蓮の蕾

@tape_apollo

   

 蓮の蕾




「デリシア行こ」

 手の中にあるニベアクリームを見つめながら思った。

そう、早く今日の夕飯の鶏肉を買いに行かなければならない。

 顔をあげると、どこか公園のような場所だった。丁度、アルプス公園の、滑り台を滑り降りていったところにある池。池というより、一面湿地のような。冬が過ぎて、太陽光に照らされ暖められた水面から、むわりと漂うぬめっぽい水の匂いがした気がした。

 そういえば、この間新しくできた友人とアルプス公園に行った。あの池の近くに雨に濡れそぼってぼそぼそになった、半分以上水に溶けてしまったような千羽鶴がかけられていたが、過去に事故でもあったのだろうか。そんな話はこっちに来てから聞いたことがないけれど。

「むね肉だけ買えば」

 いいか、と頭の中だけで頷く。

 ニベアクリームのことは気にせず、柵に手を掛けて池の方に身を乗り出した。

葦のような植物が群生していて、水面はあまり見えない。

 柵に足をかけ、そろそろと池の中に降りた。スニーカーがずぶずぶと泥の中に沈んでいくが、あまり感覚はない。

 柵から手を放してしまうと、体が一気に沈んだ。膝のあたりまで沈むが、泥だか水だかからの抵抗はあまりないようだった。

 葦をかき分けて、池の中心に進む。進むたびに、体はさらに沈んでいく。腰あたりまで沈んだ時には、私がデリシアに行くことを思いついた場所からはかなり離れていた。振り返っても、すでに私の低身長では葦の群生の中に埋もれてしまい、柵は見えなくなっている。

 デリシアに行かなければならないのだが、それでも私は体が沈んでいくのを気にせずに進むことにした。

今日の夕飯は、照り焼きチキンにするつもりだった。まだ米を炊飯器に入れてさえいない。一時間くらい水につけておくといいよとかよく言われるけど、それができていたら、課題を直前まで残したりしない。

 もやもやと鶏肉と減り続ける通帳の残高を思い出していると、体が胸のあたりまで沈んでいて、さすがに体が重くなり、これ以上進めないというところまで来た。

 葦の群生が途切れている。視界的に開けている場所は、葦が生えるかわりに、なんだろうかこれ、蓮の葉? が密集していた。

 水面を覆いつくしている蓮の葉は、もはや緑色の絨毯のようにも見える。上に乗って歩けるんじゃないだろうか、とか考えて、葦を乗せようともしたけれど普通にぐちゃっと泥の中に葉っぱと一緒に沈んだだけだった。

 葉をかき分けて進んでいると、中央に、ひときわ大きい緑色の物体があることに、いまさらながら気がつく。

 私が水中に体を沈めていることもあるが、それを考慮しても、その物体は太い茎に支えられつつ、私の頭三つ分くらい上に存在していた。

 葉脈が走っている膜に何かが包まれているように見える。大きさは、どうだろう、サッカーボールくらいだろうか。

 蕾だと考えるのが妥当だが、蛹のようにも見える。

 私よりも上にその物体が位置しているため、必然的にそれは光に透かされることになるが、その中に、何かあるのがわかった。

 ぼんやりとした輪郭が確認できるが、その形は以前に見たことがある気がした。

まるで、人間の胎児か何かのような。


+++++


「デリシア行かんの?」

 いつまでたっても起きてこない私にしびれを切らしたのか、一緒に夕飯を作ろうと言っていた隣の部屋の友人に声を掛けられて布団をはねのける。

 暑かった。下半身にかいた汗がとても不快だ。

「六時だけど」

「……マジで?」

 寝すぎた。

早く鶏肉を買って作って食べて風呂に入って課題をしなければ。


   +++++


「郵便局行こ」

マッキーを握りしめて、呟く。

柵に足をかけ、ゆっくりと池の中に入った。迷うことなく葦をかき分けて進み、蓮の葉がひしめき合っている場所に出る。

葉をかき分けて、蛹のような蕾のような物体に近づいた。どうやら少し大きくなっているようだった。光に透かされた内部でも、相変わらず輪郭がぼやけているが、幼体は大きくなっているのは明らかだった。

本当に、中身は何なのか、気になってさらに近づいてみる。

物体を包み込んでいる膜の、葉脈はわずかながら鼓動しているようにも見えた。

中の胎児がうごめいた。そのうごめきと同時に葉脈が鼓動していることに気づいた私は、気味悪さと不快感にその場から立ち去ろうとしたが、どうにも、その生き物から目を離せないでいた。

膜に遮られて見えないはずの、胎児の目が、私を射抜いたような感覚に陥り息苦しさを感じる。

早く視線をそらして、早くこの池から抜け出さないと、いけないのに。


   +++++


 寝苦しくて目が覚めた。

 まだ暗い。心臓が不必要に血液を巡らせている。うるさい。

 最近、春らしく気温が上がってきた。昨日の夜は雨が降っていて寒かったから布団をしっかりかぶっていた。今夜も同じようにして寝ていたのだが、どうも暑すぎたらしい。

 じっとりと背中が汗をかいていて気持ちが悪い。

 布団をはねのけて、息を吸った。火照っていた体が外側から冷やされていく感覚が心地よい。


   +++++


 気が付いたら、肩まで泥の中に沈んでいた。ちょっと顔を下に向ければ顎が水面についてしまう。

 私は、もうほとんど蕾の真下にいて、上を見上げているような姿勢だった。

 それは私の両腕では抱えきれないくらいに膨張して、明らかに、中の胎児は活動をしていた。手を動かし、葦を伸ばし、時々頭を動かしている。

水の、生臭さが息を吸うたびに入り込んでくる。けれど、気持ち悪さよりも私の意識は、脈打ちうごめいている蕾へとひきつけられて、それ以外考えられないでいた。

泥の中で弛緩したままの私の体に、得体のしれないものがゆっくりと絡みついているような気もするが、そんなことはもはやどうでもよかった。


   +++++


「何見てんの」

「ん?」

 私が見ていたスマホを、友人が横からのぞき込んできた。

「仏様?」

 この前ツイッターで見かけた、いわゆる仏教絵が嫌に目について自分でも調べていたのだ。

「きれいな絵だね」

「うん」

 うどんに、どうしておにぎりが付いてくるのか。お得感があるが食べきれるわけではない。


   +++++


 自分が水中にいるのは当然に思えた。

 濁っている。

 私は水中にいても、あの胎動を感じることができた。そればかりでなく、その姿も見える。

 彼女は生まれようとしている。

 そして、私にはそれが喜びだった。

 だんだんと視界が暗くなっていく。自分がもっと深く沈み始めていると分かった。私が沈む先には何があるのだろう。ふと、そんなことを思った。それを感じたのだろうか、彼女は私をあやすかのように、彼女自身から視線を外すことを許した。

 沈む先に見えたのは、無数の卵のような何かだった。

 緩慢とした思考でその何かを確定する。どこか見覚えがあるような気がしたのはどうして、人間の目玉だったというだけだ。無数の目が底でこちらを見ている。

 いや、私を見ているのではない。彼女を見ているのだ。

 彼らも私と同じだ。そのことに安堵を覚え、私は再び彼女を見つめることに徹する。

 美しい彼女が、生れ落ちるその瞬間を見届けるために。

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