2-7

 手応え。

 破壊の。骨を砕く。

 ラケットの先にこびり付いたそれは、既に固まり始めている。

〈ぼく〉の足元では大きな背中が蹲っていた。呻き声。嗚咽。そこへ方々からチームメイトたちの声と身体が被さってきた。

「〈チャーリィ〉」〈ルカ〉が傍らに来た。「お前、今の……」

「すみません、先輩。チームの危機を救おうとしただけなんです」

 急に、ラケットが重みを増した気がして、持っているのが怠くなった。ガラン、と木の棒が地面に落ちた。

 蹲っていた選手が仲間たちに抱き起こされた。

「こいつ、わざとだ」血まみれの手で顔を押さえながら、かれは言った。その掌の下では、大きな鼻が拉げ、今も血を溢れさせているに違いなかった。「わざと〈俺〉の鼻を狙ったんだ」

「違いますよ」本当に違う。

 狙ったのは鼻じゃない。

 結局、試合はこのまま中止となり、〈ぼく〉はフロレンス女史に呼び出された。そこでどんな「指導」があったかは、覚えていない。たぶん、いつもと同じお説教だったのだ。

 女史の話が続いている間中、ずっと自分の手を眺めていた。細くて小さな、頼りない手。非力が故に、し損なった。あの上級生はやがて快復し、〈ぼく〉に復讐を仕掛けてくるだろう。〈クラウス〉にしていた「ファギング」よりもっとひどいことをしてくるかもしれない。

 まあ、それはいい。そうなることは想定済みだ。

〈ぼく〉の気分が夜明け前の海のように暗く沈んでいたのは、全く別の原因からだった。その正体を、この時の〈ぼく〉はまだ見つけられていなかった。

 わかったのはその日の晩、白い部屋に入った時のことだった。

 いつものように眠くなるまで話をして、背中を向け合って寝ようとしたけど、この時はそうはいかなかった。

「……何をしているの?」〈ぼく〉は背中に密着してきたかれに、そんな月並みな問いを投げた。

「わからない」というのが、かれの答えだった。「だけど、こうするべきだと思うんだ」

「君は〈水やり〉が嫌いだと思ってた」

「好きじゃない。でも、これは別なんだ」

 かれの腕が〈ぼく〉を締め付ける。力が込められれば込められるほど、〈ぼく〉は虚しさを覚えた。

「君は何か勘違いしているよ」〈ぼく〉は〈ベル〉の腕に手を添えた。「こんなことされる謂れはない。君は間違っている」

「君だって」〈ベル〉の囁きが〈ぼく〉の耳をくすぐる。「もっと自分に、正直になったって良いんだよ?」

「〈ぼく〉はいつだって……」

「嘘」

「嘘じゃない」

「君が嘘をつく時は、すぐわかる」

〈ぼく〉は言葉を呑んだ。

「君は意地悪だ」

「そう。〈わたし〉は意地悪だよ」

〈ベル〉は全部気付いていた。尤も、かれが〈ぼく〉の気持ちに気付いていないなんて幻想は、持ったこともなかったけど。

 腹の底が疼いた。今までにも、かれとこうしていると同じ感覚を覚えることがあったけど、この時のものは格別に強かった。

「〈わたし〉たちは、もっと早くこうするべきだったんだ」〈ベル〉は吐息混じりに続ける。「そうすれば、誰も傷つかずに済んだ」

「〈クラウス〉のことは――」

 言い掛けて、口を塞がれた。あの白くて細い指が、唇を割って中へ入ってきた。何か言おうとしても叶わず、口の端から涎が垂れるだけだった。

「ありがとう、〈チャーリィ〉」かれが言った。「生まれたことを呪ってばかりだったけど、君に会えたことはただ一つ幸せだった」

〈ぼく〉は何も言えない。言わせてもらえない。

 やがて諦める。

 身体中から、かれの肌の感触が薄らいでいった。手足の自由も利かなくなり、〈ぼく〉の身体は〈ぼく〉のものではなくなった。

 暗闇に浮かぶ、光の球が見えた。

 月。

 満月。

 蒼白く輝きながら、こちらを見下ろしている。

 白い部屋に窓はない。だから、そんなものが見える筈はない。

 だけど見えたのだ。手を伸ばせば届きそうな距離だった。腕に力は入らず、〈ぼく〉は口を半開きにしたまま眺めることしか出来なかったけれど。月は逃げることもなく、黙って〈ぼく〉を見つめ続けていた。

 こうして〈ぼく〉の〈種〉は〈発芽〉した。

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