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 ほろほろとビー玉みたいに雫が転がって嵐志の黒いTシャツに染みを作っていた。 

「母さんがさ、向日葵を育てていたんだ」

 泣いていることもわかっていないみたいに嵐志が静かに話し出した。

 彼の母は花を愛でる人だと聞いた。季節の花を庭に植えて世話をしていて、一之瀬家の庭は小さいけれど賑やかだった。雪彦はその庭を見たことがない。その前に、彼らの母親は亡くなってしまっていた。

「母さんが入院してから、庭に花が咲かなくなった。俺は、向日葵一つしか咲かせることができなかった。大事なものは、一つだけあればいい。そう思っているけど、実際はそうはいかないんだもんなぁ」

 その声に涙色が混じる。

「だってさ、こんなにたくさん会ったら、想いが散らばりそうで、怖いんだもの。同じものの、ありふれた一つになりそう」

 あぁ、と雪彦は思った。『星の王子さま』と同じだ。違っているのは、王子さまはありきたりなバラの存在を知らなかった。嵐志は敢えてありふれた向日葵から目を逸らしていたこと。

 ひっく、としゃくり上げ始めた。どうした? と聞くと嵐志はただ首を横に振った。

「わかんねぇ、なんで、なんで止まんねぇの?」

 どうやら嵐志は、感情の高ぶりが涙になって現れるタイプなのかもしれない。日よけに羽織っていたストールの裾で、べしょべしょになった嵐志の顔を丁寧に拭ってやった。

「だって、だってっ、大きすぎて、なんかわけわかんない。全部向日葵に持ってかれて、なにも考えられなくなるっ」

「……いいよ、なにも考えられなくなっちゃえ。今は夏だ。全部おかしくなって、狂っちゃっても問題ない。夏は人をおかしくさせる」

「……ゆき兄、ずるい」

「なにが」

「そうやってすぐ甘えさせようとしてくる」

「甘えたくない?」

「甘えたくない」

 口ではそう言っているけれど、両手で雪彦の服をぎゅっと握って離そうとしない。親猫とはぐれた子猫みたいに震えている。背中をさすってやると、肩口に顔を埋めてきた。震えた声で怖い、と小さく耳元で囁かれた。

 大丈夫、そうやって自分の感情を、知らなかったものを一つずつ知っていくんだ。そうやって、自分をわかっていくんだ。わからなかったことがわかったんだから、それは君の立派な成長だ。君の大事な向日葵も、必ず咲くからさ。

 夏陽が傾きかけている。見下ろしている二人なんか知りもしないで、向日葵はずっと太陽を見つめていた。芳しい風が強く吹いて、向日葵の海をまた大きく揺らしていった。

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