私はこの家の専属家政婦になるの?

 家に戻って二度目の洗濯の準備をしようとしたら、呼びつけられた。

 「おい、お茶を淹れてくれ」

 

 「はい」と答える。それ以外の選択肢は、ない。

 

 呼びつけたのは父である。居丈高な調子ではなく、ただ、当然の如く、呼びつけて命令する。感情らしい感情を込めることも、私の名前を呼ぶこともせずに。

 かつてこうして呼びつけられ、命令されていたのは母だった。それが私に、取って代わった。

 そうしてただ座ってくだらない朝のワイドショー番組を眺めている暇があるなら、自分が飲むお茶くらい自分で淹れればいい。そう思ったとして、言う勇気は私にはない。父親が、男が偉いこの家で、娘で、女である私が逆らうことなど考えられない。


 淡々とお茶を淹れ、「どうぞ」と座卓に置きながら、それにしても人って老いるといろいろ劣化するんだな、と、心の中で独り言ちる。かつての父はニュースを見るにしてもNHKと決まっていたし、実のないバラエティ番組やワイドショーなど決して見なかった。それが今は家にいる間中ずっと、かつて「低俗だ」と馬鹿にしていたはずのテレビ番組を眺めて日々を送っている。妙な思想にかぶれたりしないだけマシではあるのかもしれないけれど、こういう形で親の老いを実感してしまうというのは少し悲しい。


 テレビが一番よく見える、弟の貴志の指定席には、中途半端に食い散らかされた朝ごはんの皿が残っていた。私が外で洗濯物を干している間に、部屋から出てきて食べたのだろう。せめて食べ終わった後の食器を下げることくらいはできないのかと思うし、この家に戻ってきて間もない頃に、「それくらいのことはできないのか」と父に尋ねたのだけど、そうしたらにべもなく返された。


 「お前がやってやれ。あいつには無理だ」と。


 この程度のことが無理なはずがあるか、と思うけれど、父がそう言うのならばそうなのだと、受け入れるしかないと判断した。だから、貴志が食べ散らかした食器を見ても、何も言わないことにしている。今日も黙って食器を台所に運び、食べ残しをゴミ袋に捨ててからシンクに沈め、洗うのは後回しにして洗濯の準備に取り掛かる。お昼ごはんは何にすればいいだろうか。チャーハンは駄目だ、この前作ったら「お前の作るチャーハンは不味い。女のくせにこんなものしか作れないのか」と貴志になじられたから。




 東京で暮らしていた私がこの家に戻ってきたのは、三ヶ月ほど前。ちょうど、本来ならば桜前線が首都圏に到達する頃合いを迎え、桜が咲かない異常事態がメディアで一段と大きく報道されるようになってきた頃のことだった。

 母が脳卒中で倒れたから、その世話や家の中のことをするために戻ってきてほしい――珍しく電話をかけてきた父が、私にそう要請したのだ。その時の会話を思い出すと、今でも怒りがこみ上げてくる。


 「そう急に言われても私だって働いているから難しい」と言えば「どうせお前は派遣社員だろう」と言われ、確かにその通りだけれど、今の職場からは正社員としての直雇用の誘いも来ているからできればこのまま続けたくて、「大変なのもわかるけど、お父さんと貴志でどうにかならない?」と聞けば「俺も貴志も男だから家のことはわからん。お母さんだって、娘のお前に世話してほしいだろう」と返ってくる。

 

 派遣社員だから、きちんと働いているわけではないから。

 女だから。娘だから。

 だからそんな価値の低い仕事など投げうって戻ってこい。


 要するに父はそう言いたいのだということがひしひしと伝わってきて、普段はお互い触れないようにしているところにまで私は踏み込んでしまった。

 こんなふうに、言ってしまった。


 「貴志にやらせればいいじゃない。確かに男で、家事はやったことないかもしれないけど、どうせ仕事だってしないで、家に閉じこもってるんでしょ? この際だからせめて家の手伝いくらいさせたら?」

 

 「お前はそんなひどいことを言うのか。あいつは働きたくても働けないんだ。あいつだって苦しんでいるのに、よくも言えたものだな、そんな薄情なことを」


 冷え冷えとした父の声に私はすくみ、そのまま、一週間以内に仕事にケリを付けて戻ることを約束させられた。派遣先に家庭の事情で辞めなければならなくなったと伝え、急な話でありながらなんとか円満に最終日を迎えた。その夜、私が独りでどれだけ泣いたか、父は知らないし、興味もないだろう。たかが娘の、替わりが誰でもいる派遣の仕事を辞めた話になど。

 気に入っていた職場だった。正社員化が叶えば、長く安定して働き続けることもできるはずだった。そのチャンスを、私は自分の意思ではなく父に辞めろと強制されたせいで、棒に振ってしまった。

 

 家に戻るとして、東京に帰れるのはいつになるのかわからなかった。電話で聞く限り、母の状態はかなり悪いようだったから、もしかしたらこのままなし崩しに母の後釜に据えられることになるのかもしれない。そして残りの人生を、一家の主婦という名の、タダで使える専属家政婦として送ることに、なってしまうのかもしれない。


 戻ってくる前に抱いた危惧は、現実となりそうだった。母は一命をとりとめ、意識も取り戻したが片麻痺と認知機能障害が残った。入院から三ヶ月が経ったことだし、と専門病院への転院を促されているが、リハビリを受けさせたとしてもどの程度機能が回復するかはわからないという。父は、どうせリハビリなんかしても無駄なんだからと突っぱねて病院からの要請には応じようとしない。要は、面倒なのだろう。

 少なくとも、母が五体満足な状態で家に戻ってくる可能性は低い。ということは私の運命についても、推して知るべしだ。


 父からの強制に近い要請を断ることができる強さを、お父さんも貴志も大人なんだからいざとなったら自分たちでどうにかするだろうと割り切れる冷酷さを、私が持ち合わせていれば、きっとこんなことにはならなかったのに。

 

 そんな後悔に苛まれるが、実際のところ私は強くないし、冷酷になりきることだってできないから、結局こうなる以外あり得なかったのだろう。だから仕方がない。くよくよ後悔するくらいなら、現状を受け入れる努力をする方がまだ生産的というものだ。


 わかっている。わかっているけれど――こんなの、とても受け入れられない。

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