2-4
潮騒。
本物の、海の音。
森の向こうにあるという世界。〈ぼく〉はこの眼で見た覚えがない。外からやって来た筈だけど、ここに来る前のことは何も覚えていない。
まるで、そんな過去などないかのように。
ではどうして潮騒を知っているかというと、それが海の音に似ていると教えてくれた人物がいるからだ。誰あろう、我がパートナーの想い人・〈クラウス〉だ。
かれとは洗濯場でよく一緒になった。お互い、仕える上級生の洗い物をしに来るという間柄だった。己の置かれた状況が共通しているという事実はすぐに強い連帯感を生み、教室では話したことがなかったのに〈ぼく〉らは昔からの親友同士のように仲良くなった。
そのかれが、ある時、洗濯機の回る音を聞きながら不意に言ったのだ。
「海の音に似ている」
「海を見たことがあるの?」〈ぼく〉は訊ねた。海といえば、写真か文章を本でしか読んだことがない。つまり、情報が音を伴っていなかった。
〈クラウス〉は別に馬鹿にするでもなく頷いた。
「海の傍で育ったんだ。家のすぐ前が砂浜だった。不思議なもので、昼間の明るいうちは家の中にいると全然聞こえないのに、夜になって床に就くと、潮騒がすぐ間近に聞こえるんだ。まるで家が波に攫われちまったのかと思うぐらいだ」
「落ち着かないね」
「ああ」〈クラウス〉はまた頷いた。「けど、気付けば慣れていた。それなしじゃ眠れないほどになっていた。だからここに来た時はなかなか寝つけなかったよ。なにせここには海がない」
「あるのは犬の鳴き声のみ」
〈ぼく〉の言葉に、〈クラウス〉は肩をいからせ同意を示した。
かれがどのような経緯でこの学園に来たのか、〈ぼく〉には知る由もない。ただ一つ、それぞれ事情は異なれど、自分から望んで来たわけでないことだけは確かだった。
「海を見たいと思う?」〈ぼく〉は再び訊ねた。今思えばこんな質問、するべきじゃなかったのだ。
「そうだな」〈クラウス〉は天井を見上げた。「人生の一番最後に、見ていたい景色かもしれない」
洗濯機が水を吐き出し、モーターを一層強く唸らせ始めた。
〈クラウス〉が、かれのファッグ・マスターからどんな仕打ちを受けていたのか〈ぼく〉が知ったのは、かれが姿を消す直前のことだった。むしろ〈ぼく〉に知られたがために、かれは森の中へ消えたのかもしれない。
それは明らかに、不幸な偶然だった。どれだけ後悔しても避けようが思い付かず、己の存在を呪う以外に方法が見当たらないほどの。
授業が放課となった後、〈ぼく〉はフロレンス女史から資材を備品室に戻す役目を仰せつかった。本当は〈ベル〉と一緒に、ということだったけど、例によってかれが不在のまま、〈ぼく〉は一人で職務をこなすこととなった。
もし、あの不幸な偶然に一つでも希望を見出すとすれば、それは〈ベル〉が直接その光景を目にしなかったことかもしれない。実際のところ、〈ぼく〉が初めに思ったのもそれだった。ああ、かれがいなくてよかった、と。だけどそんな安堵は、激流の川底で僅かに輝く砂金ほどの大きさでしかなかった。
体勢からいって、先に気付いたのは青いネクタイを締めた上級生の方だった。むしろこの時までは、こちらに背中を向け、上級生の飾りと化した「それ」の前に跪いているのが〈クラウス〉だとはわからなかった。ここで引き返していれば、或いはかれは、消えずに済んだのかもしれない。
鼻の大きな上級生は、明らかな威嚇の眼を投げてきた。〈ぼく〉は足の裏が床に貼り付いたように立ち尽くした。逃げなかったのではなく、逃げられなかった。
やがて、相手の様子がおかしいことに気付いたのか〈クラウス〉が振り返った。暗がりではあったものの、〈ぼく〉の姿を認めた瞬間、かれの顔に浮かんだ表情は、振り返る度に胸が潰れそうになるものだった。
〈ぼく〉はやっとの思いで踵を返した。置いてくるべきだった荷物を抱えたまま、床板の軋む廊下を走った。
〈クラウス〉が海を見に行ってしまう予感は強くあった。ほとんど「確信」といっても良いぐらいに。
そしてそれは程なく、「現実」として〈ぼく〉の前に転がり出てくるのだった。
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