3-5

 天井。

 灰色の。病室の、薬のにおいが染み込んだ。

 それをぼんやりと見上げながら、〈ぼく〉はかれについて聞かされたのだった。まだ産後間もない頃だった。自分が眠っている間に何が起きたのか。かれが何をしたのか。現実のこととして受け入れるまで、時間が掛かったのを覚えている。

「奴は逃げ出したのだ」ベッドの傍らでこちらを見下ろしながら、フロレンス女史は言った。「男の風上にも置けぬ奴だ」

「〈ぼく〉たちに性別はありませんよ」〈ぼく〉は未だ上手く動かない口で小さく言った。「少なくとも、そう教えられてきました」

「恨んでいるのか、我々を?」

「こういう身体にしたのは先生ではないのでしょう?」

 フロレンス女史はしばらく〈ぼく〉を見下ろしていた。尤も、彼女の姿は逆光で影となり、どんな種類の表情が浮かんでいたかまでは窺うことが出来なかった。

 沈黙の底で横たわっていると突然、笑いがこみ上げてきた。全てが滑稽に思えたのだ。

「大丈夫ですよ、先生」〈ぼく〉は言った。「〈ぼく〉たちは、これはこれで楽しくやっているんです。そりゃあ、時には辛いこともあるけど、それでも概ね快適には過ごせているんです。どんな地獄だって、慣れてしまえば居心地が良いものなんです」

 女史は何も言わない。〈ぼく〉は続けた。

「先生、〈ぼく〉は今、最高に嬉しいんです。子供を産んだということもある。もちろん、それもあります。自分の役目を果たしたんですから。けど、それだけじゃないんです。何が嬉しいって、あなたたちが〈ぼく〉らを人として扱ってると知れたことです。子供を産む単なる機械ではなく、一人の人間として、ね」〈ぼく〉は胸の中に滞留している澱を吐き出す。譫言を装って。「だってそうじゃないですか。機械が機械をそそのかして共に自殺しただけなら、あなたたちはそこまで狼狽えなかった筈だ。そんな風に真剣な顔をしているのは、二つの命が消えたと認識しているからだ。ねえ、そうでしょう?」

 言いたいことはまだまだあった。けど、木の丸椅子を蹴り倒す音(そうとしか表しようのない暴力に満ちた音だった)に中断を余儀なくされた。

「務めを果たせる力があるのなら、それを使うのは当然の役目だ」フロレンス女史は言った。「なのに何故、お前はそれを放棄しようとするのだ」

「放棄したいんじゃありません」ただ、と〈ぼく〉は続ける。「返してもらいたいだけなんです。本来、自分が持っているべき価値観を。気持ちを」

「権利を訴えるのはいつだって義務を果たしていない人間だ」

 どれだけやっても義務を果たしと認めやしないくせに、とは思ったけど、口には出さずにおいた。

「いっそ、お前の脳をくり抜いて私のと交換したいぐらいだ」

「初めて意見が合いましたね」

 舌打ちと共に、尖った視線が飛んできた。

「せめて子供の自我が確立するまでは大人しくしていろ。それから先のことはとやかく言わん。森で腐るなり、犬に食われるなり好きにするが良い」

「ありがとうございます、先生」

 それきり、彼女と話をする機会はついにやって来なかった。

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