002
「危ない!」
返ってきたのは質問に対する返答ではなかった。
「うぐっ!」
ばしーんっと軽快な音が体育館に響くと同時に、右頬の辺りに衝撃が走る。
なにが起きたのか頭が理解するのに数秒を要した。
「おい、大丈夫か⁉」
どうやらバレーボールが顔に直撃したらしい。ジンジンとした痛みに耐え切れず、頬を押さえて足をばたつかせる。
「だ、大丈ばない」
痛い。これは痛い。なかなかの衝撃だった。オカンに打たれるぐらい痛かった。
「す、すまん! 三笠!」
真っ青な顔をしたクラスメイトが謝りながら走ってくる。確か名前は錦森だ。様子から察するに、バレーボールを最後に触ったのは彼なのだろう。
「い、いいよ。よそ見してた俺が悪いし」
「って捺月、鼻血出てる」
頬を押さえていた手を見てみると確かに血が付着しており、慌てて鼻を押さえるも時すでに遅し。鼻からぼたぼた垂れた血は真っ白だった体操服を赤に染め、体育館の床に小さな血だまりを作っていた。
「あーあ、何やってんだよ」
両頬を膨らませ今にも笑吹き出しそうなのを必死でこらえる誠一。そんなに他人の流血は面白いかよ。いい趣味してんな。
「三笠、どうした!」
事態に気づいた先生が駆け寄ってくる。
「すいません。顔にボールが当たってしまって。保健室、いいですか?」
「ああ、行ってこい。脳震盪を起こしてたら洒落にならないし、誰か……」
脳震盪を体験したことがないから症状が一体どんなものか知らないが、重たいボールが当たったわけでもないし大袈裟だろう。実際のところ意識はハッキリしていし、痛むのは頬だけ。
「じゃあ先生、俺がついていきますよ」
真っ先に誠一が名乗り出る。
「いや、俺が行くよ。怪我さした本人だし」
申し訳なさそうな錦森が交代を提案するが、誠一は「いいからいいから」と役を譲らず、錦森に床に散った血を拭き取るようにと頼んだ。
面倒ごとが嫌いなくせに、この役を真っ先に引き受けてくれたのは誠一なりの気遣いなのかもしれない。いくら俺に不備があったとはいえ、錦森との関係は被害者と加害者。お互いに気を使ってしまう。そこを考慮した誠一は自分から付き添いに名乗りでてくれたのかもしれない。
なんて希望を持ってみたものの、大塚誠一という男に限ってそんな気遣いできるわけないし、できたとしても実行しないと思い改める。
実際、大塚は体育館を出てすぐに俺を支えていた手を離し、背伸びを始めた。
「いやー、ラッキーラッキー! 俺、バレー苦手なんだよね!」
そんなことだろうと思った。
呆れた顔をした俺を見て、誠一は柔和に笑った。
「ちゃんと保健室までは連れて行くよ。あ、でもできるだけゆっくり行こうぜ」
「早く詰め物したいんだけど」
「じゃあ、ゆっくり歩くのは帰りで」
早歩きで保健室まで来ると、鼻を押さえている俺の代わりに誠一がドアをノックし、返事を待たずにドアを開く。
「失礼しまーす。青葉先生います……か」
一瞬だけ誠一の口が止まった。
保健室にはデスクでパソコン作業をしている養護教諭の青葉先生と、それを横から覗き込む白衣を着た女子生徒の計二人が椅子に座っていた。
誠一は目を少しだけ見開き、まるで何かに驚いたように見ているその視線の先には白衣を女子生徒がいる。
知り合いなのだろうか。白衣を来た女子生徒の方も誠一の顔を見てばつが悪そうにカーテンの裏へと隠れた。
「どうしたの――って、鼻血? ちょっとそこに座ってて」
俺の姿を見て事情を理解した青葉先生は先にティッシュを渡してから濡れタオルの準備を始める。
言われた通り、壁際の診察台に腰を掛けた。
「誠一」
「あ、ああ。なに?」
「片手じゃティッシュ丸められないから手伝って」
「まさせろ」
ティッシュを誠一に渡し、鼻に詰めるため丸めて貰う。それを詰め込むと今度は青葉先生が濡れタオルを持ってきて「動かないでね」と言い俺の肩を掴み、顔や手ににこびり付いた血を拭き取ってくれた。
「えーと、三笠君だね」
先生は体操服に刺繍された名前を見て確認した。
「どうして鼻血なんか出したの?」
「バレーボールが顔に。ちょっとよそ見してて」
「ちゃんと集中して授業受けないと。鼻血以外は大丈夫そう?」
「はい、大丈夫です」
詰めても詰めても滲みだしてくる鼻血の対処に追われながらも、俺は先生の質問に答えた。
頬の痛みはもう消えている。あ、でも気のせいだろうか口の中で鉄の味がする。
「えーと、そっちの君は?」
「俺は、捺月――えと、三笠くんの付き添いっす」
「ボールを当てちゃったのは、君?」
「いえ、俺は違くて。ボールが当たった時、近くにいたから」
「そう。ありがとね。もう大丈夫だから授業に戻っていいわよ」
「……じゃあ、そうします」
いつもの誠一ならなんやかんや理由をこじつけてここに残り、授業をさぼろうとするのだが、あっさりと言うことを聞くと踵を返した。
「じゃあな、捺月」
「うん、ありがとな」
去り際にもう一度誠一は白衣を着た女子生徒の方に視線を送っていたが、白衣を着た女子生徒はその視線におびえるようにカーテンに隠れたまま。
青葉先生もそんな二人を見て苦い表情をしている。
訊いてもいいのか、いけないのか。迷った末に、少しだけ。
「先生、彼女は?」
「あの子は白枦三波さん。君と同じ一年生」
言われて見てみれば、確かに履いている上靴の色は青だった。
この学校は学年ごとに学年カラーがあり、一、二、三年生の順に青、緑、赤となっている。それは例えば体操服の刺繡の色だったり、上靴の色だったりと、一目で学年が分かるようになっている。
「ちょっとズレてるところもあるけど、とてもいい子よ」
カーテンの隙間から顔をのぞかせる白枦さんに青葉先生は微笑む。
「いつまでもそんな所にいないで、出てきたら?」
「先程の男からジャミングを受けた。そのせいであっちの世界との通信が途絶えてしまった。危険」
「あの生徒のこと、知ってるの?」
「…………」
首を振るでもなく、ただ俯く彼女の表情はやはりどこか怯えていて、ジャミングだとか通信が途絶えただとか、なにかを比喩しているのか、意味の分からないことを言っていた。その中で確かなことを上げるのならば、誠一のことを危険と言ったということだ。
誠一も誠一で、彼女を見た時の反応は驚きだけでなく複雑な感情を孕んでいるように見えた。二人が一体どのような関係でどのような過去を持っているのか、気になるところだが安易に訊けるようなものではなさそうだ。
鼻血が収まることなくチャイムが鳴った。そもそもボールが顔に当たった時点で授業は終わりに差し掛かっていたため、初めから体育館に戻れることはないだろうと踏んでいた。
少しして、着替えを錦森が持ってきてくれた。その際に俺と錦森は青葉先生から当時の状況について説明を求められた。
報告書らしきものを書かなければいけないらしい。自分のせいで仕事を増やしてしまったことに深く反省。
教室に置いてある教科書などの荷物を錦森に鞄に詰めて持ってきてもらい、ホームルームはふけることにした。
その頃にはもうゴミ箱にティッシュが追加されることはなかった。
錦森が出入する間、白枦さんは保健室と扉で繋がっている隣の生徒相談室に身を潜めていた。
鼻血が止まった矢先、保健室にいてもやることない。
扉を開いて、生徒相談室にいる白枦に話し掛けてみる。
「白枦さん」
「……」
「白枦さんってば」
反応のない彼女の肩を叩くと、体が跳ね上がり耳から何かを引っこ抜いて臨戦態勢をとった。
「ご、ごめん。――イヤホンしてたんだな」
彼女の手に握られたレッドのイヤホン。何を聞いていたのかは分からないが、離れていても微かに音が聞こえる。それなりの音量で聞いていたようだ。
「白枦さんって、何組?」
「どうして?」
「教室に戻らなくていいのかなって」
「いい。あそこは私のいるべき所ではないから」
「そうなのか?」
「そう。あそこにいるホモサピエンスどとも私の受信している電波の波数が違う。よって分かり合えない」
ホモサピエンスって。やはり彼女の話す言葉は意味不明な箇所がところどころに見られる。
さっきも、ジャミングがどうのこうの言っていた。もしかして彼女は中二病というやつなのだろうか? 中二病ってもっとこう、格好が奇抜で、眼帯してたり包帯巻いてたりするものだと思っていたが、それはアニメや漫画の見すぎというやつなのだろうか。
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