バターナイフの切れ味は 11

美千江さんは、さっきまでのおどおどした様子はなく、背筋をピンと伸びている。

「あなたももう、気が付いていますよね?」

敏之さんに問う目の底は、熾火のようにチリチリと静かに燃えている。

「うるさい...。お前は黙っとれ..。」

敏之さんの声は、すっかり萎んでいる。

「いいえ、黙りません!あなたはいつもそうでした!周りの人に対して高圧的に接して、私は常に小さくなっていました!」

底の熾火は、爆炎に。

「作家としてのプライドがあったんでしょうね。何でも知ってる風で、人に教えられると嫌そうな顔をして!」

全てを燃やし尽くしそう。

「あの朝もそうでしたね。私がゴキブリに驚いた叫び声に起こされたと、不機嫌になって!朝食の支度をしている間、あなたはいつものように仏間で線香を炊いて。」

勢いが収まる気配はまるでない。

「大きな仕事の締め切りが迫っていて、イライラしてましたね。私も、あなたが醸す空気にやられていました。だから、言ってやったんです。」

敏之さんの震え方は、いつもは優しい母親に叱られる子供だ。

「知ってますか?バターナイフって二種類あるんですよ?切る用のナイフと塗る用のスプレダー。さっきからバターが固くて切り取りづらいってぼやいてますが、スプレダーでは、それは切れないでしょうって。」

それが真相なのか。

遠い日の事を見つめる美千江さんの眼差し。敏之さんは、俯いて顔は見えないが、小さく震えている。

「気がついた時は、台所に立っていました。そして、繰り返していたんです。私達が死んだ朝を。」

清々しい、満ち足りた表情。

「その後の住民の方達の中にも、私達に気が付いた人はいました。ですが、皆さん気味悪がって去って行きました。」

「杉原さん。あなたの荷物を受け取ったのは、私です。不思議な感覚でした。その時だけは、毎日の習慣だった夫を玄関まで見送る為でなく、自分の意思で動けて、配達員の方も生きていた頃のように接して貰えたんです。」

「この家は、私達が建てた。子供には恵まれなかったが、妻と二人、不満もなく生きてきた。」

ぽつぽつと語る敏之さんは、ずれた眼鏡も直そうとせず。

「確かに私は、仕事に追い詰めれていた。売れない頃から、何かあれば妻に当たる。分かっていても、自分を変える事は出来なかった。」

「そんな私に子供を授けて貰える筈はない。妻に対しての後ろめたさから、より仕事に逃げようになったんだ。仕事さえしていれば、現実が見えなくなって楽になれた。妻と距離が離れていってもだ。」

消え入りそうな懺悔。生前に打ち明けられていたら、こんな結末にはならなかったのか。











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