第9話『綱渡り』
その、夢というものを見たことがない。
皆と同じように、一日の終わりとしてベッドに横たわり眠りに入る。
そこまでは同じだろう。
ただ、その眠りから先が大きく逸脱していく。
次の瞬間、眼前に広がるのは真っ白い世界。
なぜか私は現実世界で眠りに入ると「白い空間」へと誘われるのだ。
そこは見渡す限りに真っ白い世界が広がっていて、しばらくすると白いドアが無数に現れだす。
その内の一つを選び、潜らないことには現実へ戻れない。
毎夜、私はいつも摩訶不思議な世界に身を置くことになる。
その世界の環境や風土、起きている事件や抱えている問題などの情報が、時間と共に徐々に脳と体に染み渡っていき、気付けば私はその世界の住人になってしまう。
生きるために染まる、とでも言うのか。
痛みも感じれば熱さも寒さも、空腹感もある。
命の危険にさらされたことさえ幾度もあるが、とりあえず現実世界で目を醒ましては、今日もこうして何とか生き永らえているわけだ。
ー ー ー ー
今回の白いドアの先は薄暗かった。
真っ先に目に入ったのは、狭いスペースに階段状に積みあげられた沢山の観客席だった。
上を見上げれば、高いテントの骨組みがぼんやりと見える。
独りきりなのかと思っていたが、徐々に、目の前の空席にぬるぬると人影が浮かび上がってきては埋まっていく。
私は、というと裸足で、ただズボンを穿いているだけ。上半身が裸である。
まだ、この世界の概要が把握できない。
現状で何となく解ることは、ここは観衆に見世物を提供する場であるということ。
そして私はステージの中央に居て、観客席が埋まっていくのを見つめることしか今は出来ない。
なぜなら、重厚な椅子に手と足、そして腹回りを縄で括りつけられた状態でポツンと置かれている状況だったからだ。
向かいの観客席の方からやってくる、じっとりとした好奇の視線を肌で受け止めるのが辛い。
その内、この世界に身を置く、私の役目が次第に頭の中に浮かんでくるのが常だが、果たして間に合うのだろうか。
何だか、とても嫌な予感がするのだが。
「アラタメマシテ ヨウコソ オコシ イタダキマシテ アリガトウ ゴアンゼンニ」
突如アナウンスが会場に響く。
妙に青白いスポットライトがその声の主を探り当てた。
ステージの脇に、木製の大小の穴が開いた面を被った図体が一歩前に踏み出す。
四本足の体毛のない動物が、片言の言葉を場内に発している。
「コレカラ メイン オタノシミ ハジマリマス ゴチャクセキ イタダキマス ゴチソウ ゴアンゼンニ」
この狭苦しい会場にぎっしりと、三百人くらいの影が席を埋めているのではないだろうか。
照明が天上から降ってきてステージの全体を照らし出すと、観客席は暗闇に落ち、無数に光る観客の眼光だけが残った。
眩い光の中、次に私の目が捉えたのは舞台の袖に居座る男だった。
そうだ、彼はこの闇サーカス団の団長。
この会場の情報が少しずつおりてくる。
闇サーカス団はこの帝国内で巡業をしている。
残念ながら、火の輪を猛獣にくぐらせたり、大玉に乗せて操ってみたり、空中ブランコで優雅に空を舞ったりすることがメインではない。
その全容は、罪人をエンターテイメントと題して刑の執行を任されている執行人であり、その見せしめを楽しみにしている者がこうして集まってくるということだ。
しかし、少しばかり状況が呑み込めてきたものの、私が何をしでかしたのかが全く思い浮かばない。
私は何か罪を犯したのだろうか。
冤罪という解釈がもしもこの世界にないならば、などと要らぬ不安を妄想してしまう。
そう、気分はとても最悪だ。
「サイゴ ニ イイタイコトガ アルナラバ イイヨ イエ イエヨ」
背後から椅子に縛り付けられていた縄が切り落とされた。
自由であるようで、ここで藻掻くことしかできない。
怖い。
メインイベントの主役は私。
ライトに照らされたまま時間だけが過ぎていく。
なにか喋らなければならないのか。
やがて、ざわついていた観客席が完全に静まりかえってしまった。
恐れのあまり、私の口から出た言葉は自分でも酷くがっかりするものだった。
「俺は、何もしていない。だから、ちょっと待ってくれないか」
団長が静かに幕の外へと消えていった。
体の感覚がおかしい。
操られているかのようにして、身振り手振りが変にわざとらしく大げさに動くのはなぜなんだろう。
「ああ、そうか。俺は誰かと勘違いされているんだ。
そうなんだ。
だから、早くここから帰してほしい。
犯人は他にいるはずなんだ、信じてくれ」
頭に湧き上がってきたことをそのまま即興で語る。
しどろもどろな、そんな自分への観客の反応はあまりにも薄い。
そして、こんな感覚があるものなのかと、全身のあらゆる神経が剥き出しになったかのように敏感になっている。
観客席から伝わる場の空気の流れが感じ取れてしまう。
同時に、観客の心情も。
「あの日は確かに国王様の姿を一目見ようと、最前列に陣取っていた。
だけど、あのタイミングで周りの観衆を突き飛ばしたのは俺じゃない。
国王様の服を泥で汚したのは俺じゃないんだ、本当だ!信じてくれ!」
私は喋っているつもりはない。
でも口が勝手に動く。
なんだかその声も私のものではない気もしてしまう。
恐らく、この不思議な世界で生きてきた私と、ほんの少し前に白いドアからやってきた私の意識が上手く繋ぎ合っていないのだろう。
他人事のように冷静でいようとする自分がまだ存在していて、今感じている以上に事態は深刻なのだと、危険なのだとサインをだすこちらの世界の自分を容認しようとしない。
するとその時、超越された聴覚が観客席の声を捉えた。
「ママ、アイツ ナンテ イッテイルノ?」
小さな影の言葉を私の耳は拾った。
その言葉を弁解を続ける私の頭が何度も反芻していく。
やがて、訴えかける私の声は徐々に小さくなり、そして何も喋らなくなった。
口元に残された乾きが、絶望感を匂わせた。
団長がいつの間にか舞台袖に佇んでいる。
先ほどは見られなかった、小さな女の子を引き連れている。
額から尋常ではない汗が滴り落ちてきて、足元でぴちゃぴちゃと弾ける。
団長が手をヒラヒラと返して煽っている。
何者かに支持を出しているのだろう。
団長と小さな女の子がいる舞台袖から、ぴかぴかと光を反射させながら台車が独りでに寄ってきた。
そこには一枚の白い紙が敷かれ、マジックペンが添えられている。
「…アーオ」
観客席からの、ため息と歓声が入り混じった小さな反応が悔しい。
「ミナサン キョウノ オダイ ハ
0.5ビョウデ フトッタ オトコノ エヲ カイテチョウダイ
イノチ チョウダイ ツカマエ ツカマツル」
「アァーォ!」
観衆のボルテージは最高潮だ。
そのタイミングを逃すまいと、カウントダウンが始まった。
「カイシ マデェ 10、9、8…」
刑の執行内容はいつも直前に知らされる。
この世界で以前にみたとされる記憶が脳裏に過る。
0.5秒で自己紹介、一気飲み、0.4秒で早口言葉。
いずれも受刑者は失敗に終わり、その場で団長に頭を撃ち抜かれた。
「6、5…」
そして、なんで今頃になって重要なことが頭に入ってくるのだ。
先ほど目にした舞台袖の幼い女の子は私の娘ではないか。
娘は私がこのステージに崩れた後、どうなるのか。
もう一度その娘の姿を探すが、照明が強まり周りが見えない。
娘の後姿が思い浮かぶ。
絵を描くのが好きで、後ろから覗き込んでも私に気付くことなく、集中して手を動かしていた。
クレヨンを握りしめた、その小さな手が可愛くて。
私を振り返った時の笑顔が可愛くて。
「3、2…」
娘にもう一度あいたい。
直ぐ、そこにいる。
触れたい。声が聴きたい。
「0(スタート!)」
「オォー…」
切羽詰まった時、人は自らの想像を遥かに超えた行動をとることがある。
振りかぶった顔面を思い切り、白い用紙に向かって叩きこみ擦り付ける。
すぐさま、後方から見えない力によって引き離された。
「ソレデハ エノ ハンテイ ノ ケッカヲ…」
目の前の用紙を見つめる。
酷い絵だ。
「…ジョウデキ デェース」
会場は拍手と歓声に包まれた。
びりびりと酷い痛みだ。
台車の柱部分に自分の顔を映し出してそれを見つめる。
顔面が真っ赤に腫れ上がり、鼻と唇からは止めどなく、だらだらと血が滴り落ちている。
白い紙に描かれた男と同じ、膨れあがった顔をしている。
照明の明度が落ちると、観客席は突然空っぽになった。
戸惑っていると、舞台袖からは団長に促されて幼い娘が姿をみせた。
名前を呼ぶ。
世界にたった一人の、私の可愛い娘の名を。
私の形相に構うことなく、泣きながらよたよたと駆け寄ってくる幼い娘をしっかりと抱きしめると、その温もりに安堵し、私は泣き喚いてしまった。
ー ー ー ー
目が覚めた。
涙がぼろぼろと、まだしばらく止まりそうにない。
鏡を見ると流血もなく普段通りの顔だが、腫れぼったく真っ赤に染まった瞳は職場に着くまでには治りそうもない。
伊達メガネで目元を隠して、いつも通りに通勤電車に乗る。
ドア付近に、通学鞄を背負った小さな女の子が立っていた。
現実では娘どころか結婚もまだだというのに。
でも、あの時に湧き上がってきた娘を想う気持ちは嘘ではなかった、はずだ。
電車が最寄り駅に近づく。
停車までを心の中でカウントダウンしてみる。
「5、4、3、2…」
あの瞬間を思い返す。
顔面で血判することを思い付き、白紙に突撃した。
あの時の覚悟。
ちょっと自分が好きだと思った。
電車のドアが開く。
駅のホームのざわめきが、少し照れくさい。
ー ー ー ー
白い空間『告白』 日々人 @fudepen
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