1-2
指。
白い指。
細くて長いそれは、何かを掴むという用途のためではなく、その形を愛でるために存在する芸術作品のようにも見える。窓から射し込む陽の光の中では、尚のことだ。
初めて目にした時は思わず見惚れてしまった。まだここに来て間もない頃の、授業中のことだった。〈ぼく〉は(そして〈ぼく〉以外の全員も、恐らく)この世界について何も知らず、自分がどうしてこの場所にいるのかもわかっていなかった。目に映るもので理解出来るものは僅かで、かれの指の美しさも、そうしたものの一つだったのだ。
人差し指が机を叩いた。
目線を上げると、〈ベル〉の笑みを含んだ眼差しとぶつかった。
「なに?」と問われているのがわかった。〈ぼく〉は「別に」と素振りで示して、自分の机に向き直る。
机に広げたテキストは何の興味も惹かず、ノートは白いままだった。教壇ではフロレンス女史が、チョークを黒板に叩きつけていた。板書をとらねばと思うのだけど、どうにも面倒で手が動かない。女史の字は汚く、所々判読できない箇所があるのだ。
板書にも飽きたというように、女史が振り返った。教卓の縁を掴むその指先は、チョークの粉で汚れていた。
「かつて数十億を数えた人類が、かくも減少したのは何故か」女史は朗々と言った。「答えられる者は手を挙げよ」
教室の方々で手が挙がる。挙げていないのは〈ぼく〉と〈ベル〉ぐらいで、むしろこちらの方が何かを主張しているみたいだった。
案の定、フロレンス女史の目には止まったらしい。
「〈チャーリィ〉、わからないのか?」
「いえ……」なんで〈ぼく〉だけ、と思いつつかれを横目で見やる。
〈ベル〉は頬杖を突き、窓の外を眺めている。こんな時、厄介を被るのはいつも〈ぼく〉の役目だった。大人たちは決して〈ベル〉を責めない。大人たちだけではない。他の生徒たちも〈ぼく〉に罵声を浴びせることはあっても、かれに直接何かを言うことはなかった。
もちろん、そうした差をつけられることに不満はあった。けれど、かれを前にすると凡俗な言葉を呑み込みたくなる気持ちもわかるから、一応納得はしていた。パートナーだからという贔屓目を差し引いても、かれはたしかに、何か特別な力を纏っていた。少なくとも、周囲にそう思わせる力は持っていた。
視界の端で白いものが動いた。かれの指だ。さっきと同じように机を叩いているようだったけど、よく見ればテキストの一点を指し示していた。
そこにある文章を、〈ぼく〉は読む。
「自然の摂理に反して乱れた性愛を繰り返した結果、疫病が蔓延したからです」更に続ける。「また、『生物学的な』異常体質の常態化も原因として挙げられます。具体的には、生殖能力の減退。ホルモン異常により精子の行動力が弱まり、単独での受精が困難となったことが大きな原因の一つとなっています」
「よろしい」フロレンス女史は言った。「私の授業で呆けていたことは不問にしてやろう」
授業、と胸の中で呟きつつ〈ぼく〉は首を竦めた。いつも同じ内容を刻みつけられる「授業」。
「今も話に出たように、人類は精神の自由を求めるあまり、生き物としての根底にある理にも放埒になってしまった。繁殖能力の点に於いては植物以下の存在といってもいいぐらいだ」女史は忌々しそうに口を歪める。その目線の先にいるのは、今の「堕落」をつくった昔の人々なのかもしれない。「だが、人間には幸いにして知恵があった。精子の弱体化を抑えることは出来なかったが、代わりに新たな『種』を拵えることには成功した」
隣で〈ベル〉が鼻を鳴らした。どういう意図を持ってのことなのかは、訊かずともわかった。
「予め『種』を宿しておき、外部刺激によりこの活動を促す。これにより、肉体的な生殖活動が不要なまま妊娠を可能とする人間が誕生した。即ち、君たちである」
「悪魔の技術」と、〈ベル〉が呟いた。
「諸君には子供を産む義務がある」フロレンス女史は黒板にチョークを叩きつけるように言った。「この学園に集められた君たちは、誰しもが子供を宿す能力を有している。君らは人類の希望として衣食住を約束され、格別の庇護を受けている。こうした状況にあって子供を産まぬ者は、もはやこの世界に於いて生きる資格はない」
〈ぼく〉には〈ベル〉の様子が気が気じゃなかった。かれの両肩からは明らかに、憤りと呼ぶべきものが立ち上っていた。
「この学園はマダムの好意により作られた。本来であれば行き場のない諸君のような存在も、マダムは受け入れたのだ。君たちはその好意に報いねばならない。現在の恵まれた状況に対する働きをするのだ」
丁度そこで、授業の終了を告げる鐘が鳴った。
女史が降壇し、教室中で銘々が腰を上げた。そうした中で〈ベル〉だけは、頬杖を突いたまま窓の方を向いていた。〈ぼく〉が呼び掛けても、声は届いていないようだった。
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