3-4

 窓。

 真っ暗な。

 硝子の向こうには新月の夜の闇が満ちている。眼の焦点を変えれば、〈ぼく〉を映す鏡となった。

 犬の鳴き声は聞こえない。不意に、しばらく聞いていないことに気が付いた。もう誰も、新月だからといって脱走を企てたりしないのかもしれない。〈クラウス〉の姿を見て、そのリスクを現実のものとして捉えられるようになったのかもしれない。

〈クラウス〉が戻ってきたのは見せしめのためだと、〈ぼく〉は今でも思っている。犬に追われ、戻ってきたのはかれが初めてだった。それまでの脱走者が逃げ果せたとは、〈ぼく〉にはどうしても考えられなかった。どこかに纏めてジャムにされたとまではいわないけれど、似たような顛末を迎えたということは想像に難くない。でも、〈ぼく〉のように想像力を働かせて勝手に震える生徒ばかりではないから、大人たちも考えたのだろう。その結果が、あの死んだ眼をした〈クラウス〉だったのだ。

 ただいるだけで、脱走に対する抑止力には充分なっていた筈だ。だからかれの死は、何か抗いがたい恐怖感を生徒たちの胸に決定的に植え付けた。

 同時に起きたもう一つの死は、大人たちを震え上がらせた。互いに愛し合うことだけを許容してきた「機械」たちが、自らの意志で手を取り、死の世界へ旅立ってしまったのだから。

 かられの死の詳細は、誰も知らない。いくつもの噂が流れたけど。どれも推測の域を出ないものばかりだった。紛れもない事実として残っているものはただ一つ。納屋が焼け、その瓦礫の下から消し炭になった二人分の遺体が見つかったことだけだ。

 だけど、というか、やはり、〈ぼく〉は噂の方に心を惹かれた。普段ならそんなものには耳を傾けないのだけれど、この件に関しては特別だった。

 だから〈ルカ〉があの手紙を持ってきた時も、さして驚きはなかった。

「かれの持ち物にあったそうだ」

 封筒を受け取る。何も書かれてはいなかった。

「これは〈ぼく〉に宛てられたものなのですか?」

「中を読めばわかる」

〈ルカ〉の言葉に従って〈ぼく〉は手紙を抜き出した。

 開いてみると果たして、〈チャーリィ〉に宛てた手紙だった。短い挨拶に始まり、かれとの思い出や学園での生活のことが書かれていた。どこか居心地の悪そうな、角張った文字の羅列。最後は、〈チャーリィ〉への愛の告白で締められていた。

「ラブレターですね」

「ラブレターだよ」〈ルカ〉が頷いた。「大人たちが隠したくなるほどの」

 署名はなかった。けど、それが誰の手によって書かれたものかはすぐにわかった。筆跡そのものが署名のようなものだった。手紙の上にペンを走らせる白い指が、頭にありありと浮かんできた。

「良かったのですか。〈ぼく〉にこんなものを見せて?」

「〈リーザ〉の件の、せめてもの礼だ」

「お礼をされるほどのことはしていませんよ」会って話を聞いただけだ。

〈ルカ〉は肩を竦めた。

「十分なことをしてくれたよ。今のかれには〈俺〉ではなく、お前が必要だったんだ」

〈ぼく〉は否定しようとして、口を噤んだ。

 パートナーといえど、いや、パートナーだからこそ、相手の力になれないことがある。それは〈ぼく〉と〈ベル〉も同じだった。今、〈ぼく〉の胸に頭をもたげている鈍い痛みは、決してパートナーとは共有できる類のものではない。〈ぼく〉の〈種〉が〈発芽〉した時点で、〈ぼく〉たちは決定的に別々の彼岸に立ってしまったのだから。

「もし……」気付けば言葉が漏れていた。「もし発芽するのが逆だったら、結果は違ったのだと思うことがあります」

〈ルカ〉は黙ってこちらを見つめていた。

 手の中で、ひしゃげた手紙が音を立てた。

「むしろ、かれの方が発芽するべきだったんです。かれが〈クラウス〉を想う気持ちに比べたら、〈ぼく〉がかれに抱いていたものなんて紙みたいなものです。それこそ、こんな手紙で済まされてしまうぐらいの」

「〈俺〉は結局こちら側だから、無責任なことは言えない」〈ルカ〉が口を開いた。「〈リーザ〉を見ていたから、きっと苦しいのだということはわかる。その苦しみから救ってやれないことも。だけど聞いてくれ。本当に、〈俺〉たちには何もないのか? 名前も記憶も性別も、これからの人生だって奪われた〈俺〉たちの手元には、本当に何も残っていないのか?」

〈ルカ〉が何を言おうとしているのか、おぼろげながら汲み取ることが出来た。けど、かれのロマンチシズムを感じることは出来ても、それを咀嚼し自分の血肉にすることは出来なかった。少なくとも、この時の〈ぼく〉には無理だった。

 形のないものを信じるには、〈ぼく〉はあまりに草臥れ過ぎていた。

「ありがとうございます、先輩」〈ぼく〉はすっかり皺だらけになった便箋を返しながら〈ルカ〉に言った。「かれへの気持ちを胸に、これからは前を向いて進んでいきますよ。もうパートナーは必要ないかもしれない」

 笑ってみせたけど、〈ルカ〉は応じなかった。だから〈ぼく〉は続けた。

「大丈夫。早まった真似はしませんよ」

 嘘をついたつもりはなかった。

 けど、望むと望まざるとに関わらず、機会の方から〈ぼく〉の前に転がり出てきた。この言葉は決して使いたくなかったのだけど、それでもやはり、これは「運命」と呼ぶしかないようだった。

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