バターナイフの切れ味は 3

「杉原君てぇ、怖い話とかは好き?」

「そこそこ好きですが。」

小田が言った給料としての下りで、何となく察しはついた。

「ならさぁ、心理的瑕疵ありって知ってる?」

「誰かが一定期間住めば、借りる人に報告する義務が無くなるってやつですよね?」

心理的瑕疵あり。

近くに学校や葬儀場や暴力団の事務所があったりする物件に報告義務が発生するもの。

前の家住民が亡くなったりした場合は、誰かが住めば報告義務が無くなるという。所謂、事故物件と呼ばれるもの。

「あー、やっぱり誤解してるねぇ。心理的瑕疵は告知義務は無いけどぉ、後にバレた方が損害が大きくなったりするからぁ、ちゃんと伝えてるよ。」

「えっ?そうなんですか?てっきり誰か住めば言わなくても済むものかと。」

「世の中ねぇ、そんな甘くはないよ? 君に頼みたい仕事というのはねぇ。」

話を簡潔にまとめると、実際に住んで日々のレポートを書くというものだった。

住み心地、日の当たり、周辺施設へのアクセスの善し悪し等々。

「実際ねぇ、心理的瑕疵ありってね、確かに却って喜んで借りてくれるお客様もいるけどね、そんなの少数なのぉ。貸す側の人間も実際に住んでみた訳じゃないからぁ、上手くお客様に説明できないの。」

都市伝説は本当だったんだ!沸き立っていた心が、すっと水を打ったように平常に戻る。なんだ、現実はそんなものなんだ。

「じゃあ同意で良いかなぁ?ただ住んでレポート書くだけのお仕事だからぁ、当座のお金もない君にはぴったりでしょ?書くのも苦じゃなさそうだしぃ。」

「ええそうですね。僕もこの街に残れるならこんな良い話はありませんよ。」

内心苛立つものがあったが、実際今の自分には金も仕事もない。仕事も住む場所も一度に与えられるなんて、神様に救って貰ったようなものだ。小田を神様とは思いたくは無いが。

「じゃあ、ここに名前を書いてぇ拇印押してね。はい、これで契約完了。鍵は篠崎ちゃんから貰ってねぇ。あと、当座の生活費と地図も。直ぐに住めるように家具も揃ってるからぁ、今日からレポート用紙に書いていってねぇ。」

半透明の質素なクリアファイルに収納されたレポート用紙には、最低限書くようにと最寄りのバス停と駅までの所要時間を書く欄があるだけで、残りの9割近くは備考欄になっている。

「あっ、一応何かあった時の為に携帯電話を渡しておくねぇ。連絡先はここの電話番号と僕の電話番号に篠崎ちゃんが登録されてるけどぉ、篠崎ちゃんは基本的に電話に出る事ないから。僕が掛けても出ないしぃ。何かあったら僕に電話してねぇ。二十四時間対応だからぁ。」

この案内所に二十四時間対応は必要なのだろうか?他の客は一人も来ないし、電話だってさっきから一回も鳴っていない。

頭の中に疑問を残しながら、篠崎ちゃんと呼ばれる事務員から一通りの物を受け取けとる。最初から最後まで彼女は不機嫌そうで、言葉を交わす事はなかった。

「じゃあ、しっかり頼むよぉ。何かあったら直ぐに電話するんだよぉ。」

出口に向かうと、入って来た時のように小田が背後から声を掛けてきた。

親父と大喧嘩して家を出たあの日、母親が駅で、「しっかり頑張るんだよ!」と掛けてくれた言葉を何となく思い出し、不意に出た涙で頬が冷たくなった。



「所長、彼に言ってない事がありますよね?」

杉原が案内所を出て暫く、篠崎は席で煙草を吸ったまま問う。

声に抑揚はなく、顔は小田の方を向いていない。

「聞かれなかったからね。まっ、彼なら大丈夫だよ。僕が保証する。」

小田はあっけらかんとした態度で答えると、足元で眠る花子を優しく撫でた。


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