4章 折鶴祈祷
1
からん。
先ほどまでたっぷり入っていたアイスティーのグラス。これまたたっぷり入っていた氷の、溶ける音がした。
氷が溶けて、涼やかな音を立てる。その瞬間を見るのが、最近の義弟の習慣だ。本日も彼は、ダイニングテーブルで空のグラスを前にして、肘をついてじっとその瞬間を待っていた。この時間だけ、雪彦は彼の気を引こうとしない。庭に猫がいるよ、とか、今日の晩ご飯なにがいい? とか聞いても無駄だ。近くに人がいることを完全に忘れているみたいに無言でグラスに向き合っている。
その反対側の椅子に座って、雪彦は図書館から借りてきた文庫本を開いていた。目の前には嵐志と同じグラスに入ったアイスティーがあるが、こちらはまだ半分くらい残っている。添えたミントから清涼がすぅっと香った。網戸から吹き込んでくる風の音。付けっぱなしになったテレビの音。遠くから耳鳴りみたいに聞こえてくる蝉の声。電気代節約のために薄暗くしたダイニングは、まるで別の世界に来たみたいな雰囲気だった。
あのひっそりとした小旅行から戻ってから、嵐志はどこからか大量のアルバムを出してきて、いそいそと整理し始めた。それからなにを思ったのか、カメラが欲しいと言い出した。今の時代、携帯から写真を撮ることだってできるのに、わざわざ貯めてあったお年玉を崩して、次の日には一眼レフを買ってきた。義弟にしては高額な買い物だ。それをセッティングからファインダーの調子まで、全て彼自身で行う様子は、まるで狩人が銃の手入れをしているみたいに見えた。
以来、家にいるときも彼はカメラを向けることがあった。例えば庭に咲いた向日葵とか。そこらで見かけた野良猫とか。姉の愛衣の執筆風景とか。妹の結衣の浴衣姿とか。雪彦も被写体になることがある。でも、なにが嵐志の琴線が触れるのか、いまいち掴めない。
そして今もまた、彼の腕の横には一眼レフが堂々と鎮座していた。
からん。
二回目。
それと同時に、テレビからチャイムの音がした。その途端、嵐志が ばっ とグラスから顔を上げた。伸びっぱなしにしている襟足が猫のしっぽみたいに跳ねた。何事かと雪彦もテレビを見る。それから「あー」と義弟の声が漏れるのを聞いた。
「そっか。今日……だったね」
雪彦の呟きに嵐志は答えず、ただ食い入るようにテレビを見つめていた。画面には黙祷する人々。テレビのテロップに『終戦から七十五年』とあった。
八月十五日。
今日は、終戦記念日だ。
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