バターナイフの切れ味は 12

「それは間違っているわ。私達が子供を授かれなかったのは、決して、あなたのせいなんかではない。」

床に膝をつく夫に寄り添い肩を抱く。

私の体が子供が出来にくいと分かったのは、結婚して直ぐの事。

まだ二十歳そこそこの、駆け落ち同然の結婚だった。周りに相談出来ないストレスが余計に影響したのだろう。

二度の流産を経験した。夫は、狂いそうになった私を全力で受け止めて支えてくれた。子供が欲しかったら、私なんて捨てて他の女と再婚でもすれば良かったのに、そんな事は頭の片隅にもないとはっきり言ってくれた。

夫の事は全く恨んではいない。

毎日、起きて一番に、亡くなった子供達にお線香をあげてくれた。

取材で全国を飛び回っていた時も、合間を縫って、先々の神社を巡って参拝してくれていた事も知っている。

「私、もう何も思い残す事はありません。あなたと居て、ずっと幸せでした。」

何で生きている間に言えなかったんだろう。

杉原と名乗っていた子が、私と夫の方を口を開けて交互に見ている。

もうずっと忘れていた。体に熱が戻ってくる。

解き放たれるって、こんなに気持ちが良いものなんだ。






「で、鮫岡夫婦さんはぁ消えていったとぉ。」

案内所でテイクアウトのハンバーガーを頬張る小田の、相変わらずな調子に力が抜ける。

よかったら一緒にと用意してくれたが、食べる気にならない。

「うん、でもぉ大変な三日間だったねぇ。うん。顔付きが見間違えるようだょお。」

短期間で立て続けに世界の見方が変わるような経験をしたんだ。多少は引き締まった顔にでもなったか。

「さてぇ、これで仕事は終えた訳だねぇ。これからぁどうするのぉ?」

何も考えられない。今はただ時間が欲しい。

「まっ、契約期間はまだまだ有るわけだからぁ、今すぐ追い出すような事はぁしないよぉ。ゆっくり考えたらぁ、また結論を聞かせてよぉ。」

有難い。今、住む所を失えば結局、実家に帰る事になる。それだけは嫌だ。

「あっ、そう言えばぁ。篠崎ちゃんから伝言を預かってるんだよぉ。お札、タダでくれてやった訳じゃないって事、忘れるなって。」

「えっ、あれお金取るんですか?」

声が裏返る。あの人は、何を考えている人か分からない。無視しようものなら、何をされるか分からない。

花子が心配そうに上目遣いで見てくる。僕を心配してくれるのは、この犬しかいないのか?

「じゃっ、どうやって返そうかなんてぇ思い付かないでしょお?まぁ、今日はぁ帰ってゆっくり過ごしなよぉ。」

案内所を後にして、ドンと肩に重荷が乗った。

篠崎さんから逃げ切れるとは、到底思えない。

ただ、今はお腹が空いた。家に帰ったら、先ずはご飯の支度をしよう。

玄関の戸を開けると、リビングの方から、美味しそうなパンの焼けた匂いがする。

「あら、お帰りなさい。ご飯、まだでしょ?」






「もしもしぃ、どおしたのぉ?恋しくなっちゃったぁ?えっ?まだ成仏してないぃ?何ならご飯の支度してくれてるぅ?そっかぁ、鮫岡さん夫婦まだ成仏してなかったんだぁ。じゃあ、引き続きお仕事頼んだよぉ。」

「分かってた癖に、本当に白々しいですね。」

篠崎は天井に向かって、紫煙を吐き出した。









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