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カンカン帽も被らずに外に出る。暗い部屋から眩しい日差しの中に出たせいか、一瞬くらりと
「……あつ、」
流れる汗を手の甲で拭った。
不思議の国のアリス症候群、という言葉を思い出した。なんでも、知覚された外の世界の、物体の大きさ、あるいは自分の身体の大きさが通常とは異なって感じられる、ある種の奇病らしい。『不思議の国のアリス』で薬を飲んだアリスが大きくなったり小さくなったりするエピソードに因んで名付けられたという。
顔を上げて辺りを見回す。山がはっきりと見て取れる。畑が広がる景色の中にも嵐志の姿はなかった。簡単に見つからないのはわかっている。義弟は昨年、高校一年で国体に出場した経験もある陸上部の現役エースなのだ。飛び出して、簡単に足を止めるはずがない。
それでも探さなきゃ。嵐志は、雪彦が探してくれるのを望んでいる。なんとなく、そんな気がするのだ。嵐志は一人になりたいのと、誰かに寄り添って欲しいのとでない交ぜに成り、その衝動からなのか、どこかに走り去ってしまうことがあった。そんなときは、雪彦が、もちろん実兄の大樹も、探して見つけて連れ戻すのだ。
「嵐志くーん!」
声の限り叫んでも返事は帰ってこない。この短い間に、嵐志はずっと速いスピードで遠くまで走り去っている。
どこかに行った嵐志を探し出すのは、雪彦には至難の業だ。言うなれば風を追いかけているみたいなものだ。『不思議の国のアリス』にでてくる白ウサギを追いかけるのがまだ楽なような気がする。
胸の辺りが変につっかえている。喉に手を当てて雪彦はゆっくりと深く呼吸をした。吐いて、吸って、また深く吐き出すと酸素が充分に行き渡っていくのが感じられた。夏草の青い匂いと、アスファルトの焦げた匂いと、湿った土の匂いが混ざって、たっぷりと肺を満たしていく。
いっそ、アリスのように不思議の国に迷い込んだような、そんな突飛ない可笑しなことになればいいと、どこかで思っている自分がいた。夏は人をおかしくさせる。夏は全て狂わせる。
それにしてもこの広範囲だ。探すのに時間が掛かるのは目に見えている。それでも雪彦は走り出した。からころと下駄が音を立てる。じゃり、と下駄の舌で砂が嗤った。
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