9
水の中に浮かんでいるみたいな、そんな浮遊感があった。陽炎が揺らぐ時みたいにぼんやりした感覚があ身体中のそこかしこにあって、頬や指先や膝小僧や足の爪先に至るまで、全てが曖昧だった。息苦しくはなかった。ただ少し、身体が熱かった気がする。
不意に水中から出るように意識が浮かび上がって、扉を開くように瞼を持ち上げる。まず目に入ったのは光の粒。燦、と太陽の光が直接目に入って、灼けるみたいに眩しくて瞬きを数回した。それから次に見えたのが義弟の横顔だった。どうやら嵐志に膝枕をされているようだった。下から見上げた義弟の表情は優れなくて、どこかぼんやりと遠くを見ていた。雪彦が目を覚ましたことに気づいていないらしい。
そっと、手を持ち上げて指の先で彼の頬に触れた。彼の頬は火照っているのか熱かった。彼は声も上げずに、でも肩をふるわせて雪彦を見た。怖がらせないよう、雪彦は柔らかく笑みを浮かべる。
「………見つけた」
「ゆき兄、」
「……無事でよかった」
嵐志はなにか言おうと口をぱくぱくさせていたけれど、結局なにも言わなかった。なにか行ったのかもしれないけれど、蝉の声がまだ大きく響いていて、雪彦には聞こえなかった。
「叩いてごめんね」嵐志の左頬をゆっくり撫でる。「痛かったろ?」
「痛くない」
「ははっ、嵐志くんは強いからなぁ。そう言うと思った」
嵐志の表情が一層くしゃ、と歪んだ。雪彦の手に自分の手を重ねて「叩いたゆき兄の方が、痛いんじゃないの?」と撫でた。優しい手つきだ。
「そんなことない。俺は、まず君を裏切ってしまった」
雪彦は瞼を閉じた。
「でも、それくらいのことを君がしたんだってことは、わかるかい?」
嵐志はこく、と首を縦に振った。彼の左手を確認する。傷はくっきりと残っているものの、血は留まっていて瘡蓋になっていた。それでも手首に付いた一筋の傷は、どんな怪我よりも痛々しい。左手を取って、雪彦は瘡蓋を親指の腹でなぞった。んっ、と微かな呻きが上がる。
「本当に、死んでしまうかと思ったんだよ」
吐息にも似た声で「ごめん」と苦しそうに嵐志は言った。表情が陰って、上手く見えない。でも泣きそうなのはわかる。雪彦だって泣きたかった。泣きたくても、いつか泣けなくなる時が来る。哀しいことが当たり前になって、それが続いて、続いて、心が壊れていく。夏の光に灼かれるみたいに、その感情が消えてしまう前に。哀しいことは当たり前じゃないってことを、覚えておかなければいけないんだ。
「お願いだから、」
涙が出ない代わりに全てが声に詰まって、震えていた。
「もうあんなことしないで、愛しい子」
そっと、傷に唇を寄せた。
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