第3話『門番』
目が覚めた。
何もない白い空間を突き進んでいると、突然、一つの扉が現れた。
毎夜、この不思議な世界に連れていかれる度に思うことがある。
扉の先には、現実世界にとてもよく似ている部屋もあれば、全くこれまでの価値観が通用しない部屋など様々な世界が広がっている。
でも、その扉をくぐってしまえば、先に広がる世界はどういう仕組みで、今の私は何をしなければならないのか、を自ずから理解できることが多い。
その世界で生まれ、ずっと生きてきた住人のようにして、脳裏に浮かんでくるのだ。
ー ー ー ー
いくつも並んだ個室のドアが、バタンバタンと開いたり閉まったりを繰り返している。
うっすらと透けた人影のようなものが、私たちが収容されている檻の横をすり抜けては、下に大きく広がるフロアを行き来しているのが見える。
私たちのいる場所は暗闇のなかだというのに、フロアは輝きで満ちている。
しかし、目を凝らしてみても、その影の顔や着ている服などははっきりとはわからず、彼らの足音も耳には届かない。
ここは私が寝ている間に訪れる、白い空間に現れた一室だ。
真っ白な空間を歩き続けていると、ドアに行き当たることがある。
今日は、そのドアの先にある世界がこの奇妙なトイレだったというわけだ。
でも、ここで本当に用を足しているのかと疑いたくなるほどに、檻の中からは水の流れる音しか聞こえない。
フロアの中心に太い円柱が一本、暗闇の上空に向かって伸びている。
その柱を囲うようにして個室便所が配置されており、円を描くようにして40室ほど連なっている。
そして、その周りの壁一面に、仕切りのない小便器がずらりと設置されている。
フロアの上に設けられた、この檻の中からそれを見下ろしていると、何かの大型興行施設のトイレように見えなくもない。
しかし、ここに収容されている私やその他の者たちから漂う臭いからして、そんなサービスの行き届いた環境にいるわけではないことはよく解る。
頭に満たされるものを感じた。
この部屋の情報がすっと降りてきたのだ。
ここでの私は捕らわれた清掃員だ。
この大きな部屋のトイレは少し変わっていて、トイレに備え付けられているセンサーで汚れを測定し、その清潔度をランク付けしている。
「1」が最も清潔な状態で、「10」が最も不衛生な状態だ。
ここでは、その不衛生な便器を掃除すると、スタンプが手に入るのだ。
目の前の個室のドア上部に「7」の文字が浮かんだ。
暗闇の檻の中、周囲の視線がそこに集まるのを感じる。
掃除を終えると、その日のインクの色で腕に数字のスタンプが押される。
一日が終わるまでに、数字の合計数が「20」に満たないものは明日を迎えることはできない。
今は檻の中で合図を待っている。
『待ち』という特有の時間を、同じ境遇に立つ囚人たちはじっと耐え忍んでいる。
しばらくすると、頻繁に行き交っていた影の動きがなくなり、隣り合った者たちはそわそわして落ち着きがなくなってきた。
間もなくして、暫しの「解放」の時が来た。
毛むくじゃらの甲をした、二つの手が檻に近づいてきた。
手首から指先にかけてしか目に見えず、宙に浮かんでいるように見えなくもないが、がっしりゴツゴツとした見た目からは威圧感が漂っていた。
握られていた鋭い爪が解かれると、分厚い掌には重厚な鍵が握られていた。
「ガシャン!」
一斉に私たちは檻を飛び出した。
掃除道具が脇に固めて置いてある。
我先にと、皆がそれに駆け寄り道具を手にすると、ブラシで周りを押しのけ、バケツで殴り蹴飛ばし合いながら各々がフロアに向かい、大きな数字が表示されたトイレを探す。
私は「5」と表示されたトイレの個室のドアを開け、中に入り込もうとしたが、その瞬間に肩を掴まれるとそのまま後ろへ引きずり出された。
もう一度その個室に駆け寄ったが、内からは鍵がかけられていた。ブラシで念入りにこする音が聞こえる。
迷っている時間はない。
私は「3」と表示された個室を急いで一つ掃除した後、周りにある小便器に目標を変えた。小便器の多くが「2」だった。
三つ掃除し終えたところでフロアの照明が落ちた。
檻がスポットライトで照らされ浮かび上がり、私たちはそこへ向かって歩き出した。
檻の扉を頭を下げて潜り抜ける。その時、ぐっと、腕に圧力を感じた。
「3 2 2 2」
赤色の数字スタンプが、何色も混じって固まった灰色の腕に上書きされていた。
あと、残された一日の時間の中で、何回掃除する機会が与えられるだろうかと、各々が腕の数字を一心に見つめながら檻に収まっていく。
私の隣の者の腕を横目で見る。数字が一つ。「3」しか押されていなかった。
その数字の淵から爪を立て、「3」を「8」へと自らの血液を使って隠蔽工作しだした。今日のスタンプは赤色のラッキーデイ。
私も過去に「1」を「4」へと変えたことがあるが、あまりお勧めはしない。
決まって傷口が膿んで、数日間は熱が出る。
毛むくじゃらの手が檻の奥に向かってたくさんの包みを放り投げた。
私は群がる同志たちの塊から弾き飛ばされてきた、小さな包みを何とか一つ確保した。
固いパンと、水の入った缶詰が入っていた。
奥の方で包みを巡る争いが起きたが、その者たちは毛むくじゃらの手に掴まれると檻の外へと消えていった。
「ガシャン!」
檻の扉が閉められると同時に、光が反転する。
フロアには再び眩いばかりの光があふれ、檻の中は薄暗くなった。
私は慣れた手つきで、檻のささくれ立った部分を慎重に指先で探る。
水の入った缶詰を傾け、穴を少しだけ開けようと試みた。
ー ー ー ー ー
両手が、私の目の前にあり、弧を描いたその内には何もなかった。
私は目覚めた。
服の匂いを嗅いで安堵する。
現実の世界に、今日も無事に戻れたようだ。
今日は休日だ。
何となく外の空気が吸いたい。
市内の大型の商業施設に向かった。
最寄りの駅のホームでトイレを探す。
清掃員の方がトイレから出てくるところだった。
会釈をして、横を過ぎ去る。
ふと立ち止まり、辺りを見上げて、数字がないかどうかの確認をする。
ー ー ー ー
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