1.萌乃子

 本日の朝食。

 買い置きしていた食パンのトースト〜スライスチーズを乗せて〜


 朝餉を終えたら戸締りを確認し、革靴を履いて外に出る。爽やかな青緑をベースとした公立須伊達すだて高校の制服を身にまとい、リュック型の薄っぺらいスクールバッグを背負って玄関に立った。


 来客のチャイムが鳴る。

 グッドタイミング。がちゃっと鍵を上げて扉を開くと、外には女の子がいた。


「ゆーくん。おはよ」


 女の子は当たり前のものを見たように、淡々とした挨拶を紡いだ。


 朝霧萌乃子あさぎり ものこ

 俺の幼馴染の一人だ。


「おはよう。萌乃子は相変わらず整ってるな」


「何それ。『今日も綺麗だね』的な意味?」


「いや、身だしなみがきちっとしてるってこと」


 黒いショートの髪はボブというスタイルだろうか。いつもつやつやとしていて、乱れがない。肌もくすみがなく、すっきりと明るい色をしている。


「……何?あたしの顔、何かついてる?」


 まあ、顔が整っているというのもまた事実。彼女とすれ違えば、十人中十人は振り返る。特に目立つのは、しゃんとした背筋で強調される、すくすく育った豊満な胸。男なら振り返らざるを得ないだろう。ああ、男の俺が言うんだから間違いない。この意見の信憑性は高いはずだ。


「ゆーくん、あと五秒で答えなさい。あたしの顔に何かついてる?」


「え、あ、いや」


「なら意味もなくじっと見るのやめて。張り倒したくなるから」


「ごめん」


 即座に謝罪した。危ない危ない。五秒後にマジで張り倒されるところだった。


 萌乃子、性格がちょっときついんだよな……。


 彼女の見た目は、女優顔というか、美人寄りの可愛い系。アイドルグループにいても何ら違和感がないだろうと思える見た目だ。まあ、とにかく、あらゆる方向からモテる。


 だからこそ多少のきつさは仕方がないと、俺も理解している。萌乃子はあらゆるナンパとセクハラを斬り払い、嫉妬と悪意の荒波に揉まれてきたのだ。


 萌乃子の辞書に"泣き寝入り"という言葉はない。その生き様を傍目でみてきたからこそ、「俺は平凡でよかったな」と思える。容姿端麗というのは、人間関係の苦労が多いらしい。


 戸締りを確認して、萌乃子の横に並ぶ。それもまた当たり前のように。俺たちはいつもの道を歩き出す。


「そういえばさ」


 道中、萌乃子が話題をかけてきた。


「数学の課題やった?」


「うん、一応。わかる範囲で」


「何だ。残念」


「え、何が残念なんだよ?」


「『ノート写させて』って泣きついてきたら、千円ぶんだくろうと思ってたから」


 オウ。ちゃんとやってきてよかった。


 千円って、高校生からすれば十分な大金だ。何というぼったくりだろうか。


「金欠なのか?」


「前の月に服買いすぎたんだよねー。どうせ捨てるのに買い込む、悪い無限ループに嵌ってるの」


 萌乃子の長いため息が外気に落ちて、「あーあ。今月どうしよう……」と、独り言をつぶやき始めた。


「ねぇゆーくん、あたしに貢いでくれない?」


「断る」


「そんなこと言わずにさ〜。今ならスーパー美少女のあたしの隣で、彼氏ヅラできる特権つけちゃうよ?」


 ほれほれとエルボーで小突いてくる萌乃子に、俺はしかめ面を作って返す。


「自分でスーパー美少女とか言っちゃうのか」


「え、だって周知の事実だし?」


 凄まじい自信家である。


「んー、服の良し悪しとか、俺わかんないけど。誕生日プレゼントとしてなら考えるよ」


「いえーい、やったー! あたし明日が誕生日なんだー」


「嘘つくな」


「ちっ、バレたか」


「バレるだろプロレスの日生まれ」


「うるさい猫の日生まれ」


「ふっ。罵倒になってないな」


「何だとこの! ゆーくんだけ何気に可愛い日とかむかつく!」


「おい何をする」


「ハンマーロック!」


「いやほんとやめてお前のパワーはシャレにならないからな!?」


 俺の腕を掴んでぐっと後ろに引くのはプロレス技……ではなく、逆腕捕り。合気道の技だとか何とか。


 ちなみに猫の日は二月二十二日だ。プロレスの日は二月十九日。誕生日が近いから、お互いの家族の提案によって、二人まとめて祝われることもあった。


 ……今思うとあれ、ケーキ代の節約だよな。大人の事情は察すると悲しい。


 萌乃子とふざけ合い、たわいもない話をしながら、古民家が並ぶ旧住宅地に入り込む。通学路からは思い切り外れているが、これもいつものこと。もう一人の幼馴染を迎えに行くためだ。


"由良森"と表札が掲げられた家の前で、ぽちっとインターフォンを鳴らす。


「……出ないね」


 萌乃子が呟く。


 日本古民家、二階建て。しんと音沙汰のない家に、もう一度ピンポンの合図を送る。


「寝坊か?」


「その可能性ありきよねー」


 萌乃子がスマートフォンを取り出し電話をかけるが、しばらくして耳から離す。


「出ない」


「もう学校行ったとか?」


「ルシアが一人で登校できるわけないじゃん」


「いや……それはないだろ」


 幼稚園児じゃあるまいし。


 萌乃子は次に、ルシアのお母さんに電話をかけた。こっちは繋がったみたいで、「ルシアはまだ家にいるはず」という情報が。


「……」


 通話終了ボタンを押した萌乃子は、眉をひそめて古民家を見上げた。


「寝坊説が有力ね。ちょっと乗り込もうか」


「どうやって?」


「合鍵は裏庭にある柿の木のうろ・・の中に隠されているの」


「……何故そんなことを知っている」


「たまにルシアママに頼まれるからね。あの子の部屋の片付けとか」


 俺の記憶を掘り起こす。……なるほど。ルシアの部屋は、一般人が立ち入ると危険そうだからな。


 俺は萌乃子が散らかった爆発物おようふくを回収する様子を想像した。呆れ顔で地雷パンツをまとめる萌乃子。わたわたとするルシア。おや、ベッドの下にも何かある。気をつけろ、そこは魔窟だ。女の子の部屋にも秘密がある可能性が……。


「ゆーくん、変なこと考えてない?」


「いや別に」


妄想を中断。シラを切る。


 とにかく、女の子同士のつながりというのは深淵のようだ。


「けどさ」と、萌乃子は話を戻し、少し困ったように言葉を続ける。


「あたし、HRの前に委員会の仕事しなきゃいけないのよね。結構時間やばいかも」


 時刻は午前八時を回っている。ここから学校までは十分かかる。教室には八時半までにいなければならない。


 萌乃子の委員会というのも、生徒会だ。運動部に所属する朝練組と同じくらい、学生の中でも忙しい部類だろう。


「ま、いいわ。クラスの出席に関しては誰かに誤魔化してもらうから」


「できんのかよ」


「みかしゅんはいちいち生徒の顔確認してないから、返事さえすれば何とかなると思う」


 みかしゅんはクラス担任の愛称だ。女の先生だけど、かなりフランク……いや教師としてやや問題ありそうなフランクさだけど、そんな感じのテキトーな先生である。本名はなんだっけ。ホニャララみかナントカ。うん、忘れた。


 ちなみに、俺と萌乃子とルシアは同学、同年、同クラだ。なかなかの偶然である。


「ゆーくんも誰かに返事係、頼んだ方がいいよ」


「え、俺も巻き添え?」


「あたしにはルシアとあんたを無事に登校させる責務があるの。そしてあんたにはルシアを助ける義務があるの。お分かり?」


「……」


 ああ、もちろん。

 わかっては、いるんだが……。



 ……平凡な男子高校生が女の子二人と登校する理由。これにもそれなりの事情がある。


 俺は実家暮らしだが、実質の一人暮らしだ。常に親の目がない代わりに、萌乃子が俺の監視役を担っている。


 うちの両親の「よろしくね」をそんな頑なに尊守しなくても……と思うのだが、責任感の強い萌乃子は、託されたことを怠らない。


 俺が非行に走ったり、生活費を乱雑に使ったり、家にあんなことやこんなことを持ち込んだりしないか心配だという、面倒な親心の仕業である。


 ……。「心配」か。放任するくせによく言うよな。これでも家事には自信あるし、自立はいつでもできると思ってるんだけど。


 ……ちなみに、ルシアの場合はまた別問題。「ひとりにしておくと不安」(ルシアママ談)というのが理由だ。一人で登校できないは大袈裟にしても、確かに大ドジというか……ルシアだからな。その辺にほっぽりだしたらすぐ死にそうな気はする。


 あいつの朝が弱いのはいつものこと、テレビやゲームで徹夜して、休日の昼間は丸一日寝ていることもあるんだとか。引きこもり予備軍である。


 だから、昔からしっかり者の萌乃子がくっついていて、二人は何処へ行くにも一緒だった……とはいえ美少女二人というのもそれはそれで問題があるということで、俺も「男の子だから」という理由でぽんとつけられていた。二人のボディーガードというよりは、安全祈願のお守りのような役目である。


 まあ、そんな感じで。親ぐるみの付き合いが長い俺たちは、常に助け合って生きてきたのだ。高校生になった今でも、その関係は変わらない。


 萌乃子と俺は由良森家の裏庭に踏み込んで、ごそごそと柿の木から鍵をゲットした。


「なるほど。ここなら確かにわかりにくいな」


「話の流れで秘密の場所バラしちゃったけど、もし悪用したらただじゃおかないからね」


「……はいはい」


 たぶんだが、鍵の隠し場所は変えられるんじゃないだろうか。鍵から吊り下げられた、緑の襟がついた黄色のTシャツ型のストラップ (ブラジルのサッカーユニフォームがモチーフだろう)が揺れ動く様子をじっと眺めた。


「全く。ルシアはあたしがいないとダメなんだから」


 玄関前に戻ると、萌乃子がため息混じりに呟く。それは昔ながらの口癖だ。


 すらりとした細い指が鍵を穴に差し込み、かちゃりと回した。





 直後だった。


 開いた扉の向こうから、ばんと派手な色合いのくまのぬいぐるみが飛んできたのだ。

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