願い叶って弟は死んだ
寒さと空腹とで目が覚めた。傍らのスマホで時間を確認すると、また午前六時前だ。今日もやはり四月初旬並みの気温しかないらしい。併せて確認した気温は一桁だ。四月の北海道なんてまだ半分冬みたいなものだから、朝の冷え込みだって厳しい。
朝ごはんをつくるにはまだ早い。空腹を宥めるために煎餅を立て続けに三枚食べてから、玄関に新聞を取りに行った。
ふと、気が向いて、桜の木を見に行こうと思った。
何故、この時、見に行こうと思ったのか、後で振り返って考えてもよくわからない。
とにかく、「ふと思い立って」としか、言いようがない。
ともかく、私は桜の木を見に庭に出たのだが――近付かなくてもわかった。
庭の、一体どういう種類なのかはわからないけれど花びらの数がやたらと多い桜が、満開を迎えて咲き誇っていた。おそらくヤマザクラの一種なのだとは思われるその桜は、花びらの数が多いから見栄えがよいし、どういうわけか、全ての花が一斉に開花しているらしいことが近付いて見るとわかって、そのせいもあってか、咲き誇る桜の様子は圧巻の一言だった。
あれだけ桜が咲かない咲かないと話題になっていたのに、どうしたことだろう。蕾も付いておらず、咲く気配もないと散々テレビで言っていたのは、何だったんだろう。
私は不思議に思いながらも家に戻った。
貴志が起きてこないので父と二人だけで摂っていた朝ごはんの席で、桜が突如咲いたのはこの家の話だけではないということがわかった。朝のワイドショー番組ではどのチャンネルでも、「全国各地で一斉に桜が開花しました。一夜にして満開を迎えたようです」とかなんとか、興奮した様子のリポーターがまくし立てている。その様子を見たからだ。
「桜が咲いた? 今頃?」
「うちの庭の桜も、咲いてたよ。さっき、新聞取るついでに見たんだけど」
私に話し掛けるというよりはワイドショーに反応しているという風情の父に伝えると、こちらにちらりと目を遣って「そうか」と呟いた。
その様子から、庭の桜になど興味はないのだろうと思っていたのだけれど、父は、食後のコーヒーを飲み終えると鋏を持って外に出て、一枝の桜を持って戻ってきた。
「これ、お母さんのところに持って行ってやれ」
新聞紙に枝を包みながらぼそりと言う父に、母に対するほんのささやかな優しさを見たような気がして、私は少しだけ感動した。これで、自ら届けに行ってくれるなら、もっと感動できるし、何ならちょっと見直すかもしれないけれど、でも、父にそこまで望むことはきっとできないのだろう。
洗濯機を二度回し終えても、貴志が朝ごはんを食べに出てくることはなかった。この三ヶ月、時間は多少前後しても、貴志が三度の食事を食べないということは絶対になかった。これは、戻ってきて間もない頃に確認したことなのだけれど、父によると、風邪で高熱を出しているのでもない限り、貴志は毎食必ず食べに出てくるのだそうだ。その話を聞いた時、食欲旺盛なのはよいことだけれど、毎日ただ部屋にいるだけなのによくまぁお腹が空くもんだな、と半ば感心した覚えがある。
「ねえ。貴志の様子、見てきた方が、いいんじゃ……?」
私が切り出すと、父は「そうだな」と頷いて立ち上がり、貴志の部屋に向かった。ノックの音に続いて、「なぁ、貴志、入ってもいいか?」という、私に対しては絶対に出さない、
かつて私の部屋だった物置きの隣に、貴志が家を離れるまで、そして家に戻ってきてから使っている部屋がある。「よそ者に突っつかれるのは嫌うから」というなんだかすごく釈然としない理由で、私は貴志の部屋に立ち入ることを父に止められているけれど、別にそんな言い方で止められなくたって、私は貴志の部屋になんか行きたくもない。本当のことを言うと、自分の部屋だったところがどうなっているのか確かめるために物置きを開けに行った時も、貴志の部屋の前を通るのはものすごく嫌だった。
「貴志? 具合でも悪いのか? 寝ているのか? 開けるぞ」
何をそんなに
何があったのだろうかと思う間もなく
「美由紀、美由紀、来てくれ。貴志が。貴志が……」
と呼びつけられ、なんだか切迫したその声に反応して小走りで貴志の部屋の前まで行くと、父がドアを開けて入口で立ち竦んでいた。
「どうしたの?」と訊くと、父は部屋の中を指差し、「あれを見ろ」と言った。
「おそらく、死んでる」
そこには、敷布団の上に仰向けに横たわって喉の辺りを両手で押さえ、なんとも苦悶の表情を浮かべた貴志がいた。その表情は名状しがたいものがあった。これは一生忘れられないし、きっと夢にも出るな、とどこか冷静に思った。
死んでる、と父が言ったのは、貴志の口と鼻から夥しい量の血が流れ、身体や寝具を汚していたからだろう。
それに――あれは、生きている人間の顔ではない。あんなふうに歪みきったまま固まることは、生きている人間の顔ならばあり得ない。いや、顔だけではない。手も足も、ぴくりとも動かない。なるほど確かにこれは――死んでいる。
私はゆっくりと後ずさって貴志の死体から距離を取った後、踵を返してスマホを取りに戻った。
家の中で人が死んでいるのを見付けてしまった場合、どうするのが正しいのか。私はこういう事態に遭遇したことはなかったからよくわからなかったけれど、結論から言えば、貴志は明らかに死んでいたし蘇生の可能性もなかったから、警察案件となった。救急車は呼ぶだけ無駄、というわけだ。
警察の人は貴志の死体を見て、「いや……こういう変死は今日、お宅で八件目ですよ。いや、九件目だったかな」と、痛々しいものを見るような表情で言った。ということはあちらこちらでパトカーが呼ばれるような事態になっていたわけか。サイレンの音とか、全く気付かなかったけれど。
「ウチだけではない? いや、そんな騒ぎになっていたとは気付かなかったな」
私の思いを代弁するように父が言う。
「それにしても、こんな死に方……」
呻くように言葉を漏らす父に、表情は気の毒そうながら淡々と、警察の人は答える。
「ここは町の中心から外れてますしね、だから気付かなかったんでしょう。死因については、はっきりさせるために解剖に回すことになりますね」
解剖って……と呟き、何やら抵抗を示しているらしい父の声を聞きながら、昨日の夜、神様か何かに貴志の死を願ったことを思い出していた。
――いっそ、誰か、貴志を殺してくれませんか。
――神様でも、何でもいいから。
私は確かにそう願った。それが叶った、ということなのだろうか。
だけど、それはこんなに早く、こんな形で死んでほしいというわけではなくて。
でも、貴志が死んでくれれば私の重荷が確実に一つ減るのも事実で。
私は、喜んでよいのか、それとも悲しんであげるべきかもわからなかった。
涙なんて一粒も流さずに、ただ警察の人の質問に答えた。
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