3-6

 子供。

 胡乱な眼をした。白い布きれのような服を纏った。四歳ぐらいだろうか。

 庭で雲を眺めていたら、枯れ枝の折れる音がした。動物でも来たのかと目を向けると、子供が立っていた。立ち尽くす、と現わした方がしっくりくるような、どこか呆然とした空気を纏っていた。

〈ぼく〉たちはしばらく見つめ合った。子供というものを、〈ぼく〉は初めて見たのだった。写真でしか見たことのないリスとかシカだとかが、実際に現われた時と同じような感想が湧いてきた。その証拠に、〈ぼく〉は無意識のうちに手招きをしていた。リスとかシカなどにするのと同じように。

 子供は怯えた様子もなく、素直に近付いてきた。そもそも、何の感情も持っていないようだった。

「君は?」〈ぼく〉は問うた。「どこから来たの? 学園の外から?」

 子供は首を振った。それから、木々の方を指さした。

〈ぼく〉たちが生活する棟の他に、森を挟んだ場所に離れがあった。そこは犬小屋を初め、鶏舎や物置小屋となっていた。けど、子供が指したのはそちらとは全く逆の方角だった。木々が鬱蒼と茂るだけの方角だ。

〈ルカ〉と、それから〈リーザ〉の顔が浮かんだ。

「君は、もしかして……」

〈ぼく〉が続きを継げられずにいるうちに、子供が口を開いた。

「ママが呼んでる」

 ママ。産みの親を指す言葉。女性の。

〈ぼく〉たちには関係ない筈の言葉。

 子供は目を伏せる。その表情には見覚えがある気がした。

 次に〈ぼく〉が取った行動は、子供を人目につかない場所へ連れて行くことだった。咄嗟に誰にも見つかってはならない気がしたのだ。特に大人たちには。

「ママの居場所はわかる?」寝室に入り、扉に鍵を掛けながら〈ぼく〉は訊ねた。

 頷くと、子供は瞼を閉じた。頭の中で誰かと話しているようだった。やがてかれは目を開き、「二階の、一番奥の部屋」

 幸いにして道中、誰にも出くわすことはなかった。考えてみれば健康な生徒は皆、校舎で授業を受けている時間だった。寮にいるのは予後の快復が芳しくない〈ぼく〉や、病に伏している者だけの筈で、人目を憚って怯える必要もなかったのだ。

 二階の奥の扉。ここをノックするのは二度目だった。くぐもった返事が聞こえ、ノブを回した。鍵は掛かっていなかった。

〈ぼく〉たちの、いや、〈ぼく〉の後ろに隠れていた子供を目にした途端、それまで死人のようだった〈リーザ〉の顔に生気が戻った。まず歓びが過ぎり、次に泪が頬を伝って流れ落ちた。

 背中を押してやると、子供は少しずつベッドの方へ近付いていった。〈リーザ〉の方でも布団から這い出てきて、床に跪きながら子供を抱きしめた。

 強く。

 その子の存在を自分に言い聞かせるように。

 赤ん坊の泣く声がした。

 この世の何処かにいる、〈ぼく〉から生まれた筈の子供。〈ぼく〉はかれに呼び掛けてみる。むしろ、無意識のうちにずっと、呼び掛けていたのかもしれない。

 暗い部屋のベッドの上に寝かされ、泣いている。そんな姿が頭に浮かぶ。

「ありがとう、〈シャーロット〉」子供を抱きしめたまま、〈リーザ〉が言った。「本当にありがとう」

「〈ぼく〉は何も」それから訊ねた。「どうしてその子が近くにいるとわかったんです?」

「さあ……『勘』というしかないわね。僅かな予感を、ただたぐり寄せただけ」

〈ぼく〉は頷いた。

〈リーザ〉は今一度、子供に回した腕に力を込めた。それから自分の身体を引きちぎるように、子供を離した。

「もう戻りなさい。大人たちが騒ぎ出すわ」

 子供は何とも答えない。

「自分で戻っていける?」

 子供は頷いた。

 その小さな頭に、〈リーザ〉は手を置いた。幻に触れようとするみたいに、危うい手つきに〈ぼく〉には見えた。

 親子の別れに泪はなかった。二人とも、また会えると希望を持っていたのかもしれないし、或いは二度と会えないと覚悟を決めていたのかもしれない。〈ぼく〉は〈リーザ〉に、子供を良きところまで送るよう頼まれた。

「大人たちに見つからないよう、くれぐれも気を付けて」かれは噛んで含ませるように、そう言った。

 寮を出て庭を横切り、森の入口に立った。初めに子供が現われたのと同じ場所だ。

〈ぼく〉は木々の向こうに離れの建物が見えないか目を凝らした。けれど森の密度は高く、建物は愚か開けた場所があるかどうかさえも伺うことは出来なかった。

「ここから一人で行ける?」

 答えはなかった。代わりに、胡乱な眼差しがこちらを見上げてきた。

 何かを問うような眼。

〈ぼく〉はその問いに対する答えを持ち合わせていた。

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