一、祖母の夢

祭囃子が、聞こえる。

日吉穂乃ひよし ほのは今、暗闇の中に一人ぽつんと立っていた。

目をこらせば、そこがどうやら伝統的な日本家屋の廊下らしいということがかろうじてわかる。

さて、ここはどこか。

段々と目が慣れてきた頃、その答えが出た。

そこは祖母達が住む場所、穂乃の父がかつて暮らしたという芽吹村めぶきむらの家だった。穂乃も夏休みや冬休みを利用して、何度か遊びに来たことがある。

では、何故急にこの場所が穂乃の夢に出てきたのか。

遠く聞こえる祭囃子は、先程から途切れることなく延々と響き続けている。

穂乃は廊下を進む。

真夏だというのに、この家の廊下はいつでも涼しかった。

ふと、以前この場所を訪れた時のことを思い出す。自宅から遠く離れたこの土地に来るのは、一体いつぶりだろうか。ここ数年は、忙しくて全然来られていなかったのだ。芽吹村に来るためには、穂乃の家から駅まで行き、途中バスや新幹線を乗り継いで、山をいくつか越えないといけない。

夢の中とはいえ、久しぶりに訪れる祖母の家に、穂乃の気分は高揚した。

祖母の部屋の前までやって来た時、穂乃はふと足を止めた。

中から微かに物音がする。

穂乃は恐る恐る襖に近寄り、耳をそばだてた。時折、布団のようなものの中で、何かがもぞもぞと身動ぎしている音も聞こえる。

「そこにいるのは穂乃ちゃん?よく来たね。おばあちゃんよ。」

祖母の声がした。

もしこれが怪談話の世界だったのなら、彼女が襖を開けた瞬間、中から飛び出してきた奇怪な化け物に襲われるだの、殺されるだのといった風に、碌な結果にならないのが定石だ。

しかし、ゆっくりと襖を開けた穂乃を迎えたのは、布団をかけて寝転がったまま、にこにこしている祖母本人だった。

頭のツノも、牙も生えていない。

布団もちゃんと人間の体のかたちに盛り上がっていて、首から下が無いわけでもなさそうだ。

それでも一応警戒していると、祖母が布団から腕を出し、おいでおいでという仕草をした。

穂乃は祖母に一歩近づく。いざとなったらすぐ逃げられるよう、襖は閉めないでおいた。

「穂乃ちゃん、しばらく見ない間に大きくなったねぇ。」

すっかり別嬪さんになって、と、心底嬉しそうな様子の祖母。ちなみに穂乃は世間一般的に見て、特別美人ではない。しかし、いくら身内贔屓の褒め言葉とはいえ、祖母が穂乃に対してお世辞や嫌味を言う筈もないのに、その言葉を素直に受け取れない自分がいた。

「はは、そうかな。」

曖昧な笑みを浮かべつつ、穂乃は適当に相槌を打つ。

それにしても、なんだろう、この夢。

穂乃は少し眉根を寄せた。

夢にしては景色や祖母の言葉がどうもはっきりしているし、感覚もリアルだ。不思議である。

それからしばらくの間、穂乃は祖母に求められるがままに近況報告をしたり、他愛もない話をしたりした。

祖母は穂乃が両親と共にここへ帰省する度、毎度孫の彼女とたくさんしゃべりたがる。話すのは別にいいけど、そんなの聞いて何が楽しいの?と話題を作る側の穂乃が疑問に思うような大したことない話も、祖母は喜んで聞いていた。

普通に祖母の家に遊びに来た時と、なんら変わりのない会話。

それでもって、余計に何故自分がこんな夢をみているのかわからなくなってきた頃。

祖母の表情がふと揺らいだ。

穂乃の話が途切れた頃を見計らって、今までずっと話を聞いていた彼女が突如切り出した。

「あのね、穂乃ちゃん……ちょっと聞いてくれる?」

いつになく深刻な雰囲気に圧され、穂乃は黙って頷く。

ありがとう、と祖母が一言礼を言った。

すぅ、というような静かな呼吸の後、祖母がにっこりと笑った。

「あのね、おばあちゃんね……もうすぐ死んじゃうの。」

一瞬の間。

何を言われたのかが理解できなくて、穂乃は固まった。

「……え、え?」

今なんて?

穂乃が聞き返そうとした時、祖母がまた笑って言った。

「それでね、おばあちゃんは最期に穂乃ちゃんにお願いしたいことがあって、夢の中の穂乃ちゃんを、こっちに連れてきちゃいました。」

……意味がわからなかった。

穂乃は接続の遅いパソコンよろしくグルグルと、頭の中で延々と祖母に言われた言葉を繰り返していた。

「……待って。本当に?本当に死ぬの?」

祖母はこくりと頷く。

パニックになりかけた穂乃ははっとした。

いや、待てよ。冷静に考えろ。

これは夢。文字通りの悪夢だ。

おばあちゃんの体調が悪いなんて、そんなの一言も聞いてない。だいたい、そんなに危ない状態なら、芽吹村に住む他の親族から連絡がある筈。なのに、電話の一本もないのは流石に変だ。おかしい。このおばあちゃんの言うことは信用できない。

穂乃がそう思っている間にも、祖母は続ける。若干口調が早口になった。

「それで、お願いなんだけどね、穂乃ちゃんには私の代わりに、私のお友達に会って欲しいの。」

それがあまりにも予想外の言葉で、穂乃は耳を疑った。

「え?なに?」

物分かりの悪い穂乃に、祖母がもう一度繰り返す。

「穂乃ちゃんに、私のお友達に会って欲しい。」

「それはいいけど……なんで?」

祖母がわざわざ自らの友人を孫に会わせたいなどと思うだろうか。気になった穂乃は、一応お願いの内容を聞いておくことにした。

「私、あの子と喧嘩した後、謝れないままここまで来てしまって。ちゃんと謝罪の手紙は書いたの。そこの棚の上から二番目の引き出しの中に入ってる。それをあの子に渡して欲しい。」

祖母の表情は真剣だ。

穂乃は思わず息を飲む。

「こんなこと頼んでごめんね。でも、私はもうあの子に会えないの。穂乃ちゃんなら、きっとまだ大丈夫。お願い。おばあちゃんの頼み、聞いてくれる……?」

丁度その時、外に見える山の頂から、朝日が昇ってくるのが見えた。

祖母が明らかに焦りはじめる。

「大変、時間がない。穂乃ちゃん!」

穂乃は切羽詰まった様子の祖母に急かされ、慌てて頷いた。

「うん、わかった。」

その瞬間、目の前がパッと明るくなる。

眩しいほどの光の中、最後に穂乃が見たのはほっとしたような、穏やかな表情の祖母の顔で。

「ありがとう。」

薄れる意識の底、そんな言葉が彼女の耳に届いたのだった。




















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