母は桜の思い出を語る
父だって、最初から母の入院に対して無関心だったわけではない。
母が倒れてすぐ、緊急治療室に入っていた頃は、父と交代で病院に泊まり込んだ。一週間ほどで母がどうにか生命の危機を脱すると父が病院に足を向ける機会はだんだんと減り、片麻痺と認知機能障害の状態が固定し、改善の兆しを見せなくなると、病院に通うのは私だけになった。
父にしてみれば、さすがに臨終に立ち会わないわけには行かないし、このまま意識を取り戻さなければ厄介だからと思って病院に泊まり込み、足繁く様子を見に訪れたたけれど、とりあえず当面は死ななそうなので安心したのだろう。そして、意識があるとはいっても、この状態では何かと手がかかるし、話も通じにくくて相手をするのが面倒で、世話を私に任せて自分は引っ込むことにした。そんなところだろう。
死なれては困るし植物状態になってもらってもつらい。けれど当面そういう心配がないならば面倒を見たくないし、
それが、父の、母に対する偽らざる気持ちなのだと思う。
立場が逆で、父が倒れて母がその世話をすることになるならば、病院とか親戚とか世間とか、そうしたいろいろな相手から、家族として、妻としてのこの上ない献身を求められるのだろうに。
父は大方、今頃は暇を持て余して駅前のデパートにでも出掛けているのだろう。地下に入っている菓子屋で好きなクッキーを買う以外は何をするでもなく、ただ全フロアを満遍なく徘徊した後、家に戻ってまたテレビを見ながら、私を待つ。クッキーを食べるには紅茶が必要だけれど、自分で用意することはできないから。
母がいるのは、町で一番大きな病院の五〇二号室の四人部屋。家からはバスで三十分くらい。病院への移動時間もまた、私に許された貴重な自由時間ではあるのだけれど、特に母に会った後、帰りのバスの中では、母の様子を思い出したり晩ごはんのことを考えたりと頭の中が忙しくて、なんだか休まらない。
母に会うと、私は必ず最初に訊く。
「今日は、何月何日、何曜日か。わかる?」と。
母はにこにこするばかりで答えないので、私が、カレンダーを見せながら教える。
「今日は、六月十五日、月曜日だよ」
やっぱり今日も答えなかった母に、私は優しく教える。ただでさえ、入院生活を送っていると日付や曜日の感覚はあやふやになっていくものなのだろうけれど、母の場合は認知機能障害のせいで、今日は何月何日で、今は何時何分なのか、といったことすらわからなくなっているのだ。
「月曜日? 美由紀、仕事は? 休みを取ってるのかい?」
「お母さんは、そんなこと気にしなくていいんだよ」
お母さんの世話のために辞めたの――などとは言えず、母に見えないように左手の爪が掌に食い込むくらいグッと握りしめながら、優しく答える。笑顔をつくって。
私に仕事を辞めてこちらに来るように言ったのは母ではない。父だ。母が倒れたから父は私を必要としたけれど、だからといって母が悪いわけではない。
むしろ、母は――可哀相な人だ。
結婚する前は薬剤師として働いていたのにそれを辞めさせられて、私と貴志が大きくなった後、パートでもいいからまた薬剤師として働きたいと言っても「俺の稼ぎだけでは足りないと言いたいのか」となじられて却下されて、個人的な友達付き合いすら制限されて家に押し込められてひたすら父と、貴志の言いなりになる日々を送ってきた。母の病室に私以外の見舞客がいないのは、母の世界がそれほどまでに狭かったことの現れだ。
奴隷的な生活を強いられた数十年分のストレスのせいでお母さんは倒れたんだ――医学的なことはよくわからないけれど、私はそう確信している。
「桜は、もう散ったかい」
「桜? まだ咲いてもないよ。今年は日本中どこでも、桜が咲いていないんだよ」
母はこのところ、桜のことを尋ねてくる。あの、庭の桜のことを言っているのだろう。六月に入ってから、今日の日付を教えると平日ならば私の仕事のことを訊いた後、桜は、と口にする。二週間前は、「そろそろ咲くかね」と言っていたし、一週間前には「今年も綺麗に咲いてるかい?」と気にしていた。
「花が終わると、虫が付くから嫌だねぇ」
ぼそりと呟く母の様子に、あぁ、やっぱり今日もちゃんと会話するのは無理か、と思いながら、そうだね、と答える。
「昔、あんた達が小学生だった頃、あそこに敷物敷いて、お花見ごっこって言って遊んでたの。お茶飲んで、お菓子食べながら。覚えてる?」
「うん、そんなこともしたね」
貴志は小学生の頃までは、弟として私に甘えてきたし、時にたわいのない喧嘩をしながらも普通の姉弟として仲良くしていた。「お花見」をいうものを先に知った私が誘って始めたお花見ごっこは、私が小学校四年、貴志が二年の頃から三年ほど、毎年六月の桜の花盛りの時期にしていた遊びだった。遠足用のレジャーシートを引っ張り出して、水筒に麦茶を入れてもらって、庭の桜の木の近くに二人向かい合って座って、桜が綺麗だねぇとか言いながらスナック菓子を食べる、なんということもない遊びだけれど、それでもなんだか不思議なほど楽しかった記憶がある。
可愛い弟だった貴志が私のことを「お姉ちゃん」と呼んでくれなくなったのはいつからだっただろう。父の真似なのか事あるごとに「女のくせに」と馬鹿にしてくるようになったのは。私の何かが逆鱗に触れると、殴りかかってくるようになったのは。
母の、あっちに行ったりこっちに行ったりで要領を得ない話に笑顔で適当な相槌を打ちながら、本当にぶつけるつもりはない、ささやかな恨み言を心の中で呟いた。
――お母さん、貴志に何かされても庇ってくれなかったのはちょっとひどいって、私、今でも思ってるよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます