バターナイフの切れ味は 5

「あっ、もしもしぃ?どおしたの?もう寂しくなっちゃったぁ?」

電話越しにニヤける小田の顔が頭に浮かぶ。

長く話していても体に悪そうなので、出来る限り簡潔に用件を伝えるシミュレーションは、事前に頭の中で繰り返し行っていた。

「自転車が欲しいんです。」

「えっ?自転車ぁ?あっ、そうかぁ、その物件ってぇ駅やバス停から近いでしょお?しかも駐車場付きでぇ。だから徒歩か車での移動しか想定してなくてぇ、自転車なんてすっかり忘れてたよぉ。ごめんごめん。」

こんな立派な物件を借りられる身分なら、確かに自転車なんて使わないのかも知れない。

こちとらボロアパートを追い出されるような貧乏人。自転車は体の一部といって過言ではない。

「じゃあ、明日の午前中にぃそっちに届くように手配するからぁ、受け取ってね。」

「あっ、それとぉ、その物件に関する資料もぉ一緒に送るからぁ。目を通しておいてねぇ。何かあったら電話か案内所まで来てねぇ。」

「失礼します。」

中々に疲労が蓄積される電話だった。

自転車が無いので、必然的に買い物の量も少なくなった。

最低限の着替え一式と食料。家に揃っていたから買わずに済んだが、調理器具まで買っていたら、何往復かする羽目になっていただろう。

夕飯は簡単な豚肉と野菜の炒め物にインスタントの味噌汁。それに久しく飲んでいなかったちょっと高めの日本酒は、コップ一杯でもすっと染み渡り体を優しく温めてくれる。

食事を済ませて、ゆったり広々とした浴槽で湯に浸かる。

とりあえずやる事は、レポートを書くくらい。

最寄り駅からは徒歩で多目にみて10分。バス停は5分。備考欄には、「商店街までは徒歩では遠いので、自転車が有れば便利。」「浴室が広々としてゆったり。」とだけ書いて寝ることにした。

日の当りや近所の様子なんて、明日にならなければ分からない事だから。

2階の寝室に用意されているシングルベッドにふかふかで暖かい布団に枕。

ぼろぼろの擦りきれた畳に直で寝て、丸めたタオルを枕にして眠っていた日々がもう懐かしい。

余りに寝心地が良かったせいか、目が覚めたのは昼過ぎ。

まだ半分眠る頭で思ったのは、「あぁ、しまった。自転車の受け取りは午前中だった。仕方なし、郵便受けの不在票から業者に連絡しなくては。」

目を擦りながら、郵便受けを開けてみても不在票は無い。

「あれ?忙しい季節だし、時間通りに来てないのかな?」

違う...何で?

庭に自転車が置かれている。

篭の中に散らばっている何枚かの紙の資料には「夫婦心中」「目撃情報あり。」「霊症」の文字が書かれていた。




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