深い森
佐藤ムニエル
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森。
深い森。
夜の底に広がるそれは、周囲の黒より一層深い闇を作っている。
犬が吠えている。森のあちらこちらから、いくつも声が聞こえる。
猟犬。
まさにそう呼ぶに相応しい犬であることを〈ぼく〉は知っている。何度か餌やりをさせられたことがあるからだ。黒くて細い身体。口の隙間から覗く白い牙。こちらを睨めつけてくる警戒心に満ちた眼。唸り声。瞼を閉じれば、ありありと思い出すことが出来る。
「ねえ」
かれの声でハッとした。
「もう閉めてくれないかな。嫌いなんだ、この音」
「ごめん」〈ぼく〉は言って、窓を閉める。
窓辺を離れ、ベッドに腰掛けた。向かいのベッドではかれが、壁に背中を付けて膝を抱えていた。
〈ぼく〉は言った。
「今夜は誰が逃げ出したんだろう?」
「さあ。君には心当たりはないの?」
「うん……」〈ぼく〉は小さく頷いた。「ないと言えばないし、あると言えばある、かな。ここにいる殆どに、逃げ出す動機はあると思うよ」
「そうかもね」かれの口元に笑みが浮かんだ。「君にも、〈わたし〉にも」
「〈ぼく〉は違うよ。出て行きたいとは思わない」
「へえ」
「ここは安全だ。少なくとも、規則に従っている限りは」
「規則に従っている限りは」と、かれは繰り返した。
「〈ベル〉は、やっぱり出て行きたいの?」〈ぼく〉は訊ねた。
するとかれは窓の方へ顔を向けた。真っ暗な硝子の向こうに、何かを見ているような眼差しだった。彫り出した石膏のような横顔を、〈ぼく〉は見つめた。いつまでもそうしていることが出来る気がした。
やがて〈ベル〉が横顔のまま言った。
「本当に、ここは安全だと思う?」
〈ぼく〉は答えに窮した。問いを問いで返される心構えが出来ていなかった。
「『外の世界は恐ろしい。君たちが安全に生きていけるのは、この森の中だけ』」
ここへやって来た時から聞かされてきた、大人たちの台詞。彼らは〈ぼく〉たちの精神に刻みつけるように、この言葉を繰り返した。尤も、効果の程は定かではない。「開けてはいけない」と言われた箱を開けてみたくなるように、隠されれば隠されるほど、外の世界への興味は湧いてきた。そんなものがあるとわかった時点で無視することなんて不可能なのだ。
「もし、〈わたし〉が――」〈ベル〉が言った。かれはこちらを向いていた。その眼差しは、冬の夜空に浮かぶ蒼い月を思わせた。「逃げ出そうって言ったら、一緒に来てくれる?」
「君がそれを望むなら」
「それは、君が〈わたし〉のパートナーだから?」
「他に理由が必要かい?」
かれは微かに首を振った。それから言った。
「充分だよ」
窓の外はいつの間にか静かになっていた。犬の追跡は終わったらしい。逃亡者は捕まったのか、それとも逃げおおせたのか。〈ぼく〉はベッドの上で後者の可能性を考えようと努めたけど、上手くいかなかった。
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