Chap.14-3

 新宿五丁目にあるこの神社は、ビルとビルの間に挟まれていて、都会の隙間に忽然と現れたような印象を受ける。中に入ってみるまで、まさかこんな立派な神社が繁華街の片隅にあるとは思わなかった。砂利の敷かれた広々とした境内は二十四時間開放されていて、いつでも誰でも参拝することができる。

 月明かりに照らされた敷地は、静かでおごそかな雰囲気に包まれていた。帰りがけのサラリーマンやOLがときどき手を合わせて行く。僕とリリコさんは缶チューハイを片手に近くの石段に腰をかけた。

「普段はずいぶん静かなところなんですね。僕、酉の市しか来たことなかったです」

 酉の市は、商売繁盛を願った熊手が売られることで有名なお祭りで、年末も差し迫った十一月から十二月にかけて、この境内や参道にも屋台が並び賑わいを見せる。

「一平、酉の市で見世物小屋に入ったことある?」

「見世物小屋?」

 そんなものがあるのに全く気がつかなかった。見世物というくらいだから、サーカスのようなものだろうか。

「下世話なショーよ。女が生きたままヘビ食ったり、鎖を鼻に通したりするの。あたしはそういうアングラなノリが結構好きだから、ついつい見ちゃうのよねえ」

「ヘビを食べちゃうんですか? 生きたままで?」

 あまり気持ち良いものではなかった。

 リリコさんが説明をしてくれる。見世物小屋は昔の人達にとって娯楽のひとつだった。せむし男や、小人などの呼び込み文句で、生まれついての身体的な特徴すら見世物にし、過激なパフォーマンスで人々の興味をひいた。珍しいもの、怖いもの見たさってやつだ。メディアが発達する前に生まれた、アンダーグラウンドの文化。祭りのざわめきと神社に灯った裸電球の光、人々が見世物小屋の非日常的な熱気に呑まれていく……僕にとってそれは、大正時代や昭和をイメージさせるレトロな光景として脳裏に浮かんだ。

「この花園神社はね、芸事の神様が祭られているのよ。その縁があって今でも見世物小屋が、ここの境内で見られるのね。まあ今では年に一回だけれど」

 内容も昔に比べればきっと大人しくなっているだろうし、奇形を見世物にするようなことも今はしていないだろう。

「怪力女とか、人間ポンプとかさ、笑っちゃうような下世話なことも本気でやっていれば、芸事として神様にも認められてるってことかしらねえ。そういうのってたくましくていいじゃない? あたしもそんな風に女装したいわ」

「リリコさんの女装って芸術なんですか?」

 確かに見世物小屋に出ていても違和感はないかもしれないが……僕はおかしくなって吹き出してしまった。缶チューハイのほろ酔いもあった。月の光が穏やかに境内を照らしていた。

「何よ、今さら気付いたの? 口紅とかシャドウとか、どう見たって色の使い方が印象派じゃない」

 花園神社の歴史や、なくなってしまった歩道橋のような些細な町の変化まで。僕の知らない新宿の顔を、リリコさんはここに暮らし、沢山見て来たのだ。以前、タカさんが昔のことを話してくれた。二十代の頃のリリコさんは、今以上のエネルギッシュさで二丁目を闊歩かっぽしていたのだと。そこにはまだ自分の店を持たずにバイトで店子をしていた頃のタカさんや、その恋人のマサヤさんがいて。源一郎さんは、いつからカメラマンをしていたのだろうか。タカさんが『ちむどんどん』を開店させるときには、みんなで手伝ったと言っていた。タカさんやリリコさんの青春は、僕には手の届かない遠い日の出来事だった。

「ここ、よく来るんですか?」

「そうね。酔っ払っちゃってさー、楽しくて仕方ないんだけれど、ときどき孤独を感じることってあるじゃない? 周囲はすごく盛り上がって、自分もそれを楽しんでいるはずなのに、自分の身体から離れたところで、自分自身を見下ろしているような寂しさっていうのかしらね」

 はしゃいでいる自分が自分ではないように感じる……そんな気持ちになることが僕にもあった。嫌いなわけではないが、本質的に騒ぐことが自分には合っていないからだと思っていたので、リリコさんも同じようなことを感じていると知って意外に思う。

「そういうとき、よくここに来るの。センチメンタルな気分って、騒いでも消えてはくれないのよね。ひとりになった方が落ち着くわ」

「僕はそういう時、タカさんのお店に行ってました」

 ちむどんどんはそういう寂しさを感じさせない店だった。

「……タカさん、お店諦めて沖縄へ帰っちゃうって、本当なんですか?」

「本当よ」

 リリコさんは前を見たまま淡々と言った。手元の缶チューハイを両手で包むようにして持つ。

「この間、相談されたわ。まだみんなには言わないでくれって。タカ、強情だから一回決めたらくつがえらないわよ」

「タカさんが強情ってのはわかります」

 普段は人に合わせることが多いのに、こうと決めたら引かない人だ。それはこの一年でよくわかった。沖縄へ帰るという大事な相談をまず古い友人であるリリコさんに打ち明けたのだろう。それが自分ではなかったことが寂しかった。

「でもね。その方がいいのかもしれない」

 リリコさんが缶チューハイへ再び口をつけた。

「タカが自分で変化を口にしたのは、この六年で初めてなのよ。特にあのお店は、マサヤが生きていた頃のまま続けたい、そうしておきたいと、タカが望んでいたんだから」

 あの頃のまま、変わらない生活。住む部屋も一緒。毎日似たような時間に起きて、みんなのご飯を作って、お店に出勤する。昔と変わらない常連のお客さんたち。新しいお客さんがやって来ることもあるが、それはタカさんが繰り返す日常に訪れるのであって、新しい風にはならなかった。僕だってそのひとりだったのだろう。そんな変化のない毎日を望んでいたタカさんが、沖縄へ帰ろうとしている。いつか地元の沖縄で、手作り料理の居酒屋を出したい。タカさんはそう言っていた。

 僕はちょっと俯いて、

「リリコさんは、それでいいんですか?」

 と聞いた。

「あたしがタカを引き止めるようなことをしてどうするのよ? 何のために六年間、タカと一緒に暮らして来たと思ってるの」

「そういうことじゃないです」

 リリコさんの言葉を遮った。珍しく語気の強い僕に、リリコさんは細い眉をしかめた。

「リリコさんの気持ちを聞いているんです。タカさんが帰ってしまっても、リリコさんは構わないんですか? それでいいんですか?」

 リリコさんの僕を見る表情に、一瞬険しいものがよぎった。怒られる……そう思ったが、すぐにリリコさんの険しい表情は、ため息に変わった。

「一平、正直……最初っから、あんたのことが気に入らなかった」

 リリコさんの横顔を見る。

「マサヤに似てるのよ、あんた。外見もそう。そういう風に天然でお節介できちゃうところとかもね。タカがあの部屋に一平を連れてきたのは、マサヤの面影をあんたに見てるからだと思ったのよ」

 僕がマサヤさんに似ている。その言葉は、静かな水面に水滴が落ちたように、僕の胸の内に波紋を作った。

 そんなこと、今更言われてもピンとこない。見たことも会ったこともない、死んでしまった人に似ていると言われても。でも、それが本当だとしたら……初めて会ったあの日、ちむどんどんのあるビルの軒下で、タカさんが雨に濡れた僕に声をかけてくれたのは、マサヤさんの面影を見ていたからだとしたら、そうだとしたら……。胸の波紋は治まらず、どんどん広がっていく。

「タカは沖縄に帰った方がいい。それはあたしの正直な気持ちよ。六年間、あたしも同じように先へ進めなかった。あたしが見ているのは昔のままのタカだわ。でもそんなものはもうどこにもいないのよ。あたしだって、いい加減、止まった時計の針を進めなきゃいけない」

 昔ノンケに恋をしていた僕は、相手も自分のことを好きになってくれる可能性が少しでもあるのなら、どんなに幸せだろうと思っていた。気持ちを伝えることに何の躊躇ためらいもいらないのだから。だけど、例えゲイ同士だったとしても、長い時間をかけて、想いさえ伝えられずに終わってしまう恋があるのだ。リリコさんはそうしようとしている。

「一平、あんたこそどうするの? タカが沖縄に帰ってしまって。それで納得できるの?」

「わかりません」

 僕の返答に、リリコさんは缶チューハイの最後の一缶を飲み干してから、やれやれと声に出した。

「あんたもモノ好きよねえ。あんなメンヘラのこと好きになって」

 眩しく輝く月を見上げる。

「そっくりそのまま、お返しします」

 僕はコンビニまでひとっ走りして、もう一つずつ缶チューハイを買った。

 リリコさんと二人で缶を傾けながら、月明かりが作る境内の建物や木々の陰影を眺めていた。

 いつかリリコさんの名前の由来を聞いたことがあった。本名は、本間雪生(ほんま ゆきお)で、リリコとは似ても似つかない。それは雪の精霊の名前だった。外国の童話に出て来たリリィという白く透明な女の子に、子供の頃のリリコさんは憧れていた。自分の名前に付く「雪」というイメージに重ね合わせて。

『ずいぶんメルヘンチックな子供だったんですね』

 と言ったら、

『メルヘンチックじゃなきゃ、いい歳こいて女装なんかやってないわよ』

 とリリコさんは笑っていた。

 でも、僕は思う。リリコさんは決して純白の雪のイメージではない。どちらかと言えば、真っ白な雪原に舞い落ちた赤い花びらのような人なのだ。

「さて……夜は長いけれど、今日は化粧もしていないし。スパ銭でも行ってのんびりしようかしらね」

 リリコさんが空になった缶チューハイをくしゃっと潰した。コートの襟を立てて寒さに首を縮込ませる。

「でも、二丁目で友達が待っているんじゃないですか? また後で、と言ってましたよ」

 仲通りですれ違った女装仲間の二人は、様子がおかしいリリコさんのことを心配していたと思う。

「ああ、あいつらも誘ってみようかしら。あ、でもダメね。スパ銭なんて行ったら、せっかくの化粧を落とさせちゃうもの。悪いわよ」

 ここからほど近い場所に、最近出来たばかりのスーパー銭湯があった。去年、マンションの風呂釜が壊れた時にみんなで行ったことを思い出し、懐かしい気持ちになった。またあの頃のようにみんなで暮らす毎日は、戻って来ないのだろうか。

「あの……お風呂、僕も一緒に行っていいですか?」

「うーん、そうねえ。風呂上がりのビール、朝まで付き合ってくれる?」

「はい」

「だっさい館内着で、カラオケも歌うわよ?」

「いいですよ。お供します」

 と僕は笑った。


第14話 完

第15話「水族館のクラゲ」へ続く

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虹を見にいこう 第14話「花、雪、月と缶チューハイ」 なか @nakaba995

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