8

「本当に白い彼岸花ってあったんだね」

「疑ってた?」

 苦笑いで問うと、結衣はおどけたように肩をすくめた。

「実はちょっとだけ」

「こら」

 こつんと指で彼女の頭をつつくと、きゃーっ、となんともわざとらしい悲鳴をあげた。

 無邪気な表情は愛らしいと言って差し支えない。そんな表情をすぐ近くで見ていると、なにか黒いもやみたいなものが、腹の底でむくりと首をもたげたような気がした。腹の辺りを手で撫でてみると、すぐに収まったように思えた。

 妙な違和感を覚えているあいだに、結衣はまたトートバッグから、今度は臙脂えんじ色をしたハードカバーのスケッチブックを取り出していた。三十六色の色鉛筆と、筆が何本か入ったクリアケースをベンチに並べる。ボールペンの替え芯みたいに水を入れておけるコンバーターが付いた筆で、適度に水を筆先に含ませることが出来るらしい。

 用意が整うと、彼女は「よしっ」と気合いを入れてスケッチブックに描き出した。

 雪彦はその様子を眺め、河原の紅い絨毯に視線を移した。スマホのカメラを起動して遠くまでを画面に納める。シャッターを押す前に画面から目を離した。西の空が次第に青色から橙色に変化していく。この様子だと、夕暮れも見れるだろうか。青空の下で見る彼岸花も見事だが、黄昏時たそがれどきもきっと綺麗だろう。

 ベンチの肘掛けに腕をついてもたれかかり、心地良い微風そよかぜに瞼を閉じる。初秋しょしゅうの風は、夏の終わりの香りも含み少しあたたかく、ついうとうとしてしまいそうになった。瞼の裏の暗がりに、ぼんやりと彼岸花の紅色が浮かんでくる。

 結衣はゆっくりとスケッチブックに色鉛筆を走らせていた。庭先で彼岸花を描いていたときと同じように丁寧に手を動かしている。目に焼き付けるようにじっと景色を見てから、同じ時間をスケッチブックに費やす。たまに色を持ち替えて、細かく描き込む。繊細で鮮やかな筆先が、彼女の見ている世界を写し出していく。まるで魔法を見ているみたいだ。

 ふと思う。こんなふうに熱心になれることを、雪彦は持っていただろうか。

 弓道は続けてきた。小学生の頃に通い始めた弓場に中学まで通い続け、高校、大学で部活に所属していた。技量、実力、センス共に優れていた自覚はあるし、それこそ神楽に近い完璧なまでの型を目指していた。師範代取得の最年少記録は未だ破られていない。けれど、それは雪彦が「本当に」やりたいことだったのだろうか。

 あざ笑うように目の前の紅い花が揺れた。

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