第5話 聖女の誘拐事件
カークはメルファが誘拐されたと聞き、胸が張り裂ける様な痛みを感じた。
そして、静かな怒りが沸々と湧き上がっていった。
誘拐犯への怒り、父親への怒り、自分を取り巻く全てに対しての怒り。
何より……煮え切らなかった自分への怒り。
こんな事になるまで気持ちが分からなかった自分に無性に腹が立った。
周りのせいにして自分の気持ちを周囲に認めさせる努力をしなかった。
彼女を失う時になって、初めて本当の気持ちに気が付くなんて、なんと愚かなのだろう。
彼女を失いたくないっ。
メルファをどうしようもなく……好きだ。
そのためにどうすべきかを考える。
それが自分のしなければならない事だ。
今、ハッキリと分かった。
諦めるなんて……もう、できない。
私が拒絶したあの日から彼女への想いを封印しようと努力した。
でも……今回の事で一気に彼女への想いが引き戻されてしまった。
彼女を失いそうになって、諦める事が無理なのが嫌というほど分かった。
これでメルファと永遠に会えなくなったら……。
カークはそう考えて、体が身震いした。
そしてその考えを振り払う様に首を横に振ると、拳を強く握り締める。
そんな風には絶対にさせないっ。
彼女を何としても救出しなければならない。
聖女だからじゃない。
私の……何より大切な愛しい人だからだ。
彼女も自分の事を少なくとも好意を持ってくれているのは分かっている。
好意は私の想いよりは強くないかもしれない。
それでも、彼女が自分を少しでも必要としてくれるなら最大限の努力をしたい。
けれど、それは彼女を救い出してからだ。
今は、彼女を無事に救出する。それが最優先事項だ。
どうか無事でいて……メルファ。
カークは早る気持ちを抑え込む様に口を強く引き結ぶと、顔を上げて前を向いた。
もう迷いはないという様に、真っ直ぐな瞳で……。
◈·・·・·・·◈·・·・·・·◈
王太子達は誘拐犯の潜伏先に突入して、無事に聖女奪還に成功した。
救出した時にメルファは眠ったままだったが、騒ぎで目を覚ました。
カークが聖女の元へと駆け寄り強く彼女を抱き締めると、メルファは何が起きたのか分からず最初は困惑していた。
だが、直ぐに状況を思い出したらしく、カークの胸に縋りついてきた。
その体は微かに震えている様だった。
カークは優しく頭を撫でてそっと呟いた。
「無事でよかった……」
それを聞き、メルファは歯を食いしばると、カークの服を掴んでいた手が更に強く握り締められた。
強く手を握っていないと、泣き出してしまいそうだったからだ。
その後、王太子の指示によりカークが学園の寮までメルファを送り届ける事となり、2人は到着した馬車に乗り込んだ。
カークはメルファの直ぐ隣に座り、肩を寄せ合う様に寄り添っていた。
メルファが言葉を発する事はなく、ただ馬車の音だけが辺りに聞こえていた。
カークは何も言わず、ただ黙って彼女の温もりを感じていた。
やがてしばらくして、ようやくメルファが口を開いた。
「助けてくれて……本当にありがとうございました。」
そして顔を上げるとカークを見詰めた。
そこには苦痛に押し潰されそうな、悲痛な表情が浮かんでいた。
「聖女様……」
カークが思わずそう呼ぶと、メルファの顔が更に苦痛で歪められた。
「あなたは……、その名前で、呼ばないで……」
その言葉にカークはハッと我に返る。
そしてそっとメルファの手を取ると、その手に口づけを落として言った。
「では、メルファと……そう呼ばせてください。」
メルファは、その言葉が嬉しくて泣きそうになったが何とか押し留めると、囁く様に言った。
「……ありがとうございます。」
「では、メルファも私をカークと呼んで下さい。」
あまりに真剣な瞳で見詰めてくるので、メルファは顔が赤く染まっていくのを止められなかった。
そんな彼女を見たカークは、募る想いが溢れ出す。
ああ、……なんて可愛い女性だろう。
こんな顔、誰にも見せたくない。
どうかその瞳に自分だけを映して欲しい……。
「カーク……様……」
照れながら顔を真っ赤にさせて言う彼女を見たカークは、抱き締めたい衝動を抑えられずに、握り締めていた彼女の手を引いた。
メルファがカークの胸の中に収まると、そのか細い体を優しく抱き締めた。
メルファの甘い香りが強くなり、カークの鼻が刺激される。
カークは、心が満たされていくのを感じた。
彼女の体の温もりを感じながら本当に無事に助けられたんだと実感でき、カークはようやく安堵する事ができた。
すると、メルファが堰を切った様に泣き始めた。
その弾ける様な激しい感情をカークはただ黙って受け止めた。
まるで、今までの空白の時間を埋めていくように。
そして2人の心がゆっくりと満たされていくのを感じた。
問題は山積みなのは分かっている。
けれど……今は何も考えたくない。
ただ、この温もりだけを感じていたい……。
それからしばらくして、ようやく涙が落ち着いてくると、メルファが口を開いた。
「ご、ごめんなさい。こんな風に取り乱してしまって……」
2人が離れると、カークは優しく微笑みながら答えた。
「いいえ。こんな事があったんですから当然です。」
メルファは鼻を啜りながら、少し恥ずかしそうに言った。
「ありがとうございました。少し落ち着きました。」
カークはハンカチを取り出すとメルファに差し出した。
「メルファのためなら、いつだって力になります。」
それを聞いて、メルファは再び顔を赤くさせた。
いつもなら、からかうなと怒るはずのメルファが顔を下に向けると、恥ずかしそうに言った。
「う、嬉しいです……」
予想外の反応にカークの体が硬直した。
そしてメルファはカークからそのハンカチを受け取ると、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い隠した。
カークの胸の鼓動が高まっていく。
なんて事だ……可愛すぎるっ。
メルファは天使だ。うん、間違いない。
ああ、キスをしたくて堪らない。
カークはメルファの両腕を掴むと、覗き込む様にして言った。
「メルファ。顔を見せて……」
だがメルファは恥ずかしそうに首を横に振った。
「嫌です。は、恥ずかしい……」
「メルファ。あなたの顔が見たい。」
カークは手に少し力を込めると、彼女の手があまり抵抗する事なく素直に顔から離れた。
その照れた表情は、とても魅惑的でカークは思わずメルファの頬に手を触れた。
その柔らかな感触にカークの気持ちが高まっていく。
メルファは照れながらも綺麗な空色の瞳をカークに真っ直ぐに向けてきた。
そして、2人の顔がゆっくりと近づいていった。
だが、今にも触れそうになったところで、無情にも馬車が停車した。
「学園の寮に到着いたしました。」
騎士の声が外から響いた。
2人の距離が止まる。
お互いの瞳に相手の顔が映り込んでいるのをしばらく黙って見詰めていたが、カークは軽い溜め息を吐くと、メルファから離れて言った。
「……仕方ありません。降りましょう。」
「は、はいっ」
メルファが慌てて答えた。
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