3-2

 声。

 泣いている声。赤ん坊。

 誰かを呼ぶような。助けを求めているような。

「駄目ですよ、先輩」

 朝食の皿を覗き込んでいたら、声が飛んできた。胸元に緑色のネクタイを締めた生徒。下級生の〈アン〉だ。

「ちゃんと食べて下さい。栄養を摂らなければ」

「まるで世話焼き女房だね」

「まだ『女房』と決まったわけではありませんが」

〈ぼく〉は目玉焼きにナイフを入れた。半熟の卵黄が、中から溢れ出てきた。

「半熟はお好みではありませんか?」

「いや」不安そうな顔の後輩に、〈ぼく〉は首を振る。「半熟の方が好きだよ。消しゴムみたいに固い目玉焼きは苦手なんだ」

 病棟を出て間もなく、〈アン〉はやって来た。細々と身の回りの世話をしてくれるかれの働きぶりには目を瞠るものがあり、自分の頃と比べて恥じ入ってしまうくらいだった。そして、かれのパートナーを羨ましく思ったりもした。

 同じ頃、〈リーザ〉が二人目の子供を産んだことを知った。一人でも難しいとされる中で、二人目を設けるというのは偉業と称えられて良いものだった。実際、かれと〈ルカ〉の扱いは一段と丁重なものとなった。やはり今回も発芽の契機を作ったという〈ルカ〉はプリーフェクトに任命され、〈リーザ〉の世話役は三人に増えた。

 だけど程なくして〈リーザ〉が床に臥せったままだという噂が流れ始めた。かれの姿を見た者はなく、世話役が三人というのも看病のためではないかという見方が出てきたのだ。

〈ルカ〉が訪ねた来たのはその頃だった。

〈アン〉に連れられ部屋に入ってきたかれは、〈ぼく〉を見て驚いたようだった。無理もない。〈チャーリィ〉と呼んで世話をさせていた下級生が、今では〈シャーロット〉と呼ぶべき風貌に変わっていたのだから。

「すまない。その、話には聞いていたのだが……」かれは口元を覆いながら言った。

「構いませんよ。自分でも驚いているぐらいですから。まさか〈ぼく〉の方が産むことになるなんて、未だに信じられません」それから〈ぼく〉は、〈ルカ〉に椅子を勧めた。

 腰を下ろすなり、かれは〈ぼく〉に、〈リーザ〉に会ってくれないかと言った。頭まで下げて懇願してきた。顔を上げるよう言っても、頑として聞かなかった。

「お前が来てくれれば、何か変わるかもしれないんだ」

「〈リーザ〉先輩に何があったのですか」

 すると〈ルカ〉はようやく顔を上げ、口を開き掛けた。けど、〈アン〉の方へ目配せしたかと思うと再び口を噤んだ。〈ぼく〉は〈アン〉を下がらせ、続きを促した。語られたのは、大方の予想通りの話だった。

 曰く、〈リーザ〉の術後が思わしくないとのこと。その原因が、子供に会えないことにあるということ。一人目の時にも同じことはあったが、今回は程度が違うこと。時折錯乱状態に陥り、譫言を繰り返すようにもなったということ。このままでは、何処かにいる子供にも影響が及ぶかもしれないこと。

「子供にも?」〈ぼく〉は訊ねた。「指一つ触れられないのに?」

「正確な話ではないのだが」と、〈ルカ〉は前置きして続けた。「一説に拠ると、子供の自我が形成される前には親の精神状態の作用を受けやすいらしい。肉体の臍の緒は切れていても、精神の方は繋がったままというわけだ」

 かれの言葉が真実であると、〈ぼく〉はこの時既に知っていた。

「今、その子供は?」

 すると〈ルカ〉は、自分の身体が痛むよう表情を浮かべた。かれがそんな顔をするのを〈ぼく〉は初めて見た。

「わからない。大人たちは何も教えてくれない。だが、〈リーザ〉の言葉から察するに、近くにはいるようなんだ」

「この森に」全くの空想でもないように思えた。〈ぼく〉たちはこの森について何も知らないのだ。

「かれが――」〈ルカ〉は組み合わせた己の拳を見下ろしながら言った。「〈リーザ〉が言うんだ。『あの子の声が聞こえる』って。『あの子の見たこと、聞いたこと、考えたことが頭の中に流れ込んでくる』って。二人目が生まれてからは、それが激しくなったというんだ」

〈ぼく〉にも思い当たる節はあった。時折聞こえる赤ん坊の泣く声。あれが、〈ルカ〉が言うところの「精神的臍の緒」なのかもしれなかった。

 一人分でも、ずっと聞いているのは堪え難そうだ。二人分の精神が流れ込んできたらと考えると、ちょっとぞっとしない。ましてや、こちらの精神状態が逆流していくのであれば、余計に気に病まざるを得ないかもしれない。

「わかりました。〈リーザ〉に会いましょう」

「ありがとう」それから、〈ルカ〉の顔がにわかに曇った。「すまない。お前のためには何の力もなれないというのに……」

「気にしないで下さい。〈ベル〉のことは仕方のないことだったんです」〈ぼく〉は言った。「誰にも、どうすることは出来ませんでした」

〈ルカ〉は黙ったままだった。必死に言葉を探しているようだったけど、結局見つけられなかったようだ。だから〈ぼく〉の方が口を開いた。

「〈ぼく〉はもう平気です。〈ぼく〉には今、ここにあるものの方が大切ですから」

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