第171話 第五部 第三章 1 危機感
部屋の中にはなんとも気まずい空気が漂っていた。
メアリもシエルもピリピリしている。
ネズミの死骸が投げ込まれたことで、わたしも初めて危機感を覚えた。
それまでは狙われている自覚もあまりない。
事前にラインハルトやメアリが手を打っていたせいもあるかもしれないが、向こうも目立つようなことは避けている感じがあった。
あまり危険を感じない。
しかし、今回はなりふり構っていなかった。
噂になってもいいと思っているようだ。
暢気なわたしにも状況が不味いのはわかる。
結婚式までの2ヶ月より、むしろ今の方か危うい気がした。
(こういうのって、エスカレートしていくものだしね)
ネズミの次は猫とか犬が定番だろう。
どちらも、わたしは嫌だ。
そうなる前に手を打たなければと思う。
ラインハルトの帰りを待って、きちんと話しをしようと決めた。
アントンを呼ぶ。
やってきたアントンに悲鳴を上げたメイドをどうしたのか尋ねた。
「お茶を飲んで落ち着いたので、先ほど、仕事に戻しました」
アントンは答える。
王宮のメイドをいつまでも引き止めることは出来ない。
適切な判断だろう。
「口止めはいたしましたが、おそらく、無駄だと思います」
苦く笑った。
気持ちはわかる。
わたしも同じことを考えていた。
「そうね。人の口に戸は建てられないものね」
納得する。
噂が広まるのは時間の問題だろう。
「このことをラインハルト様には報告した?」
アントンに確認した。
「いえ、まだです」
アントンは首を横に振る。
「迷っていました。知らせれば、仕事を放置して帰ってきてしまう気がしまして……」
微妙な顔でわたしを見た。
「そうね。わたしもそう思うわ」
わたしは苦く笑う。
「知らせるのは、終業時間ギリギリにしましょう」
そんなことを相談している間に、ラインハルトは帰ってきてしまった。
メイドが慌ててわたしを呼びに来る。
「旦那様がお帰りです」
その言葉にソファから立ち上がると、迎えにいく前にラインハルトの方が部屋に入って来た。
「マリアンヌ」
いつになく大きな声でわたしを呼ぶ。
驚いていると、つかつかと近づいて来た。
そのままわたしを抱きしめる。
「無事で良かった」
安堵の息を漏らした。
抱きしめた腕に力が篭る。
(苦しい)
ラインハルトの腕の中ででわたしは身じろいだ。
シエルやアントンが苦笑しているのがわかる。
「わたしには何もないので、大丈夫です」
わたしは答えた。
「それより、ラインハルト様は何故ここに?」
帰宅の理由を確かめる。
噂を耳にするとしても早すぎると思った。
「さっきメイドがやって来て、話しを聞いた」
ラインハルトは答える。
どうやら、メイドは仕事に戻ったその足でラインハルトのところに向かったらしい。
ネズミの件を報告したようだ。
「マリアンヌを心配していたよ」
その言葉に、メイドのその行動が善意であることをわたしは知る。
「わたしに実害はないので、大丈夫です」
答えながら、ぐいぐいラインハルトの身体をわたしは押した。
放してアピールをする。
ラインハルトは素直に放してくれた。
わたしは一歩、後ろに下がる。
「だから、仕事に戻ってください。そして帰ってきたら、みんなで話しあいましょう」
わたしの言葉に、ラインハルトはきょとんとした。
「みんなで?」
首を傾げる。
「みんなでです」
わたしは頷いた。
「2人で考えてわからないことでも、みんなで考えればわかるかもしれません」
にこりと笑う。
「……」
ラインハルトは複雑な顔をした。
わたしには知らせずに片を付けたかったのだろう。
だがわたしはそんなこと望んでいない。
「わたしに知らせずになんとか片を付けたかったのかもしれませんが、そんな気遣いは無用です。自分のことですから、自分でも考えます」
きっぱり宣言したわたしに、ラインハルトはため息をついた。
やれやれという顔をする。
「なんであれもこれも一度に……」
ぼやいた。
「そんなの当たり前じゃないですが」
わたしは笑う。
「トラブルが順序良く、一つ一つやってくるわけがないでしょう? 悪いことは重なるものです」
当たり前のように言うわたしに、ラインハルトはふっと息を吐いた。
「わかった。帰ったら、話し合おう」
納得する。
そこにラインハルトより一足遅れてルイスがやってきた。
ラインハルトを連れ戻しに来たのかもしれない。
そんな顔をしていた。
ラインハルトはルイスを振り返る。
「仕事に戻る」
そう告げた。
「?」
ルイスは少し驚いた顔をする。
おそらく、ラインハルトは無理矢理仕事を抜けてきたのだろう。
戻ると言われて、ルイスが安堵したのがわかった。
(ルイスもいろいろ大変だな)
他人事のように、わたしはそう思う。
ルイスの大変なことの大半は自分関連であることにはあまり気づいていなかった。
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