昨日の薬指 10
神谷鞘が花子先輩と慕う女は今、事故賃貸物件案内所にいる。
作業着を着たまま、案内所の中で特に何かをするでなく、意味もなく引き出しを開けてみたり無意味な時間を過ごしている。
「ちょっと面白かも。」と物語る目は、怠そうに煙草をふかしながら御札を書く篠崎を見据えている。
足音をたてないよう、すり足でそっと篠崎の側に立つ。
顔が笑っているのは、これから起こるであろう事に期待を膨らませているからだ。
「ねえねえねえ、あさひちゃん。今日は杉原君の家に行ってきたよ。」
篠崎が筆先に神経を集中させている事なんて構うことなく、自分がそうしたいから話し掛ける。
「そうですか。」
篠崎はどうでもいい事だと素っ気なく答える。
花子は筆先が僅かに震えたのを見逃さなかった。
やっぱり面白いと更に畳み掛ける。
「この姿の私だと緊張しちゃうみたい。いつもみたいにちょっと触っただけなのに耳まで真っ赤にしちゃってさぁ。」
目を細めてじっくりと篠崎を観察する。
吐き出される紫煙の空間を占める割合が明らかに大きくなった。
やっぱり篠崎に杉原の話を振るのは鉄板だと、花子は心の中でガッツポーズを決める。
「杉原君、優しいんだよね。」
声のトーンが落ちる。からかうのでなく素直な感想を述べる。
「私が言うのもあれだけど、それが彼の天与の質なのね。」
花子は手をぐっと握ったり広げてみたり。段々と鈍くなっていく。
花子は充分楽しんだし、そろそろいいかと。本当は最後の一言を言いたかっただけだ。
「寝る前に言っとくけど、あさひちゃん。もう少し彼に心を開いてもいいんじゃない?前よりもずっと制御出来るんでしょ?」
花子は床に寝転ぶと、黒と茶の虎柄の犬の姿になった。
満足そうに眠っている。
篠崎は考える。
これからの杉原への接し方を。どこまで制御出来るのかと。
「あっ、耳出てるよ。」
二人の会話を見守っていた小田が、篠崎の頭を指差して漏らす。
困惑と怒り半分ずつ顔をした篠崎に睨みつけられて「あっ、失言だった。」と、小田はパソコンに向かって仕事をしている振りを続けた。
レディは事務所で一人、すっかり冷めてしまったコーヒーを啜る。
当たり前だがティンカーの淹れたコーヒーは、いつ飲んでも美味しい。
飲むのを促す為に、誰が飲んでも完全にそれぞれの好みに合うよう作られているからだ。
「食べている時が一番無防備になる。か。」
あかりが半分飲み残したコーヒーカップを、レディは傾けてゆく。
カップから零れたコーヒーが、机の上で文字らしき物になり、白い煙を出して蒸発してゆく。
「やたらとあかりがスムーズに話してくれると思うたら、やっぱり仕込んどったか。」
あかりはレディに心を開いて話したつもりでいるだろう。
実際はコーヒーの姿をした呪文を飲み込み、心の内を独白していたのだ。
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