた。
「鷲、鳶、雀。よくぞ今回の戦を指南してくれた。礼を言う。」
鷲と呼ばれた青年が目礼して返す。
「ブレイキニオグの戦士たちの助けがなければ、この策は成功しませんでした。改めて、彼らを労い、褒美を取らせてくださいませ。」
ハイウェルは哄笑した。豪快に笑うことがこの男の得意の仕草のようである。
「これはしたり、早速そのようにするさ。何より、オワイン殿下にも御礼をお届けせねばなるまいて。これより我らは祝杯を上げるが、お主らはいかがか?」
「グウィネドに戻り、事の次第をオワイン様に上奏いたします。戦はここだけでは終わりませぬ故。ハイウェル殿下も、この後の戦について、どうぞお心配りあそばされますよう」
鷲は静かに一礼すると、他の二人を従え、馬首を北にめぐらし、そのまま駆け出した。ハイウェルの側で事の次第を見届けていたカムル人の近習が、興味深そうにしている。
「あやつらはグウィネド王子オワイン殿下の素破らしい。
ハイウェルは静かに笑みをたたえ、三人の駆ける先を見やったが、既に彼らの姿は吹きすさぶ風と雪に紛れ、
1136年1月1日、ウェールズ史に名高い「ラファーの戦い」がこうして終わる。領主層であるノルマン軍が初めてウェールズの組織的な軍勢に敗れたこの戦いから、1136年の一年間を彩るウェールズ人の大反乱が始まることになる。
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