誰か弟を殺してくださいと願った

 この家は広いけれど、私の部屋はない。

 私の部屋だった六畳間は父曰く「今は物置きになっている」ということで、こちらに戻ってすぐの頃、どんな様子なのかとそっとドアを開けてみたらなんだかよくわからないものがみっしりと詰められていて、その有象無象をどかして自分の場所を確保するのは無理だとあきらめた私は、台所で寝起きすることに決めた。

 台所で寝起きするなんていよいよ召使いみたいで嫌だな、とはもちろん思うけれど、かといって自室に移ってしまうのは「私はこの家に戻って、この家の娘としてこの部屋を使い続けます」という意思表示みたいでもっと嫌だから、召使いみたいに台所で寝起きする方を私は選んだ。


 

 あかりを落とし椅子に体育座りして、膝掛けに顔を埋めて、寝る体勢を取りながら私は思い出す。

 

 今夜は、最悪だった。


 夕方、帰宅した私に「貴志が、今日は天ぷらを食べたいと言っているからつくってやれ」と父が言うので、貴志は私に直接頼むのすら嫌なのかなぁとか、天ぷらってつくるの面倒だって知らないからこう気軽に頼めるんだろうなぁとか、いろいろと言いたいことはあったけれど、言っても無駄だとわかっているので用意した。

 

 エビとイカ、しいたけににんじん、なす、それにかき揚げ。

 全部で六種類は私としては頑張った方だけれど、怒られた。


 「衣がべちゃべちゃで不味いんだよ! お前、女のくせによくこんな不味いモンつくれるな!」


 ごめんなさい、と謝る私のお腹の、急所を狙って蹴りを入れてきた貴志は、不味い不味いと言う割には用意したてんぷらを軽く四分の三は平らげ、残りを父の分に回したら私の分は残らなかった。蹴られた時には吐くかと思ったし、痛くて食欲もなくなったから、それは別にいいのだけれど。女のくせに不味い料理しかつくれない役立たずでごめんなさいと謝らされたり、今度不味い料理を出したら殺すぞクソ女とすごまれたりしたのは正直、キツかった。

 料理があまり上手ではないことは、私自身わかっている。父にも、あらかじめ伝えてあったはずだ。家のことをしてほしいと言われても、私はそこまで家事が得意なわけじゃないし料理とかあまりつくれないよ、と。だから、父はよくも悪くも私にそこまで高い期待はしていない。

 でも、貴志はそうではないようだ。母の料理を食べて十八まで育ち、一人暮らしを始めた後はコンビニ弁当で済ませ、就職に失敗して実家に戻ってからはまた母の料理を食べているから、母以外の誰かの手料理を知らないし、料理をすることにどれほどの手間が掛かるか、一人暮らしの料理のクオリティがどの程度のものなのか、想像することができないのだろう。


 私は確かに一人暮らしは長いけれど、一人暮らし用の台所というのは使い勝手が悪いし、一人分の料理を毎食ごとに作るのはかえって面倒だから、余裕があれば簡単なものを何品か週末に作り置きしてそれで一週間もたせるか、ごはんだけ炊いてスーパーの総菜で済ませるかのどちらかで、凝った料理をつくる機会は少ない。特に揚げ物は、準備も後片付けも面倒なので家ではほとんどやらない。

 だからてんぷらの衣がべちゃべちゃだったと、言われればそうなのだろう。でも、てんぷらを美味しく揚げられなかったことは、役立たずでごめんなさいと謝らされたり、殺される覚悟をしたりしなければならないほど、どうしようもなく悪いことなのだろうか。女なら、どんな料理もササッと美味しくつくれて当たり前で、それができない女には価値がないのだろうか。


 いやそもそも、女ならば料理ができて当たり前だなんて、誰が決めたのだろうか。

 それを言うなら、男ならば仕事をしていて当たり前――ではないのか。父だってそうだった。その矜持が大きすぎて、母から仕事をする機会を奪ったほどに、「男は働いて家族を養うもの」という意識が高かった。その父を見て育ったはずの、男の、貴志は何故働いていないのだろうか。何故男のくせに働いていない自分を棚に上げて、女のくせに衣がべちゃべちゃの不味いてんぷらしかつくれない私を蹴るのだろうか。


 父は、貴志のことを「働きたくても働けない」と言った。それは、つまりだということだろうか。たとえば、鬱だとか。そうだとしたら、それは仕方がないと思う。私の周りでも、メンタル不調で仕事を休んだり、辞めてしまったりという話はよく聞く。今時、珍しい話でもなんでもない。

 貴志はどうなのかと戻ってきて三ヶ月様子を見ていたけれど、別に気分の落ち込みとかそういうのはなさそうだし、幻覚とか妄想とか、もっとガチめな感じの症状があるようにも見えない。まぁ、見る影もなく太ってはいるけれど、顔色はいいし、時にはワイドショーを見ながら社会批評を垂れていることもある。聞く限りでは、上からで偉そうではあるけれど、少なくとも、筋の通った思考はできている様子だ。

 つまり、貴志は、「働きたくても働けない」と言われる時に想像するような状態にはない。それでは何なのかといえば、ただひたすら「働きたくない」のではないかと思う。それは言動の端々から読み取れる。


 どんな「失敗」だったのか詳しくは知らないけれど、貴志は新卒で就職した先で失敗して、二年ほどで辞めてしまった。それ自体は傷付く体験だっただろうし、「もう働きたくない」と思い詰めてしまうのも無理はない、とも思う。だけど貴志はその「失敗」からかれこれ十数年、「次」に向けた行動を起こしていない。ただ、家にいる。ここまで来ると一種の病気かもしれないが、「働きたいという気持ちになれない」病気があるとして、それって治療法はあるのか。もしかして、付ける薬がないというやつではないのか。

 

 付ける薬がないのなら、一生――死ぬまで、家にいる貴志を、誰かが養わなければならないということだ。今は、父の年金で、父の持ち家で暮らしているけれど。その後は。どうなるのだろう。


 私は、母の代わりとしてこの家に戻ってきた。母の面倒を見ることと、百歩譲って、父にかしずくことについては覚悟ができている。それは、言い方は悪いけれど「終わり」が見えているから。でも、貴志のこととなると、別だ。

 若くて、元気で、私のことが嫌いで、暴力を振るう。こんな相手と二人暮らしなどしたら、私は何日と経たずに殺されてしまうのではないだろうか。いや、ならまだマシで、貴志の寿命が尽きるまで数十年間、奴隷の如く暮らすことを余儀なくされる可能性の方が高い。

 こうして今、家に呼び戻され、留め置かれている時点で私の人生終わったようなものだけれど、貴志の世話係になることが確定してしまったらもう本当におしまいだ。


 

 いっそ、誰か、貴志を殺してくれませんか。

 神様でも、何でもいいから。


 

 疲れ果てて眠りに落ちる直前にこっそりと呟いたその願いは、翌朝、成就することとなった。

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