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 目の前に広がる大輪の紅色の華に、結衣も雪彦も言葉なく立ち尽くした。今までに写真やテレビ番組で見たことがないわけでもない。されど百聞は一見に及かず、その光景の中に立ってこそ、自ずとわかるものなのだ。それほどに、真紅の華が絨毯じゅうたんのように広がる景色は美しく、恐ろしかった。それこそ息をするのも忘れるくらい。感嘆かんたんの吐息が互いの口から零れる。

 のどかな里山風景の中、彼岸花がぎっしりと肩を寄せ合って咲いている。矢勝川やかちがわの堤は深紅に染まっているかのように見えた。土曜日だからか、多くの観光人が土手の上を歩いていた。ちょうど明日から『ごんの秋まつり』が開催されるという。祭りを知らせるのぼりがいくつも道路沿いに立っていた。ごん、というのは『ごんぎつね』に出てくるきつねの『ごん』のことだ。

 手洗いで立ち寄ったサービスエリアでの休憩中、サイトで読んだ『ごんぎつね』に書かれた一節が、閃く。


『ひがん花が赤い布のように咲いている』


 まさにその描写そっくりだ。

「……すごい」

 やっとのことで口に出た言葉は、随分とありきたりなものだった。

「すごいねぇ……」

 結衣も同じで、大きく見開いた目を何度も瞬きをしていた。

「これ……ぜんぶ彼岸花?」

「そう。全部、彼岸花だ」

 不意に、小さな手がするっと入ってきて雪彦の指をぎゅっと握った。怖いものでも見るように結衣がぴたりと身を寄せて、それでも目の前の景色を、己の目に焼き付けるようにしっかりと見つめている。

「……どうしたんだい?」

 迷ったように彼女は口を開いた。はくはくと少しの間、唇をわななかせて、聞き取れないくらいに小さな声でこう言った。

「……こわい」

 その言葉が、なにに対して言ったのか、雪彦は聞かなかった。ただ漠然と感じたことだろう。なめらかな彼女の手の甲を、安心させるように親指で撫でた。

 雪彦たちの隣を、家族連れや若いカップルやお年寄りたちが次々と通り抜けていく。彼らは純粋に、この彼岸花の群れの美しさだけに惹かれて見に来ている。彼らには、立ち止まっている雪彦たちはどう見えているだろう。どうしてこんなところで立ち尽くしているのか、花を見に来たんじゃないのか、とでも想っているのだろうか。

「中に入るの、やめる?」

 一応聞いてみたが、彼女にその選択肢はないようだ。すぐさま首を横に振り「ううん、行く」と答えた。

「せっかく来たのに、このまま見るだけなんてもったいないわ」

 雪彦を見上げた目には、既に表現者としての凜々しい光が宿っていた。

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