『死と再生』を僕は三日で読了した。

内容はといえば、輪廻転生を中心に据えたものだった。僕は信心深さとは無縁な人間なのだが、それでも知的好奇心は往々にして持ち合わせていて、しかもそれがオカルト染みているとすれば、興味深い内容だったといえる。


人間に限らず、生きとし生けるものには必ず終わりというものがある。

それを受け入れようがそうじゃなかろうが、当然のように生まれ死んでいく。

例えば、僕の部屋にあるテレビにだって、寿命というものがある。壊れたならば、修理に出すか、はたまた新しいものに買い替えるかするだろう。

そのテレビを人間に置き換えると、身体のどこかに不調があったら、病院に行って治療するなり手術するなりする。その結果、死に至ることもあるだろう。しかし、テレビのように替えのきく生命などない。当たり前のことだ。


この世界でどんな名声や栄誉を手に入れたとしても、死というものからは逃れることはできない。

ならば何故人間は生まれて、生きていかなければいけないのか。

この疑問は、生を放棄させるに十分な動機になるといえる。


そこで思う。

死は終わりを意味するのか?


オカルトに疎い人でも魂とか輪廻転生は一度は聞いたことがあるだろう。

そう、身体は死んでも、魂が死ぬことはない。いよいよ胡散臭くなってきたが、それはこの世の真理といっても差し支えない。

だが、それを論文とした学者は数多くいるが、それを証明出来た者はただのひとりもいない。証明終了出来ないものは信じられない。禅問答だな。


僕は思考のチャンネルを変えて、ありすの部屋に向かった。

なーに、ちょっとした雑談に花を咲かせるだけだ。家の外に一歩でも出れば、思春期特有の気恥ずかしさで他人のように振る舞う二人だが、家のなかでは存外仲の良い兄妹なのだ。


と、僕は栞に使っていたメモリースティックを本に挟まず、机の上に置いた。

運命の歯車は、確かに動き出していることも知らずに。



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