三、誘い

祭囃子が、聞こえる。

その音は諏訪神楽すわ かぐらをひどく苦しめた。

今でもはっきり思い出せる。

祭特有のごちゃごちゃした雰囲気と、オレンジ色の提灯の明かり。

お面の屋台の前、彼が手に持っていた紅いりんご飴。紺色をした甚兵衛姿の、自分より少しだけ小さな背中と、友人と笑いながら話しているその様子まで。

「神楽!」

毎日のように聞いていた自分を呼ぶその声を、こんなにも懐かしく思う日が来るなんて、思いもしなかった。


ピンポン、と玄関のチャイムが鳴った。

ソファに寝転び、ボーッと天井を眺めていた神楽は起き上がる。

随分と長い間寝転がっていたせいか、曲げた首がゴキゴキという音をたてて鳴る。

カレンダーの日付を見ると、その来訪者が誰なのか、大体の見当がついた。

玄関へ向かい、ドアを開けると、そこにはひょろりとした体躯の少年が一人、夕陽を背にして立っていた。

「こんにちは……って、もうこんばんはの方がいいかな。」

そう言って、気さくな笑みを浮かべる彼の名前は梅宮凪人うめみや なぎひと

神楽の友人である。

数少ない村の子供たち同士は大抵、皆仲が良いのだが、その中でも神楽にとって凪人は格別親しい友人と言っていいだろう。

彼の出身はこの村ではないが、幼い頃に他所からこちらへ引っ越して来たのだ。

同い年ということもあり、気心も知れている。

その和やかな雰囲気にあてられて、神楽は少しばかり笑みを返すが、またすぐに表情を曇らせた。凪人に尋ねる。

「まぁ、聞くまでもないだろうけど……祭の誘い?」

すると彼は少しばかり目を泳がせた後、控えめに頷いた。

「……うん、そう。」

神楽はやっぱり、と心の中で呟いた。

「…………」

二人の間に酷く気まずい沈黙が流れる。

涼しい風が吹いてきて庭の草花をさらさらと揺らし、神楽の足元にもその先端が触れた。

少しくすぐったい。

「……ごめん。」

先に沈黙を破ったのは、神楽の方だった。

「やっぱ、無理……」

行けない、と、神楽はか細い声でそう口にした。

「……」

凪人が一瞬だけ何か物言いたげに口を開きかけたが、すぐにつぐむ。

そして、何でもない風に首を横に振った。

「……うん。大丈夫、気にしないでよ。」

そう言って笑う凪人は、本当に優しい。

しかし、目の前の友人の顔にほんのわずかながら滲んだ心配の色を見てとった神楽は、胸をきゅっと締め付けられる思いがした。

「本当、ごめん……」

泣きそうな思いで声を震わせると、凪人が慌てる。

「いいって!いいって!寧ろこっちの方こそ、毎年しつこく誘いに来て……ごめん。」

僕も相当無神経かも、と、彼は悲しそうな声色で言った。

「でも本当に、このままじゃ神楽君、一生気に病んでいそうで心配で……あの日の事、気にするなって言っても難しいと思うし……あぁ、実際のところ僕もかなり引きずってるから人の事言えないね。けど、神楽君がそこまで責任感じる必要もないって、みんな言ってる。だから……」

涙でうっすら歪む視界の中、神楽はこっくりと頷く。

「わかってる……」

それを聞いて、翳っていた凪人の表情に少しだけ明るさが戻った。

神楽は凪人に向かって、もう一度頷いてみせる。

「わかってるから……それでも、祭は……」

すると、目の前の友人はそれ以上言わなくていい、というように至極穏やかな調子で自然と神楽を制した。

「大丈夫。それだけ伝わってれば十分。」

「……うん。」

神楽は、そんな彼の気遣いを有り難く思う。

凪人はそれから神楽と少し話した後に諏訪家を立ち去っていった。

「それじゃあ、またね!」

神楽はそれを手を振って見送る。

「…………ふぅ。」

凪人が帰ったその後で、神楽は大きく息を吐いた。まだ胸の奥にわだかまる気持ちは一旦保留する。折角凪人が追い払ってくれようとしているのに、自らそれに振り回されにいく道理はない。

凪人の他にも、神楽を気にしてくれている人がこの村にはたくさんいる。

俺は、周囲の人達に恵まれた。

その事に、神楽は少しだけ気分を軽くする。

夕方になってしばらくたつが、盛夏の太陽はまだ沈んでいなかった。

「……ごめんな、ノリト。」

神楽はそっと呟くと、玄関のドアを閉めた。


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