昨日の薬指 9

本日の外での仕事を終えて店に戻ると、花子先輩は私に日報を押し付けて早々に帰っていった。

「だって実際に働いているのは鞘ちゃんでしょ?なら、鞘ちゃんが書かなきゃ。」って笑顔で。

「いやいや、あなたが働かないから仕方なくであって」と、反論しようにもいつの間にか消えていた。

 花子先輩の最大の謎。比喩でなく本当に神出鬼没。ちょっと目を離した間とかほんの十秒の間でとかではない。

最速で居なくなったのは、瞬きしたら目の前から。

 考えれば考える程に、花子先輩が人間では無い事を肯定するエピソードの端がいくらでも浮き上がってくる。

なら私は人間で無い者と仕事をしているのか?そんな不可思議な事があってたまるかと、発注書の控えや参考書なんかが散らばる机上の僅かなスペースを使い、日報を書き始めた。


雑居ビルの1階まで依頼人のあかりを送り届けると、レディはさっきまで向かい合って座ってソファに再び座り、ぼおっと天井を見つめる。

 話をじっと聴いていたので部屋を出るまで気が付かなかったが、地面に落ちても音がしない細かい雨が降っていた。

外の寒さを意識し始めると、暖かい室内でもどこか寒く感じるものだ。

寂しさを紛らわせる為にもいつもなら「ほんなら一杯呷ろう。」と、なるのだが今のレディはいつもとは違う。

 思い出している。初めてあられと会った日の事を。

 10年前の夏。ライトニングはんと一緒に仕事であの公園から篠ちゃんを連れ出した時、ひとつの教訓を得た。

「怪異を事を知る。」

今から考えてみれば当たり前の事や。

怪異は怨念や思念から生まれる物で、事前に調べておけばこちらが有利に立ち回れるというもの。

あの異界と化した公園から無事に脱出できたのは正に奇跡。

ならば資料を集めようと図書館へ向かった。

 真夏のじっとしているだけで身体じゅうにフライパンの上のホットケーキ生地のようにぷつぷつ穴が空いて、そこから汗が吹き出す。

靴底にアスファルトの熱が篭もっていく。

そんな炎天下でも、真冬の装いをしていた。

図書館の玄関前で、じっと俯いて動かない。

「こんにちは。何しとんの?」

声を掛けたのは唯の気まぐれだった。

いや、思い返せば気まぐれなんかでなく、見なかった事に出来なかったんや。

図書館の利用者はそこそこ多い。それなのにあられに気付く人は居らず、あられ自身も気が付いてもらう事なんてもう諦めた。そんな顔をしていたから。

「驚くのも無理ないけどな、うちなじぶんのこと見えとんの。」

目を真ん丸にしてあられは何も答えなかった。

「私、ここの司書でした。まだ仕事がしたいです。」

あられが声を殺して泣き、絞り出た言葉だった。










 

 

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