6

 冷たいフローリングに倒されたまま、雪彦はゆっくり瞬きを数回した。頭を動かすと、ごり、と床と擦れる音がする。不意に視界がうっすらと滲んだと思えば、目尻から熱い雫が一つ、勢いよく流れた。

 やってしまった。

 寝返りを打つように体勢を変え、手のひらを見つめた。

 やってしまった。

 手が微かに震えている。情けなさ過ぎる。

 嵐志にを、叩いてしまった。それだけではない。裏切ってしまった。彼がどうあれど、自分の態度は変わらないと、変えないと言ったのがついさっきだ。自分が言ったことも忘れて、衝動的に嵐志に手を上げて、傷つけてしまった。

 押し倒されたとき、嵐志の表情は陰っていてよく見えなかった。でも「嘘つき」と叫んだ声が痛々しく震えていたのはわかった。あれは痛みの痙攣ではない。怒りと悲しみが入り交じった、もっとどろどろした渦だ。

 手のひらが灼けたみたいに痛い。痛いのは叩かれた側だけじゃなくて、叩いた側だって痛い。でも、叩かれた側の方が圧倒的に痛いのだ。だから、嵐志の方がもっと痛いはずなのだ。

 守ってやるべき子だ。彼はまだ十七歳。まだまだ親に守られて然るべき愛し子だ。

 そして彼は優しすぎる。あんなことをした理由は雪彦でも少しは見当が付く。きっと、理解したかったんだ。亡くなった友人が、どれほどの痛みを体験したのか。自分はどの程度耐えられるのか。どこまで行ったら、死んでしまうのか。遥は嵐志の大事な人の一人だ。理解できなかったら、二度と友人と呼べないとか思っているのかもしれない。俺は死ななかった、と笑い飛ばしているかもしれない。

 でも、と雪彦は手のひらを握りしめた。一瞬、本当に彼が死んでしまうかと思った。赤い血が腕を流れて、その腕が少し色が抜けて見えた。変わっていってしまう嵐志が、怖くて、哀しく見えたのだ。夏は嫌いだ。晴れやかに青空を見せて、その彼方に大事なものをしれっと奪い去っていく。理不尽で、でも為す術がない。

 大樹の弟だから大事なんじゃない。既に嵐志個人で雪彦の大事な人になっているのだ。少しずつ、雪彦の中で大きく存在している一人だ。

「………ごめんなさい」

 謝罪は蝉の声にかき消された。

「………それでもどうか、」

 熱い雫が零れてやまない。

「………どうか生きて、愛しい子」

 自分の声も聞こえないくらいに、蝉の声がやかましく響いている。直接言わなきゃ伝わんないよ、とでも言われているみたいだった。

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