2-5

 犬。

 猟犬。何頭もの。

 黒く艶やかな毛並みが、暗い木々の合間を駆けていく。瞼を閉じると、そんな光景が容易に浮かんできた。

 新月の夜には脱走が多い。たしか食事の時、〈ルカ〉がそんなことを言っていた。月明かりがないから、闇に紛れて逃げられると思うのかもしれない、と。馬鹿ね、と〈リーザ〉が紅茶を啜りながら受け合っていた。犬には明るさなんて関係ないじゃない。

 この夜もやっぱり新月だった。脱走者は追手の目を眩ますため(暗いのに「眩む」というのは妙だけど)、己の危険も顧みず闇へと溶けていったのだ。闇の深さが犬には無関係なことぐらい、脱走者にはわかっていただろう。或いは真っ暗な森が、手招きしているように思えたのかもしれない。

 普通、誰が脱走したのかは、翌朝にならないとわからない。それも、わざわざ公表されるのではなく、教室中を巡る噂として漂ってくるのだ。

 だけどこの時ばかりは、朝を待つまでもなく、猟犬に追われているのが誰だかわかった。

 窓を閉め、〈ぼく〉は自分のベッドに入った。早く寝入ってしまいたかったけど、意識はむしろ、眠りからは遠ざかるばかりだった。

「ねえ」先に眠ったとばかり思っていた〈ベル〉の声がした。かれは早々に床に就き、頭からすっぽりと毛布を被っていた。

〈ぼく〉は動揺を気取られないよう注意しながら、短く返事した。

「どうしてみんな、脱走なんてするんだと思う?」〈ベル〉は言った。「成功する筈なんてないのに」

「成功するとかしないとか、そういう問題ではないんだと思う」〈ぼく〉は言った。数日前に見た、〈クラウス〉と上級生の「ファギング」を思い出しながら。「やらなくちゃならないような、やむを得ない事情があるんだよ」

「やむを得ない事情」

「そういうものがない〈ぼく〉らは、たまたま運が良いだけなのかもしれない」

「君は、外へ行きたくないの?」

「行っても森の向こうには知っている人なんていないから」

「見てきたような言い草」

「そうだけど」けど、森を抜けたところで、碌な世界が広がっていない気はした。「〈ベル〉は外に行きたいの?」

「別にどっちでもよかった」

 どっちでもよかった。〈ぼく〉は口の中で繰り返した。

かれはそれきり、何も言ってこなかった。窓の向こうでは未だに犬が吠えていた。その声は随分遠く、森の奥まで入っているようだった。

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